長崎行動に初めて参加しました。8月8日、平和案内人のガイドで原爆資料館を見学。原爆投下の11時02分を指したまま止まった柱時計、長崎型原爆の実物大模型、原爆投下の状況をシミュレーションした映像などを見ました。原爆には広島型と同じく、元東北大学教授・八木秀次氏の八木アンテナが取り付けられていると説明を受けました。熱線、爆風、放射線が人々の命や生活を奪い、人も物も焼き尽くし、何年にもわたって健康を破壊する原爆の恐ろしさを改めて思い知らされました。

 


 

 その後、被爆者である城臺美彌子(じょうだいみやこ)さんの案内で、爆心地~城山地区を歩いてまわりました。爆心地公園には「原子爆弾落下中心地」の碑がたてられています。城臺さんは「落下」ではなく「投下」とすべきだと訴えました。

「落下」という文字を見て、私は、2016年に当時のオバマ米大統領が広島に来て「71年前、雲一つない明るい朝、死が空から降り落ち、世界は変わった」と演説した趣旨と同じものを感じました。原爆は自然現象ではないし、客観的にとらえるものでもないと思います。原爆は作った人がいるし、落とした人もいます。そして、原爆を投下された根拠は、広島も長崎も軍事拠点であったということです。この中心地の500メートル上空で、原爆は炸裂したのです。

 


 その後、城山小学校(旧城山国民学校)へ行きました。城山小は原爆投下中心地から500メートル西の位置にあります。後の調査で、中心から半径500メートル地点が原爆被害をもっとも受けたと分かったとのことでした。城山小は小高い丘にある鉄筋コンクリート構造の3階建ての校舎でしたが、原爆の強烈な熱線や衝撃波、爆風を受け、大きく破壊されました。その後の火災で2、3階は全焼しました。当時在籍していた児童約1500人のうち、約1400人が校区内の自宅などで亡くなったそうです。また、学校にいた教職員のうち数人を除く28人が亡くなりました。
 同窓会などの保存活動によって、残った建物の階段棟が残され、原爆遺跡の平和祈念館として公開されています。なかでは、亡くなった教職員の先生一人ひとりの顔写真が展示されていました。
 学校のある丘のふもとにはいくつもの防空壕がありました。原爆投下と反対側の壕以外のところは、多くの方が亡くなったとのことでした。
 現地を歩いてみることで、原爆の威力や被害のすさまじさを痛感しました。戦争・核戦争は二度と繰り返してはならないこと、それは理念ではなく今、実際に問われている問題だと思います。