休息小屋ジーノ

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徒然なるままに、個人的な想いを。

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「Vision」と「Work Hard」



2012年にノーベル医学生理学賞を受賞した山中教授の座右の銘だという。



「Work Hard」は、誤解を恐れずに言えば「誰でも簡単に」出来ることだ。
体に多少負荷がかかっても、普通に健康であれば無我夢中に頑張ることは
できるし、自分が思ってるよりも世の中にはやさしい人って案外たくさんいて、
皆が「よく頑張ってるよ」「本当に一生懸命働いてるね」と労ってくれる。
「とりあえず頑張って」いさえすれば、この世界では認められなくもないのだ。

僕はそれ自体は悪いことではないと思う。頑張っている者が少なくとも
マイナス評価にならない状況は、「頑張り屋」にとっては大変だけれども悪くない。

だが、その働き方に「Vision」がなかったら?
どういった不都合が考えられるだろうか?

入社一年目の今、自分は「Work Hard」「No Vision」の働き方をしている。
そういう働き方は若い今は良いか知れないが、人並みに年を食いある程度責任
のあるポジションになったとき、仕事の仕方が「とりあえず頑張る」で通用
するだろうか?

答えは考えるまでもなくノーである。

もちろん、仕事のあらゆる場面において周囲へのアピールも含めて「頑張る」ことが
一定の効力を発揮するのは理解しているし、今後自分もその策略をある程度ずる賢く
実行していくつもりもある。

だが、「Vision」が」なかったら?

なぜ働くのか? 長期的な目標は? 仕事で成し遂げたいことは何?
自分は人生で何をしたいの? 人からどう評価されたいのか? 
何を大事にしているか? どういった価値観で行動しているか?

そういったあらゆる自問自答もなくただ無為に「Work Hard」に熱中する人生は、
それはそれで「頑張った感」「何となくの充実感、働いたなあという実感」は
得られるかも知れないが、それ以上の段階にはいけない。「一兵卒」としては
限りなく有能かも知れないが、少なくとも人の上に立つ「将軍」「軍師」の器ではない。

「仕事に打ち込む」とはただあくせく長時間働くことではない。順番が違うのだ。
まず、こうしたいこうなりたいという「Vision」が先に来て、それを達成するために
「Work Hard」が必要かもしれないし、そうじゃないかも知れない。仕事を辞めることも
全然あり得ると思うし、すべては「Vision」次第なのだ。


「若いうちはとにかく一生懸命働き、自分の限界を知るのが良い」


仕事は試練や修行であり、それを美徳と捉える風潮は社会の至る所に根強く存在している
気がする。だが、何のために働くかを徹底的に考えることなく今の時代を生きてはいけない。
僕は今後、「Vision」なき「Work Hard」は悪しきものとみなして生きていく。

今までの人生では、学校には先生、スポーツにはたいていコーチがが付いていた。
だが、社会に出たらそんな都合の良い水先案内人はいない。僕自身が、自分の人生の
船長となって舵を執ってやる必要があるのだ。

気付かない内に自分の行きたくない方向に進んでいた(ハワイに行きたいのにインドにいた)
なんてことのないよう、定期的に自分のコンパスをメンテナンスしてゆこう。

僕が今日考えたのはそういうことです。


追記
もちろん、「Work Hard」から見えてくる「Vison」だってあると思います。
まさに今の自分がそう。「Work Hard」への立向かい方は次のいずれかだと思っていて、
今回のお話では、まず③で行きましょ、って話。実は①と②って正反対のこと言ってる
けど似通っていて、どちらも「Vision」が無いから質は違えどもかなり苦しいと思う。

①「Work Hard」教に入信し、忙殺神を信仰。
②「Work Light」に華麗に転職。
③「Vison」-自分の軸を持つ。



今の僕自身の日常を昔の僕が見たら、どんな感想を抱くのだろう。

虚ろな目で、ゾンビのような足取りで「カイシャ」へ向かう悲しいサラリーマン?
入社したばかりで気苦労も多いようだけれど、地道に頑張っている社会人?

いろんな見方ができるし、人のイメージはあらゆる答えが正解である。

僕は今、「カイシャ」という怪物に取り込まれようとしている。
すごく大きな怪物で、誰もそいつの姿を見たことはなくて、でも感じるんだ。
信じてもらえないかもしれないけど、怪物の中には文明があった。
外からは決して分からないように、巧妙にひた隠しにされているけれど、
たしかにここにある文明。そうだ、たしか世界史の教科書には、

コロンブスのアメリカ大陸「発見」

なんてまっこと失礼極まりない文句が載っていたけれど、まさにそんな感じ。
ここでしか通用しない決まりごとがあり、みんなそれを一生懸命盲信している。
怪物が怪物でいられるよう、僕らは自分たちのありったけのエネルギーを養分
として与え、この怪物がもっともっと大きく育ってくれるように頑張っている。

この社会で生きるための賢い方法のひとつ、それは怪物に食べられてしまうことだ。
自分一人ではなにもできなくても、怪物の一部となってしまえば、他の怪物だって
怖くない。僕は無敵だ。だから、食べられる怪物は強ければ強いほど良くて、
その怪物探しを世間では「就職活動」と言うのだ。

僕は宣言する。怪物の手足となっても、栄養の一部となってしまっても、
僕は僕でい続ける。僕は自由だ。怪物に食べられたように見えても、
もうあなたの声が届かなくなってしまったように見えても、僕は僕でいます。

それがいま、僕が考えていること。
僕は明日も親指を立てながら、怪物の胃袋の中に消えていく。


ジーノの、ジーノによる、ジーノのためのブログ、開設。

振り返れば僕は、幼い頃から「書くこと」で自分を表現し、
「書くこと」で自分の気持ちを確認してきた。
(時には、友人や先生に褒められたりもしたよね)




「書くこと」は気持ちいい。

「書くこと」は胸躍る。

「書くこと」は毎日を充実させる。

「書くこと」はエネルギッシュだ。




こんなにも素晴らしい「書くこと」を、今、再び、始めようと思う。

つらつらつら、取りとめもなく、それも良き哉。