塩見有輝の日本と海外のデュアルライフ

塩見有輝の日本と海外のデュアルライフ

シンガポールに12年住んでいました。現在は、月の半分が日本、半分が海外です。仕事ではインドネシア、シンガポール、マレーシア、フィリピンに行くことが多いです。2025年5月にマサチュセッツ大学を卒業しMBAを取得しました。(International Business専攻)

経済産業省様支援のセミナ-内の一コマです。(海外高度教育協会HPに記載)

仮想通貨がまだ今ほど一般的ではなかった頃、
私はこのブログに
「Coincheckでウォレットを作る方法」
という記事を書いたことがあります。


たしか2017年2月だったと思います。


当時はまだ、仮想通貨については、


「私はやらない」
「そんなものは怪しい」
「ビットコインなんて」


という人も多かった時代です。


一方で、私の周りには
仮想通貨を「買う側」だけではなく、
「発行する側」に近い人たちもいました。


だから私は
ホワイトペーパーというものを、
最初からそれほど神聖なものとして
見ていませんでした。


 


 


 


 


 


 


もちろん、
きちんとした技術や思想に基づいて
作られたものもあります。


でも一方で、


「こういう世界を作ります」
「こういう問題を解決します」
「そのためにこのトークンが必要です」


という、おとぎ話風物語をまず作り、
↓
それをホワイトペーパーという形にして、
↓
トークンを発行し、
↓
どこかの取引所への上場を目指す。


そんな世界も私は割と身近に見ていました。


だから私にとってホワイトペーパーとは、
「そこに書いてあるから事実」
というものではありませんでした。


むしろ、
「これからこういう設定で
人を集めます
」
という「設定書」に近いものだと
思っていました。


そんな頃、青山の素敵なバーで、
仮想通貨関連パーティーがありました。


 


 


 


 


 


そこで、
とても印象に残っている光景があります。


若い人たちが、それぞれ
自分の推しているコインについて、
本当に一生懸命議論しているのです。


本当に、一生懸命です。


「このコインは、こういう仕組みだから
絶対に将来性がある」


「いや、こっちのホワイトペーパーには
こう書いてある」


「このプロジェクトは、
こういう社会問題を解決する」


すると、別のコインを推している人が、
「いや、それだったらこっちの方が……」
と反論する。


トークン。ロードマップ。エアドロ。
上場。KYC 。ICO。マイニング。
プロジェクト。DEX。ハードフォーク。
アルトコイン。バーン。フィアット。
秘密鍵。スマートコントラクト。


次から次へと、シュッとした
カタカナや専門用語が飛び交います。


だんだん議論は熱くなってきます。


ちょっと怒っている人までいる。


ものすごく真剣です。


 


 


 


 


 


 


 


ところが、よく聞いてみると、


その人がそのコインに入れているお金は、
5万円くらいだったりするのです。


5万円。


5万円は大切なお金です。
とは言え、
そこまで顔を真っ赤にして
議論するくらいなら、
今夜ここでお酒を飲まずに、
もう少しアルバイトをして、
あともうちょっと、
稼いで入れればいいのに。


私はそう思いながら、
その議論を聞いていました。


もしかすると、
彼らにとって一番楽しいのは、
「お金を儲けること」
そのものではない
のかもしれない。


ホワイトペーパーを読む。
難しい言葉を知る。
まだ世の中の多くの人が知らない
コインについて語る。


そして、それについて
ロジカルに議論する。


そういう、ちょっと
「頭のいい世界」の中にいること自体が
楽しいのではないか。


そんな様にも見えました。


みんな、真剣に、
ホワイトペーパーの中身について
議論しているのです。


AだからBになる。
BだからCになる。
だからこのコインの価値は上がる。


なるほど。


その論理自体には、
何の矛盾もないかもしれません。


でも私は聞きながら、
「え!!
そのホワイトペーパー自体を
信じて話合っているの?」
と思っていました。


AならB。BならC。だからCになる。
とても論理的です。


でも、ちょっと待って。


そもそも、そのAは誰が決めたの?


小説の中にだって論理はあります。
映画にも設定があります。


ある国では魔法が使える、
という設定にしてしまえば、
その世界の中では
「魔法を使って空を飛ぶ」という話に
何の矛盾もありません。


でも、
「この物語には矛盾がない」
ということと、
「魔法で本当に空を飛べる」
ということは、まったく別の話です。


仮想通貨も同じで、
私が当時まず見ていたのは、
ホワイトペーパーの文章より、


「これ、誰がやっているの?」


ということでした。


そして、
表に名前が出ている人だけではなく、
「実際にこれを動かしているのは誰?」
ということです。


調べてみると、
「ああ、この人なのね」
ということが分かることがありました。


そして、中には過去に出資法違反など
法律上の問題を起こしていたり、
集団訴訟になっていたりするケースも
ありました。


すべてのプロジェクトが、
という話ではありません。


ただ、そういう世界も確実にありました。


そして、そういう人たちは、
ある意味ものすごく
「強者 つ・わ・も・の」だと
思っていました。


一度、二度と痛い経験をしているからこそ、
どこまで行ったら完全にアウトなのか、
どこまでならグレーなのか、
その境界線を身をもってよく知っている。


ギリギリのところを攻めることに関しては、
初めてその世界に入ってきた人より、
はるかに経験があります。


だから強い。


表には名前が出ていなかったり、
やり取りはTelegramだったり、
誰が本当に動かしているのか、
後になって追いかけても分かりにくい、
そんな構造になっていました。


もちろん、
本当に一生懸命やっている人もいました。


でも、ここも面白いところです。


「一生懸命やっている」イコール、
「あなたのお金を増やすために、
一生懸命やっている」

とは限りません。


自分たちが作ったトークンを
海外の取引所に上場させるために、
それこそ必死で頑張る。


一方で、
参加者が持っているトークンには
ロックをかけて売買できないようにする。


 


 


 


 


 


 


運営側では価格や売買を維持するために、
いろいろなことをする。


そして、ようやく上場。
運営側でコインを完売して、
その後、価格はほぼゼロ。
そんなパターンもありました。


 


では、
「そんなコインには絶対に乗ってはいけない」
という話なのか?


私は、そうではなくて、
「なんちゃって」は、
「なんちゃって」だと分かって
付き合えばいいと思っています。


* これは物語を前提とした
お金のゲームなのだ、

と分かった上で参加する。


* 大きなイベントが予定されているなら
その日までは期待が続くかもしれない。


など。


それでも、
イベントまでプロジェクトが消えない保証もないし、
上場しても秒で価値が下がるかもしれません。


でも少なくとも、
「自分は何に参加しているのか」
を理解しているべきと思います。


なんちゃってなのに、
本気で付き合ってしまう人々がとても多く、
「なんちゃってだと思うけどな」などと言ったら
とても怒られてしまいます。


ホワイトペーパーに書かれた未来を
「未来そのもの」だと思って、
その中の整合性を一生懸命分析する。


そして最後になって、
「こんなに期待していたのに」と言う。


それは少し、


最初から「そういう人」だった相手と
真剣に付き合っておいて、
最後になって、

「こんな人だとは思わなかった」

と言うのに似ています。


 


相手が誰なのかを見るのは、
付き合う前でしょう。


 


ロードマップを読む前に、
それまでどんなことをして来た人が、
始めていて実際に動かしているのか、
知りたいですよね。


そして何より、その人は、
この物語を本当に実現したいのか。
それとも、
この物語を信じてもらうこと
自体に目的があるのか。


ここを見ないまま、
ホワイトペーパーの中だけで、
「これは論理的だ」
「こちらの方が整合性がある」
と議論しても、
それはロジックというより、
設定の中での言葉遊びに
なってしまいます。


ビットコインは半減期をはじめ、
最初から設計された仕組みが
実際に動き続け、
それを支持する人も批判する人も含めて、
世界中に相当の参加者がいます。


「紙の上に書かれた物語」と、


「現実に動き続けている仕組み」


は同じではありません。


そして、同じように、


「本当に実現しようとして、
結果として実現できなかったもの」と、


「そもそも実現すること自体が、
本当の目的だったのか、
?なもの
」


この2つは、結果だけ見ればどちらも、
「計画通りにならなかった」
と見えることがあります。


でも、この二つはまったく違います。


だから最後の結果だけを見るのではなく、
始まりや過程を見ることが
大切なのだと思います。


難しい言葉をたくさん知っていることや、
複雑なホワイトペーパーを読みこなすことや、
与えられた前提の中で、
矛盾なくA→B→Cと説明できることは、
頭を使うことではあります。


でも、本当に頭を使うところは、
その一歩前なのではないでしょうか。


「ところで、そのA、本当なの?」


そして最近、私は時々思います。
これって、
仮想通貨だけの話ではないな、と。


2026年9月10日、あるセミナーで
イラン大使のお話を聞く機会が
ありました。


そのとき大使が、とても強い口調で、
何度も繰り返していた言葉があります。


「MOU is over」
(あの覚書の件はなくなった)
という米側の言葉でした。


アメリカとイランの間には、
戦争を終わらせるためのMOU
Memorandum of Understanding、
=了解覚書がありました。


大使が強調していたのは、
それが単なる口約束ではなかった、
ということでした。


国と国が交渉する。
文書を覚書として作る。
そして正式な場所、
(今回はフランスのベルサイユ宮殿)
で形式をもって
第三者の下で両者署名する。


そこまで積み上げたものについて、


「MOU is over」


その一言で意味を失ってしまった、
と大使は非常に強い調子で話していました。


 


 


 


 


 


 


 


 


私はそれを聞きながら、以前の
仮想通貨のホワイトペーパーのことを
思い出していました。


立派な文章がある。
目的が書いてある。
ロードマップがある。
そして私たちは、その文章を前提として、
「ここからこうなるはずだ」
「この条件ならこうなる」
と、一生懸命、論理的に考える。


でも。


その前提そのものが、
一言でなくなるとしたら?


日本の政治を見ても、
似たような不思議さを感じることがあります。


壮大な理念や政策を掲げて新しい政党ができる。
国から大きなお金(例:10億円~)が交付される。


ところが、
それからそれほど時間が経たないうちに、
組織そのものが大きく形を変えたり、
解体に向かったりする。


 


 


 


 


 


 


もちろん、
政治には政治の事情があります。


本当に実現しようとして、
できなかったこともあるでしょう。


私は、
「失敗したから最初から嘘だった」
と言いたいのではありません。


むしろ、その逆です。


実現しようとして失敗したものと、
最初から、
「実現することが
本当の目的だったのか、
分からないもの」を、


同じ「失敗」という結果では見ない。


だから、政策についても、
書いてある文章について議論する前に、
一度だけ、その外側を見てみる。


どんな人が仕切っていて
そして、その人は本当に
それを実現しようとしているのか。


 


青山のバーで、
若者たちが顔を真っ赤にするほど
真剣に仮想通貨議論していたあの夜から、
約10年が経ちました。


あの頃、私はその光景に、
とてもびっくりしました。


ホワイトペーパーを読み、
難しい言葉を知り、
新しい世界を理解して
その世界について真剣に議論する。


それ自体は、
若いのだし別に悪いことでも
恥ずかしいことでもないです。


ただ、今日言いたかったことを
まとめるとすると、



物語を楽しむことと、


物語を事実だと思うことは、


やっぱり違います。


 


あの頃は、
仮想通貨の話だと思っていました。


ところが気がついたら、


政治まで、


ずいぶんホワイトペーパー化していました。


※感じ方や言葉の紡ぎ方には、
その人だけの色があります。
本記事の内容を引用・ご紹介いただく際は、
出典として塩見有輝の名前、 あるいは、
下記リンクを ご明記いただけると幸いです。
https://jumpinghorse.red/whitepaper/


 

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2026年8月も今日で終わりです。

 

夏休みの人出の多い時期
観光地やショッピングモールなど、
どこへ行っても混んでいる。

 

エスカレーターの前には、
何メートルも前から人が並んでいます。

 

ところで皆さんは、
エスカレーターに乗るとき、
どこに立ちますか?

 

東京をはじめ関東では、
多くの人が何も考えずに左側に立ちます。

 

 

右側は急いで歩いて上りたい人の為に
空けておく。

 

長い間続いてきた光景です。

 

でも、ものすごく混んでいるときにも、
これは本当に
一番効率のいい方法なのでしょうか?

 

 

渋谷スクランブルスクエアなどに行くと、
「エスカレーターは二列で利用して下さい」
と自動アナウンスが繰り返し流れています。

 

それでも人の流れを見ると、
左側には長い列ができ、右側は空いている。

 

「二列で」と言われているのに、
なぜ人は二列にならないのでしょう。


思いやりが、
全体を遅くすることもある

 

右側を空けるという習慣は、
もともとは「急いでいる人が通れるように」
という、他人への気遣いから
始まったものだと思います。

 

とても日本らしい思いやりでもあります。

 

ところが、混雑時には少し事情が違います。

 

仮に100人が、
エスカレーターを待っているとします。

 

ここで、1人が1秒間隔で
乗ると仮定してみます。

 

片側一列なら、
100人が乗り終わるまで約100秒。
左右二列なら、
2人ずつ乗れるので約50秒。

 

その差は、わずか100人でも約50秒です。

 

数名の急いでいる人のために
片側を空けておくことが、
混雑時には、待っている大勢の人を
かえって遅くしてしまいます。

 

人に気を遣ってしている行動が、
必ずしも全体の実利に
つながっているとは限らない。

 

そして、もっと興味深いのはここからです。

 

「二列で利用してください」と
何度アナウンスされても、
なかなか行動は変わりません。

 

目の前に左側へ並ぶ長い列がある。

 

右側には誰もいない。

 

そこで自分だけが右側に立つ。

 

これは意外に勇気がいります。

 

私もできないことが多いです。

 

後ろから歩いてくる人に
「邪魔だ」と思われるかもしれない。

 

周りの人に
「あの人、どうして右側に立っているの?」
と思われるかもしれない。

 

 

公式には「二列で」と言われているのに、
目の前にいる大勢の人がしている行動に
合わせてしまう。

 

ですので、
人に何度もお願いするのではなく、
人が自然に行動を変える仕組みを
作ったほうが早そうです。


日本なら
「最初の一人」を作ってしまう

 

私なら、日本では
「混雑時だけ右側に立つ人」を
配置してみたいと思います。

 

その人が右側に一人立つ。

 

すると次に来た人は、
その後ろに立ちやすくなります。

 

二人になれば、三人目はさらに立ちやすい。

 

そして、いつの間にか二列になる。

 

「二列で並んでください」と言う
警備員さんを配置するのではなく、
最初の一人を人工的に作ってしまう。

 

周囲と違うことをする
心理的なハードルを取り除く。

 

こうした
「人を説得するのではなく、
環境や選択の仕方を変えることで行動を促す」
という発想は、
行動科学や「ナッジ」と呼ばれる考え方にも
つながっています。

 

では

 

他の国では
どうしたら効果的でしょうか。

 

アジアでも、
人が動くきっかけはずいぶん違うように感じます。


シンガポールなら
「ルールを明確にする」

 

 

シンガポールで仕事をしていた頃、
スタッフさん達とのミーティングで、
例えば、販売促進のプロモーションについて
話し合っていると、

 

「この場合はどうするの?」

 

「こういうお客様が来たら?」

 

「この条件とこの条件が重なった場合は?」

 

と、次々に質問が出てきます。

 

日本人の私からすると、
「そこは普通に考えれば分かるでしょう」と
思うようなことまで確認する。

 

そして、考えられるケースを細かく想定して、
一つ一つ明文化し、ルールにしていく。

 

「そこまで決めなくても」
と思うくらい細かく決めます。

 

そして感心するのは、

 

一度ルールとして決まると、それが非常に強い。

 

「私はこう思う」
「今日はこうしたほうがいい」と
個人が勝手に解釈するのではなく、
決められたルールを基準に行動する。

 

シンガポールで長く生活し、仕事をする中で、
私はこの感覚を何度も経験しました。

 

だとすれば、シンガポールで
エスカレーターの乗り方を変えるなら
「ご協力をお願いします」と
呼びかけ続けるより、
「11時〜16時には左右二列で立つ」
というルールを明確にして、
それを社会の標準として
定着させてしまう方が
効果的なのかもしれません。


マレーシアなら
「運用」をチェックする

 

 

一方、
マレーシアではまた違う印象を持っています。

 

私自身が仕事をしたりする中で感じたのは、
同じルールがあっても、
その場にいる担当者や責任者が力を持ち、
解釈や運用が変わることがあるということです。

 

だとすれば、
ルールを決めるだけでは十分ではありません。

 

「二列で利用する」と決めた後、
それがどの場所でも同じように理解され、
同じように運用されているのか。

 

そこまで確認する仕組みが必要になります。

 

駅ごとやスタッフごとでの案内方法を
定期的にチェックする。
違っていたら、共通の基準に戻す。

 

ルールを作って終わりではなく、
そのルールが人によって別物に
なっていないかを、
マレーシアではシンガポールよりも
より継続してチェックする。


インドネシアなら
「人」が人を動かす

 

 

インドネシアでは「人」の力を
とても強く感じます。

 

ジャカルタでは近年、
MRTなどの都市鉄道が整備されました。

 

日本にいると、その建設や運営について
いろいろなニュースを目にしますが、
実際に現地で利用してみると、
私はよくできていると思います。

 

特に印象に残るのが、
駅に配置されているスタッフの多さです。

 

まだ鉄道の利用に
慣れていない人もいるからでしょう。

 

改札付近にも人がいる。
チケットの買い方を一人ずつに教えてくれる。
セキュリティの荷物チェックをする人がいて、
迷っている人にはその場で案内してくれる。

 

機械や表示を置いて「読んでください」で
終わらせるのではなく、
人を置いて、人が教える。

 

ルールを掲示するだけではなく、
誰かがその場にいて、声をかけ、
説明して、実際にやって見せる。

 

とても非効率的に聞こえますが、
インドネシアの場合は、
アナウンスを何度も流すより、
混雑時にスタッフが入口に立って、

 

「こちらもどうぞ」

 

と空いている側へ人を案内する方法のほうが
自然なのかもしれません。


人を変えるのではなく、
「人が動く仕組み」を変える

 

日本=最初の一人を作る

 

シンガポール=ルールを明確にする

 

マレーシア=ルール運用を定期的にチェック

 

インドネシア=人が人に直接働きかける

 

もちろん、
これは「この国の人は全員こうだ」
という話ではありません。

 

私自身がそれぞれの国で暮らしたり、
人と働いたりする中で経験してきた中での
ただの個人の感想です。

 

ただ言えることは、

 

人の行動を変えたいとき、
「正しいことを何度も説明したら
その通りに動く」
とはなりにくい。

 

その人たちが普段どんなものを基準に
行動しているのか。

 

周囲の人なのか。

 

ルールなのか。

 

現場の運用なのか。

 

それとも、目の前にいる誰かなのか。

 

 

 

そんな視点で街を眺めてみると、
いつものエスカレーターの行列も、
少し違って見えてくるかもしれません。

 

夏の終わりに。

 


※感じ方や言葉の紡ぎ方には、
その人だけの色があります。
本記事の内容を引用・ご紹介いただく際は、
出典として塩見有輝の名前、 あるいは、
下記リンクを ご明記いただけると幸いです。

 

https://jumpinghorse.red/escalators/

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最近、よく話をする若い女の子がいる。

中東の女の子で、
目鼻立ちはぱっちり、くっきり。


背も高くて、スタイルもいわゆる曲線型
「ボン・キュッ・ボン」。

人目を引く、かなり華やかな女の子である。

しかも環境に恵まれて、若いのにすでに
自国外でいろいろな経験もしている。

未来は明るそうだ。

本人も、それを なんとなく
わかっているように見える。

そして、ものすごく貪欲だ。

私はこの子と話していると、
ときどき 情報商材屋さんと
話しているような気分になる。

気になる男の子がいると、
Instagramを見せてくれる。

「この人、フェラーリに乗ってるの」

その男性からは日本に来る前に
ネックレスをもらったという。


ピンクのハート型のネックレスが
首にかかっていた。


 


 


 


 


 

ブランド物にも、ものすごく詳しい。

一緒にイミグレーションに行った時に、
待合室に中国人の家族がいた。

その家族3人が、
靴から服から何から何まで
ブランド物で固めているのを見つけると、
もう大喜びである。

とにかく、そういうものを発見するのが早い。


私にはちょっとダサく見えたけれどな。

そして一生懸命、私にも説明してくれる。


街で走っている高級車も見つけるのが早い。


これはどこのブランド。

この男の人はこんな車に乗っている。

こんなものをプレゼントしてくれた。

私はそれを聞きながら、
10代でこんなことに頭がいっぱいなんて、
スタートが早くて、すごいなと思う。


そして、こんなMaterial Girlは
彼女だけではないらしい。

同じ学校に、
台湾人のお金持ちの 男の子がいたという。

ある日、彼女の同級生の女の子は
間違えて自分の隣りの、
その台湾のRich Boyのロッカーを
開けてしまった。

すると、ロッカーの中に顔を近づけて、
大きく息を吸い込み、

"Smell of rich people"

と言ったのだそうだ。


 


 


 


 


 


 


 


 

私はこれを聞いて大笑いした。

お金持ちの匂い。

「それって、どんな匂いなの?」

と聞いてみた。

すると彼女は目を細め、
その匂いを一生懸命説明しようとする。

でも、
ぴったりくる言葉が見つからないらしい。

「うーん……」

と、もぞもぞしている。

その様子が、なんとも可愛かった。

私はまた笑ってしまった。


Material Girlの感覚というのは、
私が思っていたよりずっと
繊細なのかもしれない。


もちろん、
素敵なものを身につけることは楽しい。

自分をちょっと演出するのも、
とても楽しいことだと思う。

私もそう思う。

ただ、
自慢というのは不思議なもの
である。

自分の価値を上げようとして
話しているはずなのに、

「この人は、この程度のものを
価値だと思う人なんだ」

ということまで、相手に伝えてしまう。

そしてときどき、

「それ、言わないほうが
あなたは素敵に見えたのにな」

と思うことがある。


 

もっとも、
「私はブランド物に惑わされない
高尚な人間だった」、
などという話では全然ない。

私は昔から、どうもこの
「物によって人の価値が上がる」
という感覚が、
よくわからなかったのである。


エルメスのスカーフが不思議だった

大学1年生のとき、高校の同窓会があった。

私は、その同窓会に行って驚いた。

みんな、
エルメスのスカーフをしていたのだ。

本当に、みんな。

私はそれを眺めながら、

「なんでみんな、 首からピロンと
かけているんだろう。」

と、ものすごく不思議に思っていた。

スカーフの使い方を学ぼうと、
テキストのようなものを読んだこともあった。

でも、いまひとつよくわからない。

 

ちなみに今は、
スカーフは大変に便利なものだと思っている。

首にも、バッグや手首にも使えるし、
上半身にも下半身にも様々な使い方ができる。

だが、その頃の若かった私は、単純に、

「なぜみんなが同じようにピロンと
首から下げているんだろう?」

と不思議だったのである。


私がパリで買ってきたもの

その後、私はCAになった。

当時、クルーの部屋には一人ひとり、
郵便受けのような小さなボックスが
割り当てられていた。


 

同期の女の子たちは、
どこかへフライトで行くたびに、
その土地のちょっと素敵なもの、
おしゃれなものを買ってきて、
みんなのボックスに入れてくれた。


 

私もパリに行った。

パリといえば、
私には憧れていたものがあった。

マロニエである。

なぜだったのかは、もう覚えていない。

文学だったのか、歌だったのか。

以前の日本には
「巴里のマロニエ」という言葉が、
詩や文章の中にあちこちに
あったような気がする。

私の中では、いつの間にか、

「パリ=マロニエ」

になっていた。

そしてとうとう、
本物のパリのマロニエを見た。

私は感激した。

そして、道端に落ちていた
マロニエの実を拾った。


 


 


 


 


 


 

それを日本人の12人同期たちへの
お土産にした。

一人に3個ずつくらい紙に包んで、

「パリのマロニエです」

と書いて、
みんなのボックスに入れたのである。


36個、道端でマロニエを拾ったのだ。

今考えると赤面する。
みんなごめんね!

みんなが旅先のおしゃれな小物を
入れてくれている中で、


私からのお土産は、
道端で拾った
正体不明の木の実3個。

相当変わった人だと思われていたに違いない。

「何これ、気持ち悪い」

と思った人もいたかもしれない。


いや絶対きっとそう思っただろう。

でも、当時の私は本気だった。

私にとっては、高価なお土産より
「本物のパリのマロニエ」
のほうが、
ずっと素敵だったのだ。


自分の価値観を押し付けて
恥ずかしすぎる思い出だ。


バッグ一つで、人の評価が変わる

その後、日本の会社に入ってからも
似たような驚きがあった。

女の子たちの噂話を聞いていると、

「○○さん、あのバッグ持ってるんだって」

というような話が出てくる。

そして、たったそれだけのことで、
その人に対する評価が変わったりする。

私は「そんなことで騒いでいるんだ」
と驚いた。 ちなみに、

エルメスなら「すごい」。

シャネルなら「すごい」。

でもMiu Miuだと、デザインがよくても

「それはブランドじゃない」と
当時の会社員女子は言っていた。


あんなに可愛くて素敵なのに。
そんな単純なジャッジ、
逆にセンスないんじゃないかな?


バッグ一つで、
人を見る目ってそんなに変わるんだ。

世の中には、そういう価値観があるのか。

それが私にはかなり新鮮な驚きだった。


「物質的な女の子」って何?

そういえば、もっと昔。

マドンナの「Material Girl」
という曲が流行り、クラスメイトが
英語の先生に聞いたのを覚えている。


「Material Girlとはどういう意味ですか?」

先生は、

「物質的な女の子」と答えてから
いくつか追加説明をくれたが、

私はますますわからなくなった。

物質的な女の子?

物を求める女の子?

それっていったい、
どういう女の子なんだろう。

当時の私には、
この言葉が本当によく理解できなかった。

それから何十年も経った。

そして今、車やブランド品について
目を輝かせて話す若い女の子を眺めながら、

「ああ。Material Girlとは、
こういうことだったのか」

と、私はようやく実感している。


でも、このMaterial Girlが私は好きだ

面白いことに、私はこの子が嫌いではない。

むしろ、かなり可愛いと思っている。

なぜなら彼女の物欲というか、
上昇志向というか、
とにかくその「欲」が、
あまりにもわかりやすいからだ。

いい生活がしたい。

素敵な人と付き合いたい。

いいものを持ちたい。

ファーストクラスの世界に入りたい。

もっと上に行きたい。

ものすごく貪欲なのである。

ここまでくると、むしろ清々しい。

私は、この貪欲さそのものは
悪くないと思う。

人間を動かす力になるからだ。


ところが、GPAを見て驚いた

ある時、彼女のGPAを見て私は驚いた。

成績が悪い。期末試験はもうすぐだ。

あれだけ「ファーストクラス」の世界に
憧れているのに、これはまずい。

彼女は、お父さんのことを心の底から
「お金持ち」だと思っているように見える。

もちろん実際に恵まれた環境で育っている。

でも私は大人なので、
その環境が最初から
空から降ってきたものではないことも、
想像できる。

お父さんがどれだけ苦労して、
今の場所まで来たのか。


その割には、
娘が思い込んでいる程のお金持ちではなくて、
娘の前で精一杯頑張っているらしいことも。

私はそのすべてを知っているわけではない。

だから、それを彼女に
偉そうに説明するつもりもない。

そして私は、
「勉強したほうが女として幸せになれる」
などとも思っていない。

学歴が高ければ幸せになるとも思わない。

この子のように貪欲な女の子なら、
その貪欲さのまま、
案外うまく世の中を渡っていくのかもしれない。

私はむしろ、そこが面白いと思っている。

背も高い。

華やかで、スタイルもいい。

いい学校に通っている。

若いのにいろいろな経験もしている。

未来も明るそうだ。

本人も自信満々で、
物質世界の自慢と憧れを
楽しそうに話している。

そうしているうちに、
私はちょっと意地悪をしたくなった。


その成績じゃ、ファーストクラスには行けないよ

私は彼女に言った。

「でもね、その成績じゃ、
あなたの行きたい
ファーストクラスの層には行けないよ」

どこかに入り込むことはできるかもしれない。

でも、その世界の人たちから相手にされないよ。

あなたが
本当にそういう世界に行きたいのなら、
自分にもそれなりのものがなければ
駄目なんじゃない?

そんな話をした。

すると、効いた。

ものすごく効いた。

「勉強は大切です」でもない。

「将来のために勉強しなさい」でもない。

「お父さんに感謝しなさい」でもない。

私は彼女の貪欲さを、
そのまま利用してみたのである。

図書館に連れて行ったら、
猛烈に勉強し始めた。

「復習、もう2周し終わった!」

と言う。

「今日は夜7時まで勉強する!」

と言う。

そして本当に、夜まで必死に勉強していた。

面白い。

欲というのは、使いようによっては、
とんでもないエネルギーになるらしい。


翌日、写真が送られてきた

そして期末試験の次の日。

彼女から写真が送られてきた。

グレードは、

「A」。

笑ってしまった。

さらに笑ったのは、そのあとである。

お父さんからも、
同じ写真が送られてきた。

どうやら親子そろって、
相当うれしかったらしい。

フェラーリに乗っているのは、
彼女が気になっている男の子だ。

ネックレスは、人からもらったものだ。

お父さんのお金は、
お父さんが自分で築いたものだ。

ブランド品は、お金を出せば買える。

でも、その日の「A」は、
図書館で黙って勉強して、
彼女が自分で取った。

だからといって、
「これからブランド品より
勉強を好きになれ」

とは私は全然思わない。

次に会ったら、 また
フェラーリの写真を
見せられるかもしれない。

たぶん見せられる。

それでいい。

人間は、きれいな動機だけで
頑張らなくてもいいのだと思う。

上に行きたい。

いい生活がしたい。

素敵な人たちのいる世界に入りたい。

そんな欲だって、
人を動かす立派なエンジンになる。


何十年も前、英語の先生に
「物質的な女の子」 と教えてもらっても、
さっぱり意味がわからなかった
Material Girl。

今になって、少しわかった。

でも、わかってみると、
私が昔想像していたよりずっと面白い。

フェラーリに目を輝かせ、
「お金持ちの匂い」を嗅ぎ分け、
いい階層に行けないと言われれば、
図書館で夜まで勉強して、
翌日Aを取ってくる。

物欲も、見栄も、上昇志向も、
ここまで素直なら、
なかなかのエネルギーになる。

次に会ったら、
きっとまたブランドか、男の子か、
何か「すごいもの」の話を
聞かされるのだろう。


私はたぶん、また笑ってしまう。

 

※感じ方や言葉の紡ぎ方には、
その人だけの色があります。
本記事の内容を引用・ご紹介いただく際は、
出典として塩見有輝の名前、 あるいは、
下記リンクを ご明記いただけると幸いです。


https://jumpinghorse.red/material-girl/





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今日は、シンガポールやインドネシア、
そして日本のレシートを見ながら、

消費税や税金は、
「分かりやすさ」を重視
した方がいい
のか、それとも
整合性や公平性、正確性を
優先した方がいいのか。

 

そんなことを考えてみたいと思います。


インドネシアの普通のレストランで
3人でランチしたときのレシート

 

 

見た目はあまりインスタ映えしませんが(笑)、
ビーフスープもチェンドールもとてもおいしかったです。


さて、私にとっては、
インドネシアのレシートを
理解するのがなかなか難しく感じます。

Sub Total:562,000 IDR(約5,114円)

Gratuity(サービス料):25,545 IDR

 

Tax:58,755 IDR

Total:646,300 IDR

計算すると、

サービス料は約4.5%、

税金は約10%。

 

つまり、

 

小計に対して約15%が上乗せされています。


インドネシアのVATは少し複雑

2026年現在、インドネシアの税制は少し複雑です。

一般的なVAT(PPN)は基本11%ですが、
高級品など一部では実質12%となります。

一方、レストランではVATではなく
飲食税(地方税)が適用されることもあり、
さらにサービスチャージもお店によって異なります。

そのため、

 

同じ食事でも、

お店によってレシートの表示や
最終的な支払額が違います。

私はシンガポールで12年間生活していたので、
どうしても
「結局いくら払うの?」

 

ということがすぐに分からないレシートには、
少しモヤモヤしてしまいます。


 

一方、スターバックスでは

 

アメリカーノ 46,000 IDR

合計 46,000 IDR

その一番下には、

「表示価格にはすべての税金が含まれています。」

 

と書かれているだけです。

スターバックスやマクドナルドなどの
世界的なチェーン店は、お客様が

「結局いくら払うの?」

と迷わないように、
税込価格表示を採用しています。

インドネシアでは、日本ほど
価格表示のルールが統一されていません。

そのため、先ほどのレストランのように

Food Price
Service Charge
Tax

と後から加算するお店もあれば、

スターバックスのように
税込価格だけ表示するお店もあります。

 

ローカルのマッサージ店でも
税込価格だけ表示されていることがありました。
マッサージ2名分 2時間 税込 720,000IDR
               (約6,550円)

 

 

 

 

 


シンガポールでは

私はシンガポールで生活してたので
慣れていることもありますが、

シンガポールのレシートは
比較的理解しやすい印象があります。

例えば税抜100シンガポールドルの料理なら、

料理代:100.00 SGD

サービス料(10%が多い):10.00 SGD

GST(9%):9.90 SGD

合計:119.90 SGD

と、計算どおりの金額になります。

 

サービス料は法律で10%と
決まっているわけではなく、
お店によって異なります。

↑

29.90シンガポールドル
免税品でGST 0%
合計 29.90シンガポールドル


日本では

日本のスターバックスのレシートを見ると、

キッシュとアメリカーノで865円。

イートインなので消費税は10%です。

 

税額は計算上86.5円になりますが、
端数切捨てにより86円となっています。

日本では企業が一定のルールの中で
端数処理を選択できますが、
海外では四捨五入されるケースも多く、
国によって考え方が違うことが分かります。


「分かりやすさ」は
意外と大切なのかもしれない

税金とは少し違いますが、
シンガポールで生活していた頃、
同じようなことを感じた経験があります。

当時、都心部(CBD)へ車で入ると
追加料金がかかる制度がありました。

 

最初の頃は比較的単純だったので、

「Highwayだけは絶対に使わない!」

と節約中の若かった私は決めていました。

ところがその後、

時間帯ごとだけではなく、

道路ごと、ゲートごとに

料金が細かく変わるようになりました。

私はとうとう覚えきれなくなり、

「もう気にしても仕方ない」と思って、

 

以前よりHighwayを使うようになりました。

もちろん、
交通量に応じて細かく料金を設定することは、
公平性や整合性という点では
理にかなっています。

しかし一方で、
人間の行動という面から考えると、

 

制度が複雑になることで、
人は「考えること」を
やめてしまうこともあるのではないか。

 

そんなことを私は実体験として感じました。

それによって、

 

本来期待していた行動変容
(追加料金を課すことで、
Highwayの交通量を減らすという目的)

を、達成しにくくなるのではないか、
と感じたのです。

 

それまではシンガポールの法律は
乱暴なくらいにシンプルでわかりやすく
効果絶大だったので、面白く見ていました。
(例:ゴミやガムやトイレやタバコ罰金など)

 

ところが、道路ごと・時間帯ごとに
料金が細かく設定されるニュースが出た時、
私は「シンガポールも時代が変わったな」
と感じました。

 

私には、
制度をより公平で精密に
設計しようとする考え方と、

 

まず人が直感的に理解し、
行動しやすい仕組みを作ろうとする考え方、

この二つの発想の違いを
見ているように思えました。

 

どちらにも良さがあります。

 

ただ当時の私は、
人の行動心理をうまく利用し、
シンプルで分かりやすいルールを作っていた
初期のシンガポールに、
とても魅力を感じていました。


日本では今、食品の消費税が議論されています

家計の負担を軽くすることは、
とても大切だと思います。

一方で、

日本では制度の公平性や整合性についても
活発な議論になります。

イートインとテイクアウト、

業種ごとの違い、

軽減税率の対象など、

制度をより公平にしようとすると、

どうしても複雑になります。

税金は公平であることも重要です。

しかし、

制度は人が利用するものです。

だから私は、

「誰にでも分かりやすい制度」であることも、

 

同じくらい大切なのではないか。

インドネシア、シンガポール、日本。

3か国のレシートを見比べながら、

 

そんなことを感じました。

 

 

 

皆さまは、

 

「分かりやすさ」と「公平性」、

 

どちらをより重視しますか?

 

 

 

※感じ方や言葉の紡ぎ方には、
その人だけの色があります。
本記事の内容を引用・ご紹介いただく際は、
出典として塩見有輝の名前、
あるいは、
下記リンクを ご明記いただけると幸いです。
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「人材不足なんて、
日本では本当は存在しない」

最近、そんな言葉を見かけることがあります。

「給料をもっと上げれば人は来る」
「外国人を入れなくても、日本人だけで回る」
「企業側の努力不足だ」

もちろん、そう感じる理由もわかります。

実際、私自身も若い頃は、
どちらかと言えば、
そのように考えていた側だったと思います。

 

ただ、
実際に海外で採用に関わったり、
面接や、ビザ申請をし、
現地スタッフと働いてきた中で、

私は、
“理屈だけでは説明できない人材不足”
というものを、
何度も見てきました。

今日は、
「人材不足とはどういう体感なのか」
ということについて、

現場で実際に経験した、
いくつかのエピソードを通して、

皆さまと一緒に
考えるきっかけになればと思っています。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

日本の話をしているのに、
なぜ海外の採用の話をするのか?と
思われるかもしれません。

ただ私は、
日本より早く進んだ「人材不足」の現場を
シンガポールなどで見てきました。

 

 

だからこそ、
今の日本で起きていることにも、
どこか既視感があります。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

当時、シンガポールやマレーシアの
採用に関わっていた頃、
人材確保に苦労していました。

特にシンガポールは、
少子化や人口構造の影響もあり、
慢性的な人手不足がありました。

ラーメン店のお皿洗いでさえ、
約30万円~の給料を出しても人が集まらない、
そんなニュースが新聞で話題となっていました。

「企業は安い労働力が欲しいだけだ」
という意見を聞くことがあります。

もちろん、
それは否定できないと思います。

ただ、
現場にいた感覚としては、

 

“安くしたい” 以前に、
“そもそも人がいない”

という感覚のほうが、
ずっと強かったのです。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

そういうわけで、
隣国のマレーシアからはもちろんのこと、 
中国本土からも、スタッフを採用しました。

 

リリー(仮名)も中国本土から来ました。
彼女は本当によく働く人でした。

 

営業成績も、
毎月ダントツの1位でした。

 

リリーには中国に小さい子供が二人いて、
家族を養うために、子供を置いて
シンガポールへ出稼ぎに来ていました。

当時の
外国人労働者仲介エージェントは、
今振り返ると、
かなり厳しい管理をしていたと思います。

パスポートを本人に持たせず、
エージェント側が管理していました。

 

リリーの手取りお給料は、
シンガポール人スタッフの半分以下、
セールスの歩合を入れない基本給比較なら
むしろ3分の1に近かったのです。

私はまだ若く、
とても単純な見方しかできませんでした。

タバコを吸いに行ってしまう現地スタッフより、
誰よりも頑張って働くリリーの姿を見ていると、

 

「どうしてこんなに
給料が違うのだろう
」と、
本当に切なくなったことを覚えています。

会社側に、
「もう少し上げられないのでしょうか?」
と思ったこともありました。

ただ、
今 振り返ると、
そこには単純な善悪だけではない、
複雑な構造がありました。

エージェント、
ビザ制度、
企業側の利益、
そして、国同士の経済格差です。

私はその時、初めて実感しました。

 

個人の能力だけではなく、
生まれた国の経済力もまた、
その人の人生に大きく影響するのだと。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

また、
外国人労働者を受け入れることは、
企業側にとっても、
決して簡単なことではありませんでした。

シンガポールには、
外国人雇用に対する厳しい制度があります。

外国人を雇えば、
レビーと呼ばれる追加負担金
を支払わなければならず、さらに、
現地人雇用との比率も細かく見られます。

つまり、
外国人を入れれば入れるほど、
企業側にもコストや制限が
増えていく
のです。

それでもなお、
企業が外国人を採用していたのは、

「そのほうが安いから」

という単純な理由だけではなく、

“そうしないと現場が回らない”

という事情も確かに存在していました。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

マレーシアを担当していた時も
私は似たような経験をしました。

例えば、
中国系のマレーシア人を
雇用したいという場合、

もちろん、
人種条件を書くことはできません。
募集掲載を削除されてしまいます。

そのため、求人には、
「Chinese speaking」
つまり、
“中国語が話せる方”
というスキルを表現する形で
条件を書くことがありました。

ただ、
実際に応募してくる人たちは、
こちらの想像とはかなり違っていました。

しかも、
「外国人不可」「マレーシア人のみ」
と、
はっきり大きく書いていたとしても、

応募の大半は、
フィリピン、
ベトナム、
タイなど、
周辺国から働きに来たい外国人
たちでした。

正直、最初は驚きました。

「条件を読んでいないのだろうか?」
と思ったこともあります。

でも、
何度もそれを見ているうちに、
少し考え方が変わっていきました。

彼らは、募集条件を
読んでいないのではなく、

“それでも、ダメ元で応募したい”

のです。

 

もしかしたら、
どこかで可能性があるかもしれない。

一件でも引っかかれば、
人生が変わるかもしれない。

そんな必死さを、
画面越しに感じることがありました。

今思えば、
私はそこで初めて、

 

「生まれた国よりも
経済的に進んだ国で働く」

 

ということの重さを、
少し理解し始めたのかもしれません。

 

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
などなど、etc etc

 

実際の採用現場は、
理想論だけでは進みません。

言語、
勤務態度、
ビザ条件、
対人対応、
継続性。

そういう様々な条件を見ながら、
さらにその中から、

「この人なら現場でうまくやれそうか」
「きちんと連携できそうか」
「長く働いてくれそうか」

ということまで考えなければなりません。

私は当時、採用とは、
“人を選ぶ”ことだと思っていました。

でも実際には、

“現場が崩れないように、
必死でバランスを探す仕事”
でした。

穴を埋めていく感覚でした。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

シンガポールでは、
外国人向けの就労ビザにも、
かなり厳しい区分がありました。

いわゆる現場系就労許可(work permit)と、
より高度専門職向けのEmployment Passは、
明確に分けられていました。

 

そして、
Employment Passは、
簡単には通りません。

学歴 (実際に基準となる
大学リストもありました)、
職歴、
給与、
ポジションなど、
細かく見られます。

日本人だから必ず通る、
というものでもありませんでした。

実際、私の経験では、
ある日本人管理職の
Employment Pass申請をして、
7回却下され続けたことがあります。

「アピールレターを書けば通る」
というそんな大昔の時代は終わり、
できる限りの説明や資料は準備しましたが
ダメでした。

シンガポール政府は、無制限に
外国人を受け入れているわけではなく、

かなり、はっきりと線引きをしながら、
国としてバランスを取ろうとしています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

日本でも、
今とは背景は全く違いますが、
バブル期は、
企業同士が人材を奪い合う時代でした。

 

昔、新卒の就職活動で、
私は化粧品会社N社を受けました。

最終的には、
別の道を選ぶことになり、
内定辞退のお電話をしました。

もちろん、入社直前に
辞退したわけではなく8月頃でした。

 

採用担当の、貫禄のお姉さまは

 

「なんなんですか、いったい。」
から始まり、

 

第一希望の企業はどこかを執拗に聞かれ、
「他業種の会社の2次面接と重なり。。。」
と小声で答えたところ、

「どうせ、記念受験でしょう?」
と、女性らしい嫌味を言った後、

 

「そもそもあなた、
内定後のレクリエーションの時に
バスツアーなのに、
午前中面接行ってきました、
みたいなスーツで来ましたよね。
その時から、わかってました。」

 

「いいです!あなたより、
もっといい人を採りますので!

いいです!」ガチャッ。

 

脚色無しで、この通りの会話でした。

 

常識がなかった若い私は、その時、
本当に意味がわかりませんでした。

「なぜそこまで怒るのだろう?」

 

と、ポカンと正直思っていました。

でも今なら、わかります。

人事部のあのお姉さまは、

採用人数、
辞退率、
現場からのプレッシャー、
欠員、
結果報告。

 

 

様々な数字と責任を背負いながら、
彼女なりに必死に仕事をしていたのだと。

そして、
ようやく見つけた人材に辞退される。

その時の焦りや疲弊が、
あの怒りの中にあったのだと、
今は思います。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

昔の私は、
「人事=選ぶ側」だと思っていました。

ですが、実際に採用に関わると、

“人を採る側も必死に追い詰められている”

ということが、
少しずつわかるようになりました。

私は、「企業側に問題がない」
とは思っているわけではありません。

給料を上げる努力も、
働きやすい環境を作る努力も、
当然必要だと思います。

ただ、現場に立っていると、

「それだけでは説明できない不足」

というものが確かに存在していました。

募集を出しても、
そもそも応募が来ない。

来ても、条件が合わない。

面接に来ない。

採用しても、すぐ辞めてしまう。

やっと定着したと思ったら、
3000円のお給料差で他社へ引き抜かれる。

そんなことが日常的に起きました。

私は、
「人材不足」という言葉の裏には、

頭の中の計算だけでは見えない、

働く人の人生、
国の経済格差、
制度、
企業の事情、
そして、
現場の疲弊があるのだと思っています。

頭の中だけでは見えない景色が、
そこには確かにありました。

~~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~

 

※感じ方や言葉の紡ぎ方には、
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出典として塩見有輝の名前、
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「教育は大事だ」という言葉はよく聞きます。
でも、ふと思います。

本当に、今の日本で、教育の力が
そこまで信じられているのかな、と。

私は、
シンガポールが急成長していた時期に、
12年間、現地で生活していました。

 

年間のGDP成長率が毎年2桁で、
それが8%台に落ちると、
「経済が悪い」と新聞に出るような、
そんな成長中の時代でした。

当時のシンガポールは、
決して洗練された国という印象では
全くありませんでした。

 

経済的にもまだ発展途上で、
目立たない存在だったと思います。

でもそこから
英語を公用語にして浸透させ
金融、観光・物流で立国し、
世界の中で確かなポジションを築き、
小さな国でありながら
30~40年のうちに
輝く存在感を放つようになりました。

それは、まるで、
昔は全然目立たなかった子が、
ある日突然、
誰もが振り向くような存在に
なっていったのを、
隣で
見ているような感覚でした。

 

 

どうして、ここまで変わったのか。

私はやっぱり一つしかないと思っています。

それは、本当に、本当に、
教育の力を信じていたこと。

建国者のリー・クアンユー自身が、
教育がもたらす力を信じて、
国の施策を立ててきたことに
あると思います。

 


もう一つ、
印象に残っている出来事があります。

以前、若い頃、
「シンガポール航空で働いています」
と話したときに、
日本航空の本社で働いている男性から、

「シンガポールのローカルな
フラッグキャリアですよね(笑)」

と言われたことがありました。

その言い方に、
少しだけ軽く見られているような
ニュアンスを感じて、
正直、驚きました。

その当時すでにシンガポール航空は、
サービス面で世界的に高い評価を受けていて、
特にビジネスクラスなどは
世界No1と評価されることが多く、
路線も広がりグローバルキャリアでした。

それでもなお、
そういう認識のままでいる人がいる。
しかも、その方は、
本社で働いている人でした。

 

人は、
自分が見ている範囲の中でしか

物事を判断できない。

そう感じた出来事でした。

そして、その「見えている範囲」を
広げてくれるものの一つが、
教育や学びなのではないかと思います。


最近感じるのは、
教育についての議論が、
どこか浅くなっているのではないか、
ということです。

例えば英語に関して、
今は翻訳ツールが発達しているから、
「もう勉強しなくてもいいよね」
という考え方も出てきています。

それは、正しい面もあります。

でも、じゃあ本当にそれでいいのか。

言葉というのは、
単に意味が通じればいいものではなくて、
その人の考え方や空気感まで含めて
伝わるものだと思います。

それをすべてツールで
代替できると考えてしまうと、
どこかで何かを
切り捨てているように見えます。


それから、「届ける力」が大事だ、
という話もよく聞きます。

確かに、発信する力は重要です。

ただ最近少し感じるのは、
発信力があれば、OKということで
中身は偽造話でもなんでもありで、
それを見た人々も
また自信満々に同じく話すことに
違和感を感じるときがあります。


少し話がそれますが、

きれいになりたいと思ったときに、
すぐに結果が出る方法を選ぶことも、
今は簡単にできる時代です。

ただ一方で、
染み出る違和感が
残ることがあります。

例えば手元を見たときに、
今では多くの人がネイルサロンで
人工的に整えたgelネイルをしています。

形も色も整えられているはずなのに、
それだけが浮いてしまうような感覚。↓

 

手全体の雰囲気に
どうも噛み合っていないように
見えることがあります。 


それらは、
積み重ねられていない即効的な
勉強や学びの話にも、
どこか通じているように思います。

 

 


私は去年MBAを取得しました。

すると何度か、

「それで収入は増えたの?」
「何のために取ったの?」

と聞かれました。

「学ぶことは、
お金に直結しないと意味がない。」

そういう前提でだけ、
多くの人々は選択をするのだと
感じました。


でも私は、
実際に見てきました。

教育によって、
国が変わっていく姿を。

最初からお金を目的にしていなくても、
学びを大事にしてきた人たちが、
気がつけば経済的にも成功している。


1か月勉強して、
直後にお給料が上がることはなく
その力は信じにくい。

でも、
時間をかけて人を変え、
ときには国そのものを
変えてしまう力がある。


教育の力を、日本人の私たちは
今、本気で信じているでしょうか?

 

信じていないわけではない。

ただ、本気では
信じきれていないのでは
ないでしょうか?

 

~~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~
※感じ方や言葉の紡ぎ方には、
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桜の木がすぐ部屋の向かいにあって、
3月が4月になる頃は、
ベランダにかわいい花びらが落ちている。

 

薄ピンクでふわっと落ちていて、
とてもかわいいのだ。

 

まるで、
「またね。来年ね。」と
挨拶しに来てくれているようだ。

 

臆病な私は、いつからか、
「さようなら」ではなくて、ずっと
「またね」という言葉に
こだわってしまってきた。

 

大事な家族達や友達たちには、
別れ際に、「さようなら」と
絶対言わないようにしていた。

 

外国のお友達が、片言でsayonaraと言ったり、
文字で書いたりすると、
"matane”と教えて言い換えさせていた。

 

でも、そのかいもむなしく、
「またね」と言っても
永遠の別れになったり、

 

“matane”と言っても、
先の見えない国境やVISAによる
長い別れになったりした。

 

何にも執着しないようにと、
人にも、思い出にも、
何にも執着しないようにと心がけるほど、
その心がけようとする意識自体が、
私の心の中の執着を浮き出させていた。

 

桜ちゃんは
私の方からこの部屋を去らないならば、
きっと来年も来てくれる。 

 

だから桜ちゃんとの4月のお別れは
それほどは切なくはないんだ。

でも人間は違う。

どれだけ「またね」と言っても、
戻ってこないことがある。
どれだけ言い換えても、
別れは別れのままだ。

 

 

それでも私は、たぶんこれからも
「さようなら」とは言わないと思う。

 

愚かだと思いながら、
それでも「またね」"matane"と
言ってしまう。

 

 

 

PS
今年も、ベランダに花びらが落ちていた。

(あのとき、切られてしまった桜の話)

https://jumpinghorse.red/?p=10576

~~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~

 

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出典として塩見有輝の名前、あるいは、
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https://jumpinghorse.red/?p=11092

 

感じ方や言葉の紡ぎ方には、
その人だけの色があります。

 

もし心に響く部分がありましたら、
ぜひ引用元として、
このページの存在も添えて
伝えていただけたらと思います。  

 

 

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2021年、私はトルコリラで
900万円失った。
私にとっては大金で、
これを書くのは正直、気が進まない。

投資で損した人、ましてや、
トルコリラなんかで損した人は、
典型的な「情報弱者」だとか、
「欲に負けた人」だとか、
そういう目で見られがちだからだ。

でも、このグラフを見てほしい。

トルコリラは、何年も、何年も、
下がり続けている。(90円が3円台に)

(出典:世界の経済・統計 情報サイト)

 

これだけ長期間下落していれば、
どこかのタイミングで
「ここが底だ」と思った人が、
きっと何万人もいるはずだ。

慎重な人も、情報を追っている人も、
経済ニュースを読んでいる人も。

 

「さすがにここまで下がれば、
 もう止まるだろう」

そう思った瞬間が、何度もあった。

でも止まらなかった。なぜなのか。


インフレが上がれば金利を上げる。
これは世界の常識だと思う。

 

けれどトルコのエルドアン大統領は、
インフレが加速する中でも
逆張りで金利を下げた。

 

それがイスラム教的な倫理観
(→利子を望ましくないとする価値観)
から来るものなのか、
それとも主流派とは異なる
独自の経済観(≒思い込み?)
によるものなのかは分からない。

だが彼は、「金利は悪だ」と言い切った。
金利を上げようとする(常識を守ろうとする)
中央銀行総裁を解任した。

 

そのたびにリラは売られ、
市場の信頼は削られていった。

 

国のトップが何を信じるかで、
通貨の形は変わる。

 

私はそこで初めて、
「国家の性格」というものを意識した。


あのあとから、
私は数字よりも先に
「人」を見るようになった。

GDPでも、人口でもなく、
その国のリーダーの考え方の傾向。

その人は、批判されたときに
どう振る舞うのか。

自分の信念と
市場の現実がぶつかったとき、
どちらを取るのか。

国家の経済は、結局、
トップの選択に引き寄せられていく。

そう思うようになった。


例えばマレーシア。

出典:首相官邸公式アカウント(@kantei)より

 

2026年現在、マレーシア首相である
アンワル・イブラヒムは、
1991年に当時のマハティール首相に抜擢され、
財務大臣に就任した。

 

当時としては異例の若さだった。

英語も堪能で国際感覚に優れ、
IMFなど国際機関からも
注目される存在だった。

国際金融の場でも評価される優秀な、
次世代リーダーと目されていた人物だった。

しかし、
1997年のアジア通貨危機をきっかけに
マハティールと路線対立したことで、
解任され、そして投獄へと至る。

(この経緯についてはこのブログで、
2023年4月19日の投稿で書いている。
→長期にわたる敵対:人との衝突からの教訓)

 

マハティール政権下で首都の、
クアラルンプールとシンガポールを結ぶ
高速鉄道計画も見直され、中止となった。

 

大型プロジェクトで、不動産業界でも
とても期待されていた鉄道だった。

表向きの理由は財政負担。
でも、このプロジェクトが、
自分が始めたものではなくて
前政権で開始されたものであったことも、
判断に影響したのではないか、
とも取れる動きだった。

 

 

国家の大きなプロジェクトが、
純粋な経済合理性以外のことで
曲げられたように見えた。

リーダーが何を優先し、
何を引き継ぎ、
何を自分の色に塗り替えようとするのか。
(これに関連する記事を、
2025年6月1日に
書いています。
→「自分の足跡をつけるために、他人の足跡を消す」)

そこにもまた、
「国家の性格」がにじむのではないかと。


一方で、
2026年現在の首相であるアンワル首相は、
若い頃から経済分野に強みを持つ人物で、
市場の反応を意識しながら判断しているように、
私には見える。

派手なスローガンはない。
マレーシアのマレー人寄りでもないため、
人気もそこまでない。
でも、
自分の思想を証明するために
経済を使うタイプには見えない。

現在、マレーシアリンギットは
39〜40円前後。
為替は相対的なものであり、
通貨の動きがそのまま
国内経済の強さを示すわけではない。
それでも、ここ数年の水準と比べれば、
明らかに切り上げている。

トルコとは、どこか違う。


900万円は高い授業料だった。

けれど、その損失がなければ、
私は「国家の性格」という視点を
持たなかったかもしれない。

投資とは、数字を読むことだと思っていた。

今は違う。

 

その国のトップが何を信じ、
どこで意地を張り、
どこで現実と折り合いをつけるのか。

 

それを読むことなのだと、
思うようになった。

 

投資の世界に絶対はない。
経済というシステムにも、
もちろん絶対はない。

 

ただ、
リーダーの思い込みには、
驚くほどの持続力がある。

 

900万円で学んだのは、
数字の裏にある
“性格”の重さだった
。

 

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※本記事の内容を引用・ご紹介いただく際は、
出典として下記リンクを ご明記いただけると幸いです。
https://jumpinghorse.red/?p=11049


感じ方や言葉の紡ぎ方には、
その人だけの色があります。

 

 

もし心に響く部分がありましたら、
ぜひ引用元として、
このページの存在も添えて
伝えていただけたらと思います。      

 

 

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最近、都内のお寿司屋さんでは、
カウンターに
外国のお客様が座っている光景が
珍しくなくなった。
ほとんどが外国人の場合もある。

 

日本に慣れていて、
友人を連れてきたり、
仕事の接待で店を選んでいたりする、
いわゆる
「分かっている側」風の外国人客も多い。

そんな場面で、
何度も耳にした言葉がある。

「ワタシ、ヒカリモノガ、チョットダメです」

 

「何か苦手な食材はありますか?」
という質問に対して、
私は六本木のお寿司屋さんで2回、
渋谷のお寿司屋さんで、1回、
まったく同じこの答えを 聞いたのです。

 

これは流行りのフレーズなんですか?

 

その言葉を口にする人ほど、
この店の空気にも、日本の寿司にも、
十分に慣れているように見える。

 

お店に初めて連れて来られた側ではなく
相手をお店に連れて来た側の方が、
このフレーズを言っていた。

 

でも、

 

どれくらいわかっていて
そのフレーズを言っているのだろう。

もしそれが、
魚が光っているのが気持ち悪いとか、
酢の酸味が苦手だとか、
過去に体調を崩した経験があるとか、
そういう理由なら、
何も引っかからなかったと思う。

ただ実際には、
そういう説明はほとんど聞かれない。

光りものが、
なぜ扱いの難しい魚なのか。
なぜ昔は敬遠され、
同時に、職人の腕が
試される存在だったのか。

そういう背景を
知っているようにも見えないまま、
「分かっている人っぽい選択」として、
その言葉が使われているように感じてしまう。

理由を知らないまま、
理解している側の立ち位置に立とうとして、
このフレーズが発せられているよう。

~~~~~~~~~~~~~

 

考えてみれば、
こういう振舞いは、
私たち自身も日常でよくやっている。

聞きかじった知識や、
誰かの正しそうな言葉を借りて、
自分で確かめないまま、
「分かっている」
という顔をしてしまうこと。

 

 

「ワタシ、ヒカリモノガ、
チョットダメです」は、
その思考停止的・知ったかぶりを、
目の前で分かりやすく 見せてくれた。

 

それは成功法の踏襲とは違う。

 

 

今の世の中には、
「ワタシ、ヒカリモノガ、チョットダメです」
によく似た言葉が、あふれている。

知っているようで、
実はよく分かっていない言葉。

自分の判断のようでいて、
どこかから借りてきた言葉。

正しいと世の中が認めたらしい言葉を、
そのまま口にしているだけの言葉。


それは本当に正しいのだろうか。
今も通用するのだろうか。

 


そしてそれは、
本当にあなた自身の意見なのだろうか。

 

――あなたは、本当に、
ヒカリモノガ キライですか。ーー

 

 

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※本記事の内容を引用・ご紹介いただく際は、
出典として下記リンクを
ご明記いただけると幸いです。
https://jumpinghorse.red/?p=11030

 

感じ方や言葉の紡ぎ方には、
その人だけの色があります。

 

もし心に響く部分がありましたら、
ぜひ引用元として、
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 2026年あけましておめでとうございます。

 

今日は、

 

「シンガポールは移民に厳しい国だった。
でも、野蛮ではなかった。」
という話をしたいと思います。

 

本年もよろしくお願い致します。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
最近、日本では
シンガポールは移民政策に成功した国だ
という言い方を耳にするようになりました。

 

同時に、「あの国は
移民に対してとても厳しく
差別的なのではないか」
という印象を持つ人も
増えているように感じます。

 

確かに、制度だけを見れば、
そのとおりです。

 

シンガポールは経済のために
移民を受け入れ、
その条件から外れた人には
例外なく厳しい判断を下す国です。

 

人間的な事情(恋愛・妊娠)でも
例外はありません。

 

なお、ここで時々話題にされる、
シンガポールの外国人メイドの
妊娠に関する事例については、
私はすでに 2022年10月23日 に、
このブログで取り上げています。

 

↓2022年10月23日公開
メイドさんの恋愛と妊娠

 

シンガポール人の雇い主と恋愛して、
たとえ子どもができたとしても、
そのまま結婚できません。

 

ビザは即時にキャンセルされ、
本人は母国へ帰国しなければならない
というケースです。

 

この事例は、
シンガポールの制度が、いかに
経済合理性を最優先し、
個人の事情を考慮しないかを
端的に示しています。

 

ただ、私が12年間、
シンガポールで暮らしてきた中で
感じていた空気は、
いま日本で語られているイメージとは、
少し違うものでした。

 

私がシンガポールで学んだことは、
制度の厳しさと日常の態度は、
完全に切り分けられている事実です。

 

結論から言うと、
「制度としては外国人に
容赦なく厳しいが、
他民族を侮辱することは
タブー中のタブー」

という空気でした。

 

シンガポールで印象的だったのは、
リー・クアン・ユーが
一貫して進めてきた
「民族の融合」の考え方でした。

 

それは、異なる民族同士が
無理に理解し合うことを
求めるものではありませんでした。

 

理解できない部分があっても構わない。
ただお互いを、けなしあわないこと。

 

逆に、無理に変に擁護したり
持ち上げることもしないです。
ただ、
そこに存在すること自体を認める。

 

そのようなスタンスが、
日常の空気としても、
はっきりと示されていました。

 

それは、多様性万歳や、
多様性が素晴らしいという
左寄り思想とは違いました。

 

いろいろな人々が違う文化で
狭いところで生活しているから
しょうがないよね、
でもお互い生活の為だよね、
だから
誰にでもわかる公平なルールを
シンガポール人の為に作っておこう、

 

ということでした。

 

シンガポールの社会では
FAIR(公平)

 

という言葉が
とてもよく出てきます。

 

頑張ったら頑張った分だけ
得をするのがフェア、

 

誰かが他の理由で守られて
得したらアンフェア。

 

決まったルール内で、
努力して優れていたら得する。

 

負けても、頑張った分量の
ある程度のリターンはある。

 

それがフェアという社会でした。

 

 

日常の会話の中で、
もし少しでも他の民族について
否定的なことを
公の場所で口にすれば、
周囲の人たちも
「そんなことを言うなんて信じられない」
という反応をする。

 

その感覚は、私が暮らしていた
当時のシンガポールでは、
ごく当たり前のものでした。

 

相手の国や民族に対して
しっかり距離や警戒心を持つことと、
言葉で貶めることは、
本来は同じではないはずです。

 

その二つが混ざってしまったとき、
議論はいつの間にか
感情の発散に近いものになってしまう。

 

政府もそうした懸念を明確に示していました。

  • 公の場で他民族を貶めることは「最悪の行為」
  • 野蛮で、恥ずべきことだと教えられてきた
  • 冗談でもアウト、という空気

がありました。

 

シンガポールでは「言論の自由がなくて
民主主義的ではない」との反発もあり、
公園で国民がスピーチできるように
制度が変わったことがありましたが、

 

スピーチ内容は事前報告し、
監視の下での発言でした。

 

それじゃあ「非民主的だ」という
批判があるのも理解できますが、

 

その国の成り立ちを見れば、
「民族・宗教の話題が暴発した時の破壊力」
を、
シンガポールは誰よりも知っていたのです。

 

リー・クアン・ユーの
民族統合への強烈な意志と
それによって
国益を守る意思がありました。

 

 

経済で負けない制度を引いて
でも「悪口を言うこと=愛国」
ではないという
「線引き」が極端に明確な国でした。

 

 

経済政策と人間の尊厳を混同しない。

 

制度は冷酷なほど合理的。

 

しかし日常生活では、

 

人種・民族への敬意が絶対ルール

 

そんな国でした。
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※本記事の内容を引用・ご紹介いただく際は、
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ご明記いただけると幸いです。
https://jumpinghorse.red/?p=11000

 


感じ方や言葉の紡ぎ方には、
その人だけの色があります。

 

もし心に響く部分がありましたら、
ぜひ引用元として、
このページの存在も添えて
伝えていただけたらと思います。

 

 

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