横浜フリューゲルスの思い出
親会社の撤退で、横浜マリノスと合併した横浜フリューゲルス。
今年で、その出来事から早いもので20年が経過します。
アマチュア時代は、横浜サッカークラブに、全日空が加わり、横浜トライスターに改名。そして全日空横浜サッカークラブを経て、横浜フリューゲルスに。
横浜サッカークラブは、古河電工の先輩であり、現在ノジマステラ神奈川相模原の監督&GMの菅野将晃さんが、所属していました。
また、横浜トライスターになる際に、携わられていた方々が、方向性の違いを感じて新たに作ったクラブが、Y.S.C.C.横浜になります。
フリューゲルスと鹿島アントラーズは、意外と縁があって、1992年には、ヤマザキナビスコカップの初戦(@笠松陸上競技場)で対戦して、アントラーズが勝利しました。
同年のプレシーズンマッチでは、のちに彼らの特別活動地域である熊本市水前寺競技場でも、試合をおこないました。
1994年元日の天皇杯決勝(@国立競技場)で対戦して、アントラーズは退場者を出しても、後半アディショナルタイムに大野俊三君のゴールで、延長戦に持ち込みましましたが、延長戦で立て続けにゴールを奪われて、フリューゲルスが優勝しました。
1995年には、県立カシマサッカースタジアムにおいて、レオナルド選手の歴史に残るリフティング・ボレーシュートを決めた相手が、フリューゲルスでした。
1996年の前半戦最終戦、国立競技場で両チームが対戦した試合は、シーズンのベストゲームと評価されるほどの好試合でした。
1998年の元日、天皇杯決勝(@国立競技場)では、チャンピオンシップでジュビロ磐田に優勝された事で、選手達は「このままでは終われない!」という高いモチベーションで大会に臨み、柳沢敦選手のゴールなどで、フリューゲルスを下して、ナビスコカップとの二冠でシーズンを終えました。
そして1998年12月、天皇杯準決勝(@大阪長居スタジアム)で対戦。フリューゲルスにとっては、負けた時点でチームとしての活動が終わる状況でした。
このシーズンは、鹿島アントラーズがリーグ優勝を果たしていましたが、特別なモチベーションの中で戦ったフリューゲルスは、チームとしての一体感がありました。
試合中に、マジーニョ選手と薩川了洋選手が、激しくやりあって、二人共退場となる展開でしたが、それでもフリューゲルスの選手達は冷静にプレーをしていたのが、とても印象に残っています。
天皇杯決勝の結果については、皆さんもご存知なので、省かせてもらいますが、この時期はフリューゲルスがなくなり、ベルマーレも親会社の撤退で市民クラブの道を歩んでいき、エスパルスは親会社が変わったりと、Jリーグにとって大きな変化のあった時期でした。