ソウェトへ (11/25 南アフリカ) | MY LIFE AS A PIG

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山と農業と旅を愛するAkihisaのブログです。
高崎高校→北海道大学農学部→銀行員(札幌・鹿児島・福岡・US)→旅人(日本縦断・世界一周)→大分大学医学部(編入)→明日は何処…
大分朝読書コミュニティBunDoku主宰/NPO法人NICE GWCコーディネーター/財務経営アドバイザー

南アフリカの歴史を振り返ると、南アフリカの先住民は実は黒人ではなく、黄褐色の肌を持つコイ族とサン族でした。
彼らはアフリカ大陸最古の民族と言われています。
(一方で南アフリカは人類発祥の地とも言われているので、場合によっては彼らが現存する最古の…?)

現在の住民の約8割を占める黒人たちが南下して南アフリカに入ってきたのは比較的遅く、15世紀頃と言われています。
それからヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama;ポルトガル)が世界一周の途中に立ち寄ったのが1497年で、
オランダ人(ボーア人)による本格的な入植がはじまったのが1652年。
イギリスが、ナポレオン戦争後色々とあって、最終的にイギリスの植民地になったのが1814年。
その後、ボーア人とイギリス人との間で何度か内戦がありましたが、最終的に南アフリカが国として現在の形になったのは、第2次ボーア戦争(1899年~)後の1910年、南アフリカ連邦が成立してからとなります。

当時、南アフリカ連邦を築いたのは、主にボーア人(オランダ系白人)たちでした。
彼らは建国後すぐに白人優先の法律や先住民土地法を制定し、続く1924年からのヘルツォーク内閣が人種差別法案を次々に成立させ、アパルトヘイトApartheid(人種隔離政策)への道を加速させていきます。
(法制としてアパルトヘイト政策が確立したのは1948年)

その後、南アフリカ政府は国際社会から非難を受けながらも頑なに人種隔離政策を続け、ようやくアパルトヘイト撤廃法案が成立したのはつい1991年のコト。
さらに、1994年に全民族が参加しての議会選挙が行なわれてネルソン・マンデラが大統領に就任。1999年から後任のムベキ大統領が前マンデラ大統領の意志を継ぎ、2009年からはズマ大統領に交代していますが、今も少しずつ、少しずつ、アパルトヘイト時代に作られた人種間の壁とゆがみを解消しようとしています。
(なお、マンデラ大統領が誕生する1994年の選挙も平穏無事に行なわれたわけではなく、ヨハネスブルグ中心部での爆破、ヨハネスブルグ国際空港(現O.R.Tambo国際空港)の爆破といった過激派のテロ行為が行なわれる中、何とか全国民が参加しての選挙が実施されました)

そんなわけで。
図らずも南アフリカを旅する機会を得た今、アパルトヘイトの歴史を外すわけにはいきません。

アパルトヘイトの時代には、様々な人種差別がありましたが、典型的なひとつとしてタウンシップTownship、つまり「政府によって区分けされた住居地」の存在があります。
タウンシップをフラットに捉えれば、アパルトヘイト時代に人種毎に住み分けさせられていた居住区すべてを指すはずなのですが、実際には「黒人を一部の居住区に閉じ込める」コトで人種間の住み分けをしていたため、タウンシップと言えば一般には旧黒人居住区を指します。

ヨハネスブルグ近郊にあるソウェトSoweto(South west Township)は、南アフリカ中に存在するタウンシップの中でも最大の黒人居住区です。

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黒人居住区と聞いて、最初はいわゆるスラムslumを想像して行きましたが、過去にはスラム的な生活を強いられていたのかもしれませんが、現在のソウェトはスラムのイメージからはかなりかけ離れています。

昔からある中心部は、確かにソウェトの中でも貧しい人たちが住んではいますが、一応は政府の支援による住居があり、お金がない人は格安でそこに住むコトができています。
(現在は収入に応じてソウェト内で住める家・区域が分かれてくるようです)

さらに周辺部には(あくまでソウェト内ですが)、高級住宅街と言っても過言ではないキレイに整備された家々が並んでいて、「ココはソウェトでも裕福な層が住んでる辺り」とのコト。
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もう、「ソウェト=貧しい黒人居住区」ではないんですね。
どこに住んだって良いのだけれど、ただ、昔ながらの黒人コミュニティがココにあるから今も住み続ける、住み続けたい、一つの地域コミュニティなんですね。

また、外からソウェトに入ってくる人は後を絶たず、現在もソウェトは拡大を続けているそうですが、それはこのコミュニティを求めてくる人もいれば、他での生活が厳しくなって来る人もいるそうです。
(完全に理解できたわけではないですが、おそらく南アの市民権を持っている人であれば、ココの格安住居なりを利用できるのだと思われます)

ソウェト内を案内してくれた、ソウェトに住む黒人ボランティアの人から、そんなたくさんの話を聞きながら…。
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ココはそんな、ちょっと不思議な、でもとてもとても温かい黒人コミュニティです。

ちなみに、ソウェトには他にもいくつか観光地的な見どころもあって回ってきたので、ご紹介まで。
(宿で一日ツアーとしてパッケージ化されてて、9時~15時まで込み込みで580ランド=5400円でした)


ヘクター・ピーターソンHector Pieterson博物館
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1976年6月16日、黒人の学校でもアフリカーンス(オランダ系住民の言葉)で授業を行なうコトを必須とする政府方針に反対した学生たちのデモに対して警官隊が発砲し、700人以上の死者を出した事件がありました。
ヘクター・ピーターソン(13歳)は、その銃弾に倒れた最初の犠牲者。

ココには当時の様子を伝える写真や映像、それに外には1976年6月16日記念碑があります。
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マンデラ・ハウス
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ネルソン・マンデラNelson Mandela氏が1963年に逮捕されるまで住んでいた家。
そっか、彼もソウェトに住んでいたんですね
学生のボランティアガイドがマンデラ氏の生い立ち等々について話してくれました。

アパルトヘイト・ミュージアムApartheid Museum
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アパルトヘイトの歴史が詰まっているミュージアム。
ココは、行く価値があります。
映像資料が豊富で、非常に鮮明で生々しい報道映像などがたくさんあって衝撃を受けます。
そしてそれらが白黒映像とかではなくって、今見ても違和感のないクオリティの報道映像なところに、本当につい最近まで、これほどの人種差別が行なわれていたんだと思い知らされます。

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そんな南アフリカの、つい最近まで現実にあった負の歴史。



補足:

ちなみに、これは必ずしも遠いアフリカの異国だけの話というわけではないんですよね。
日本には、アイヌ民族に対する差別法(旧土人法)がつい1997年まで存在していたのだという事実に、日本人として、北海道に住んできた者として、目をそらすわけにはいきません。