児童養護施設で働いて思うこと

児童養護施設で働いて思うこと

元会社員で、転職し、児童養護施設と一時保護施設で働いていました。
そこで考えたこと、思ったこと、願ったこと、綴っています。

「ずるい」という言葉について書いたけれど、

子ども達は、他にもたくさん強い言葉を言う。

「は?」「うっせー」「●ね」「ふざけんな」「うざ」もう書ききれないほどたくさん。

男の子も女の子も。


 

児童養護施設で働き始めた時、子ども達と仲良くなるのが一番初めの課題だった。

ある中学生の男の子と、なかなか心が通わなかった。

いつも無視か、「は?」と一言のみ、冷たい目で一瞬こちらを見るだけ。

会話ができない。目も合わない。その状態で何か月も過ぎていた。

ある日、用事があって話しかけるのだけれど、いつものように会話にならない。

「は?」しか返ってこない。

イライラした私は、気づいたら、彼と同じ声色で「は?」と真似して言い返していた。自分で自分に驚いた。『やってしまった・・・!』と焦った。

しかし、思わぬ展開が待っていた。

その子は、急に顔がゆるみ、こちらをじっと見つめ、ニヤニヤ、それが顔中に広がって嬉しそうな笑顔になっていた。

男子「・・・は?」

私 「・・・は?」

男子「は?」

私「は?」

男子「はあ?!」

私「はあ?!」

男子「・・・は?」

私 「・・・は?」

何度も何度も繰り返した。

もう二人とも笑いをこらえられなかった。

その一件から、打ち解けられて、おしゃべりができるようになった。

こんな不思議なやりとりで、こんなに心が通うのかと驚いた出来事だった。

使った言葉はいい言葉じゃなかったけれど、確実に私の心は温かくなっていた。

 

 

施設の子も、施設じゃない子も、悪い言葉を使いたい年ごろってあると思っている。

私にもあった。

みんな一度は悪い言葉を使ってみたいんだ。

一度きりの人生なんだから、色んなことをしてみたい。

その一つに悪い言葉を使う時期があってもいいよね。

「パンツ、うんち」が大好きだった時期も、クレヨンしんちゃん言葉の時期も、ただ通り過ぎてきたように。

いつかその子の心が違う場所に行きついたとき、

また違う言葉づかいを求める日が来るんじゃないかと思う。

 

 

・・・・・・・・・・・・・

 

 

一方で、イライラしたり、不機嫌な気持ちから、

感情を吐き出して、相手にダメージを与えたいという意図があるとき。

言われても、聞いていても、いい気持ちはしない。

イライラしやすい子が施設は多かった。

 

でも、言葉を禁止して何になるだろう。

その言葉を言わせる、心の中、考え方、物事の捉え方、感情の整理の仕方。

それはなんなのか。どういうものなのか。

無意識のうちに、内側で動いているもの。

 

またどうせ自分は怒られる。

どうせ悪いのは俺なんでしょ。

俺の言い分なんてどうせ聞いてくれないんだ。

私の事なんてどうせ好きじゃないでしょ。どうでもいいんでしょ。

私ってダメなやつだよね、わかってる!

もうそれ以上聞きたくない!あっちへ行け!

 

悲しみ、あきらめ、孤独、おそれ、恨み、不信感、自己否定・・・

 

傷ついた心。

ちょっとした不快感で爆発してしまう、そんな反応パターンは、苦しかった過去に学習してしまったものだ。

 

「他人は自分に、そんなに嫌なことをしないみたい、怖くないんだ、大丈夫。」

「自分はわかってもらえる、大丈夫。」

 

それは人への信頼感の回復。

自分の意見にも耳を傾けてもらえる、無視されない、否定されないという安心感、自分の意見を言ってもいいという自由さ、自分の存在を大事にされているという感覚。

 

そんな場所に心を置けたら、

きっと力を抜いて生きられるんじゃないかと思う。

苦しまなくていい。

世界って、人って優しいんだと思えるんじゃないだろうか。

そんな場所があるということに、気づいてもらえたら・・・。

 

 

 

書いていて思ったけれど。

その心の傷をもっと奥まで潜ってみると、根底にあるのは、

「自分は愛されない」、「自分を愛してほしい」

という事なのかもしれない。

 

そして、その痛みの場所から出る方法は。

もっともっとたくさん「愛されること」ではなくて、

「すでに愛されていると気付くこと」「感じる事」じゃないのかな。

 

職員がどれほど隣にいて、心を注いでも、彼らはうまく受け取れない。

受け取らない。

心が閉じている。

「どうせ~でしょ」と決めつけて、辛かった過去のまま生きている。

 

そっちじゃない、過去じゃない、

こっちを、今を、よく見て、心を開いてくれるのをただ待っていた。

「あれ、大丈夫だ、ここでは自分は傷つけられない」と、気づいてほしいと思っていた。

「あ、愛されてる、私」と気づいてほしい。感じてほしい。

 

「自分がしてほしい優しさ」「ほしい愛」ではないかもしれない。

でも、違う形でそこにある。そこに目をむけられない。

優しさは辛さに比べて「刺激」が弱く、感じるのは難しいのかもしれない。

まだ愛されていない。まだ足りない。ほらやっぱり、私なんか・・・。

じんわりとした幸せは、胸がギューッとなる苦しさに慣れてしまった心には、見つからないのかもしれない。

 

彼らは、そういう意味で、ちょっと頑固で、意地っ張りなところがある。

「みんな意地悪」「私なんて」と頑なになって、ゆずらない。

 

そして同時に、怖がっていた。優しくされることを。愛されていると感じることを。

優しい幸せの中に、足を踏み出せない。

そうさせるのが、過去のトラウマ、心の傷なんだろうけれど・・・。


いつか自分の足で、そこから出てくるのを信じて待つほかないんだろうな。

いつか心が、別の場所を探し始めた時、どんな顔で、どんな人生を歩み始めるんだろう。

自分が愛されていることを、自分が優しい世界に身を置くことを、

自分で自分に許せる日が、早く来ますように。

それまでずっと絶え間なく、あたたかい世界が彼らを包んでくれていますように。