ひらめきツアー茨城 野口雨情の生家にて | My好茶くらぶ

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全国各地を回って、美味しいお茶・紅茶・烏龍茶の生産者さんをお訪ねして、イベントなどをご紹介します。

お茶を通して、少しでも多くの方に接し、生産者やその地域の方達の輪が広がっていくことを期待しています

昨日の朝は東京でも雪が降って

今日も寒さが続いています

新潟は雪でした〜☃️

先日のひらめきツアーでのハプニング💡


野口雨情先生

赤い靴、シャボン玉飛んだ、雨降りお月さん、青い目のお人形、兎のダンス、七つの子、などなど

きっと皆様もどこかで聞いたことが

あるかもしれないです

その有名な童謡の作詞家さん


生家を見学してきましたが

その時の衝撃的な出来事🤣です


少し高台に立派なお屋敷

それにしても空が青いですね


童謡の作詞家として活躍

皆さまはご存知でしたか

恥ずかしながら私は知りませんでした(ーー;)


【雨情は、明治15(1882)年5月29日、磯原村(現北茨城市磯原町)に生まれました。水戸藩の確立期に野口家は郷士に取り立てられた家で、父量平は廻船業を営み、明治32年から明治37年に村長を2期務めています。磯原には、水戸徳川家二代藩主徳川光圀公が「観海亭」と名づけた休息所がありましたが、今もその額が生家に残されています。当時の大北川河口付近は、現在の国道6号線まで広がっていたので、雨情も生家の二階部屋から、海や笑~山をながめていたと想像できます。雨情は、若い頃に併句を詠み、作詞活動を続け、その後多くの童謡を作り世に残しましたが、生涯大切にした「重心」とは、雨情が愛した故郷に育まれた心と言えます。】



立派な玄関です

早くおいで〜とお姉さまの大きな声

お屋敷内もとっても綺麗

貴重な文献や直筆書や家系図などなど

大正浪漫でしょうか


元気なお姉さまが大きなお声で解説

それにしても熱が入っていると感心

東日本大震災の時には壁のような黒波が迫り

津波に飲み込まれそうになりながら

家の中の貴重な資料を担ぎ上げて裏山に避難

お宝を無くしてはいけないと命がけで守った

感動のお話し


生家も一階部分は津波に潰されて

やはりこの資料と生家を後世に伝えたい

その一心で多くのご協力のもと復興されました

それにしてもリアルで感情込めた解説

ここから先は撮影禁止


とっても元気で説明上手なお姉さまだなと

皆が思ったころ


お姉さまが一言

「私のことをきっと皆さん、タダのおばさんと思っていますよね。」

「実は私の名前は家系図に載っているんですよ。」

「わかりますか?」

エエエエエエっ!(◎_◎;)

その場に居た全員の声


すかさずYちゃん

「えっ⁉️ もしかしたら」

「もしかしたらですけど」

「雨情先生のお母さんですか‼️」

お姉さま

「ちゃうわ ( *`ω´)プリプリ」


さらにYちゃん

「失礼しました、雨情のお姉さんですか」

お姉さま

「あのね〜」

(しばいたろか❕と聞こえた気がしました)

あくまでも笑顔で優しいご対応はさすが


「姉ではありませんよ」

のふじこやで、家系図良く見てください」

\\\٩(๑`^´๑)۶//// 

どや〜

場内は爆笑で終わりましたとさ


ふじこさま冗談にお付き合いただき

丁寧なご解説、誠に有難うございました

最近旅先で思わぬ出会いが多いです

それから日が経ち

衝撃的な出会いのほとぼりも冷めた頃


3/3の雛祭り🎎の日に

Nちゃんが安住さんのラジオを聴いていたら

放送で雨情先生の話をしていたと教えてくれた

安住紳一郎の日曜天国 2024年3月3日放送


しばらくは天候や東京マラソンなどの話をしていましたが


赤い靴の像に関連して

赤い靴の少女は

明治35年静岡県清水の生まれ

名前はきみちゃん

北海道開拓で函館に渡る

ルスツ村に住む

開拓生活が大変なのでアメリカ人宣教師に託す

宣教師が米国に帰国する際に病気だったため

アメリカに行けず麻布十番の孤児院に残された

異人さんに連れられアメリカには行かず

結核のため麻布十番で9歳の若さで死亡

そのため関係各地に赤い靴の像が存在

横浜は海外渡航の地だったので立てられた


母親が再婚した男性が札幌の新聞社に勤務

そこで出会った野口雨情に伝えたとのこと

その後大正101921年童謡の歌詞となった

明治の諸説あり


〜だそうです〜

ここまで読まれた方は、

長文にお付き合いありがとうございました