2024年パリオリンピックが、7月26日 から8月11日まで行われています。

純粋にスポーツを楽しみ、自国の選手を応援している人が多数だと思いますが、僕はただ楽しむことができない大会だなと考えています。

その最たる部分が開会式の演出です。

皆さんはどう感じましたか、僕は不快でしたし「クリスチャンへの挑戦状か!!」と感じました。
 

 

 

 




開会式を見てわかる人には、聖書の内容を侮辱していると感じたのではないでしょうか。
LGBTQ・多様性を前面に出した最後の晩餐、ヨハネの黙示録を表した青白い馬(それに乗っている者の名は死)、フランス革命によって斬首刑となったマリー・アントワネットを表現したもの、ただただ薄気味悪かったです。
フランスの7割がカトリック教徒ですから、聖書を知らないわけではありません。
それなのにこの様な演出をすれば、国民から批判を買うことは目に見えていたはずです。
それでもこれを押し通すところを見ると、裏で動いている悪魔崇拝者の存在を感じます。
オリンピックが、おかしいと感じたのは30年前のバルセロナオリンピック開会式を見た時です。
この時からすでに、コロナ茶番は宣言されていました。

 


ロンドンオリンピックも、悪魔崇拝のシンボルだらけで、東京オリンピックでも、聖火台が富士山がモチーフとなり、まるで富士山が噴火しているようでした。富士山の麓では、子供から抽出した松果体から作る、アドレナクロムの工場があると言われています。

今回は多様性という部分で攻撃しており、最後の晩餐を使ったシーンにはLGBTQ当事者だけでなく子供も使われ、これは小児性愛者もOKという意味でしょう。
グローバリストたちの狙いは、同性愛や性自任だけではなく、性行為の低年齢化『小児性愛合法化』をしようとしています。


ユダの手紙1:5~7
あなたがたはみな、じゅうぶんに知っていることではあるが、主が民をエジプトの地から救い出して後、不信仰な者を滅ぼされたことを、思い起してもらいたい。主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。ソドム、ゴモラも、まわりの町々も、同様であって、同じように淫行にふけり、不自然な肉欲に走ったので、永遠の火の刑罰を受け、人々の見せしめにされている。


アーメン。

LGBTを容認し続けたその先に、何が待っているか想像をしたことがありますか?LGBTを認めたら、次はQ+です。Q+の中には、ペドフィリア(小児性愛)やズーフィリア(動物性愛)、ポリアモリー(複数性愛)も含まれる可能性があります。
ちなみに日本以外のG7加盟国、フランスにもLGBT法がありません。

何でもありは破滅を招くでしょう。

世界がLGBTを認める動きの裏には、人口削減計画を企てている人達がいること。小児性愛者の大人が自己正当化をしようとしていることも知ってください。
そして「多様性」という言葉が、美化されていますが危険性のある言葉です。
「多様性」という言葉が全ての常識を覆し、世界を壊す可能性もあるのです。
同性愛者や性的マイノリティの方が、その権利を主張ばかりしたら価値観が崩されてしまうことは歴史があらわしているのです。
男女平等が叫ばれる中、ついには「性的少数者を差別するな」というところまで来ました。「差別をするな」人として当たり前です。「差別」という言葉を使われれば人間の良心はチクッととつつかれ、「そうか、じゃあ受け入れなければ」と同調をあおられ、いずれ流されてしまいます。しかし、創世記1章では、神が全てのもの、万物を『区別』して創られたことが書かれています。《昼と夜》《水と大空》《海と陸》《男と女》を『区別』されました。それぞれに神は役割を与えています。

それが自然なことであり、当たり前の姿です。

そして、グローバリストが一番壊したいのが、「聖書の教える家族制度の破壊」です。
現実、私たち人間が存在しているのは、男性の父親、女性の母親によって誕生するものです。
誰がどう否定しようと、産まれてきた時に与えられた生物学上の男女以外の性別は存在しないのです。


詩篇139:13~16(リビングバイブル)
神様は、精巧に私の体の各器官を造り、母の胎内で組み立ててくださいました。こんなにも複雑かつ緻密に仕上げてくださったことを感謝します。その腕前は天下一品だと、よくわかっております。秘密の工房で私を組み立てる時、神様は立ち合われました。生まれる前から、まだ呼吸を始める前から、神様の目は私に注がれており、その生涯にわたるご計画も、練り上げられていたのです。


アーメン。

男は外で一生懸命働き、自分のからだを愛するように妻が安心して子育てできる環境、心の平安を守るよう命じ、女は「主に仕えるように夫につかえよ」と神が言われているように、家族の為に働く夫を助けることが妻の役目です。そして、子を産み、育てる事。
今の時代、そんなことを言ったら「女性を子供製造機のように軽視している」という方もいるかもしれませんが、子供を妊娠し出産、母乳を与え育てることは絶対女性にしかできない、素晴らしい役割です。

現代は自由を主張する人が多いですが、今の自由は放任主義の上に成り立っており意味をはき違えていると思います。

LGBTも、何でもありという間違った自由の解釈です。自分はどう産まれ神が与えた体がどうなっているか、自分をしっかり見つめなければいけません。

日本でLGBTは、ないという教育ができないのも、外国からの圧力という問題だけでなく、そもそも真の神がなんと言っているか知らない、聖書知識がないからという理由が大きいと思います。このままなら「わたしの民は知識がないために滅ぼされる。」(ホセア4:6)この通りになります。親だけでなく大人が子に、何を与え導くかで国の未来は決まってしまいます。

そしてLGBTが進み同性婚が増え、精子・卵子提供が当たり前になれば、夫婦の本当の子供がいなくなってしまいます。


コロナというDSの策略によって、日本人の心が変わってしまいました。コロナ11波により、未だに、病院は家族が危篤であっても面会制限というルールを作り、最後の時に立ち会えない病院もあるそうです。


夏は、大東亜戦争で犠牲になった特攻隊のことを考える時があります。
もちろん戦争は反対です。
当時は「天皇陛下万歳」などと、天皇陛下、国を守るために進んで特攻を希望したと言われていますが、実際は自分の家族、大切な人を守るためだったのでしょう。
大切な家族、恋人の命を守るために、自分達の命を捧げる。本当にすごい事です。今の男性にできるでしょうか。当時の特攻隊の覚悟があったから、今の自分達がいます。


ヨハネによる福音書12:24
よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。

アーメン。

戦争によって多くの命が失われました。
それによって自分の親の親の親が・・・・・欠けていたら自分は存在しません。
この世に生まれた奇跡を考えると日常生活を送れることは当たり前ではないとしか思えません。
だから神が与えた命・体に文句つぶやき逆らい、命をつなぐための性機能を捨て、違う性別を生きようとすること、ここには自由はないと思っています。




今週の集会は、この御言葉から語られました。


使徒行伝2:17~28
『神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。その時には、わたしの男女の僕たちにもわたしの霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう。また、上では、天に奇跡を見せ、下では、地にしるしを、すなわち、血と火と立ちこめる煙とを、見せるであろう。主の大いなる輝かしい日が来る前に、日はやみに月は血に変るであろう。そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう』。
イスラエルの人たちよ、今わたしの語ることを聞きなさい。あなたがたがよく知っているとおり、ナザレ人イエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神からつかわされた者であることを、あなたがたに示されたかたであった。このイエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによるのであるが、あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。イエスが死に支配されているはずはなかったからである。ダビデはイエスについてこう言っている、『わたしは常に目の前に主を見た。主は、わたしが動かされないため、わたしの右にいて下さるからである。それゆえ、わたしの心は楽しみ、わたしの舌はよろこび歌った。わたしの肉体もまた、望みに生きるであろう。あなたは、わたしの魂を黄泉に捨ておくことをせず、あなたの聖者が朽ち果てるのを、お許しにならないであろう。あなたは、いのちの道をわたしに示し、み前にあって、わたしを喜びで満たして下さるであろう』。

使徒行伝2:32~47
このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。ダビデが天に上ったのではない。彼自身こう言っている、『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足台にするまでは、わたしの右に座していなさい』。だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。
人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」。ペテロは、ほかになお多くの言葉であかしをなし、人々に「この曲った時代から救われよ」と言って勧めた。そこで、彼の勧めの言葉を受けいれた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが三千人ほどあった。そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。
みんなの者におそれの念が生じ、多くの奇跡としるしとが、使徒たちによって、次々に行われた。信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである。


アーメン。

今が終わりの時で、気が付いてなくても霊がすでに注がれています。それをどう気付かせるかクリスチャンの福音にかかっています。
イエス様は人間にバプテスマ=聖霊を受けよと教えました。なぜなら「この曲った時代から救われよ」と言っているからです。曲がった時とは全ての秩序が狂わされた今のことを言っています。
その中にクリスチャンは出ていかなければいけません。
そして福音に出ていくにあたって「すべての人に好意を持たれなければいけない」と教えています。昔と比べ現在クリスチャンの数がどんどん減っています。これはこの世から好意を持たれていないからとも言えます。
ぶどうの木では「神に忠実なクリスチャンというのは、経済的にも社会的にも健康面においても全てのことにおいて神は祝福されます。」と教えてきました。貧乏で癌があって誰にも好かれない、そんな人の話を聞き「クリスチャンになりたい」と思いますか。だから僕たちは誰よりも喜び日々平安でなければいけないのです。
クリスチャンは牧者がいて一緒に進む羊です。ともにイエス様の教え、証を共有し、唯一の神を畏れるのです。
そして日々救われてくる方を仲間に入れていき、われら神の家族、たがいに愛し合い、許し合い、祈り合い、ともに主を賛美するのです。
自己満足による行いではなく、相手がして欲しいことをしてあげる、愛のあふれた教会でなければいけないです。



使徒行伝4:19~20
ペテロとヨハネとは、これに対して言った、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」。 

使徒行伝4:29~35
主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい」。彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した。
信じた者の群れは、心を一つにし思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものだと主張する者がなく、いっさいの物を共有にしていた。使徒たちは主イエスの復活について、非常に力強くあかしをした。そして大きなめぐみが、彼ら一同に注がれた。彼らの中に乏しい者は、ひとりもいなかった。地所や家屋を持っている人たちは、それを売り、売った物の代金をもってきて、使徒たちの足もとに置いた。そしてそれぞれの必要に応じて、だれにでも分け与えられた。


アーメン。

自分の感情ではなく、どこまでも御言葉に従うことこれが正しい道であり祝福へとつながっていきます。

そして教会とはどうあるか書かれています。
皆が聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り心を一つにし思いを一つにしていること、また一つのことに向かって進んでいること、全てにおいて協力できる関係が大切です。



使徒行伝5:12~16
そのころ、多くのしるしと奇跡とが、次々に使徒たちの手により人々の中で行われた。そして、一同は心を一つにして、ソロモンの廊に集まっていた。ほかの者たちは、だれひとり、その交わりに入ろうとはしなかったが、民衆は彼らを尊敬していた。しかし、主を信じて仲間に加わる者が、男女とも、ますます多くなってきた。ついには、病人を大通りに運び出し、寝台や寝床の上に置いて、ペテロが通るとき、彼の影なりと、そのうちのだれかにかかるようにしたほどであった。またエルサレム附近の町々からも、大ぜいの人が、病人や汚れた霊に苦しめられている人たちを引き連れて、集まってきたが、その全部の者が、ひとり残らずいやされた。

使徒行伝5:38~42
そこで、この際、諸君に申し上げる。あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない」。そこで彼らはその勧告にしたがい、使徒たちを呼び入れて、むち打ったのち、今後イエスの名によって語ることは相成らぬと言いわたして、ゆるしてやった。使徒たちは、御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを喜びながら、議会から出てきた。そして、毎日、宮や家で、イエスがキリストであることを、引きつづき教えたり宣べ伝えたりした。


アーメン。

聖霊に満たされた教会は証が生まれ、祝福から祝福、栄光から栄光へと光となっていきます。
「一同は心を一つにして、ソロモンの廊に集まっていた。ほかの者たちは、だれひとり、その交わりに入ろうとはしなかったが、民衆は彼らを尊敬していた。」と書かれているように、クリスチャンは尊敬されるような存在でなければいけません。それは自己推薦するのではなくイエス様の栄光を表していくことにもつながっていくのです。
教会は癒し、この世の悩みに勝利でき、仲間がどんどん増える存在でなければいけません。
ではなぜそれが起こらないか、教会内に党派心が生まれ裁きあっていないか吟味しなければいけません。

そして、5章の最後では、教会が神から出たものか吟味することが書かれています。
ぶどうの木が人間から出たものなら、自滅するでしょう。しかし、もし神から出たものなら滅ぼすことはできません。なぜなら神がバックにいるからです。
イエス様のためにムチ打たれることもいとはない信仰でなければいけません。

アーメン。



「イエス様は無きに等しい者を選ぶ」と言われていますが、じゃあ逆に持ってる人とは何でしょうか。
お金、名誉、地位、権力ですか!?これらは災害が起これば一気に流されてしまいますし、この世を去る時には、持っていく事などできません。
人間にとっての一番の財産はイエス様を信じる信仰心ではないでしょうか。


コリント人への第一の手紙15:50
兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。 

コリント人への第二の手紙4:18
わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くのである。

 
アーメン。

お金持ちはイエス様いりませんか?先日、イーロンマスクの息子が性転換をしました。
マスク氏がこのような事態にあったことから「世界一のお金持ちでもサタンに勝てない」と思いました。


ローマ人への手紙14:17~18
神の国は飲食(富や肉欲)ではなく、義と、平和と、聖霊における喜び(平安)とである。こうしてキリストに仕える者は、神に喜ばれ、かつ、人にも受けいれられるのである。

アーメン。


この地上の闇に覆われ苦しんでいる人たちが、イエス様に救われクリスチャンとして生きていくことを決意していくことで『サタンの存在』を知る事になります。そして、この世の神が『サタン』であり、そんな世界で生かされ自分たちが苦しめられていたことに気付くことができるでしょう。

そして、クリスチャンは、そんな『サタン』と戦い勝利することができる特権を与えられています。聖書の御言葉に従って生きるとき、全く違う自分へと変えられ、イエス様は生きていることを体験していくでしょう。


エペソ人への手紙6:10~18
最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。


アーメン。

闇の世の主権者、サタン・悪魔の策略に、勝利できるのはイエス様だけです!!

そのイエス様を信じ救われてください。そうしたら、日本が変わります!世界が変わります!

聖書の真理、真の神を知ることが、どれほどの平安が与えられるか。


子供は、成長していく中で両親からの愛を受け、この世の常識など沢山の事を親から学び成長していきます。

コミュニケーションが無い家族も多いでしょう。

聖書が教えるのは『愛』だけではなく「人としての正しさ」です。

家庭、社会が、神を通して家族の形が整えられることを祈ります。


救われてください、声に出して読んでください。


<救い主・イエス様を受け入れる>

「愛する天のお父様、イエス様。私がこれまで犯してきたすべての罪をお許しください。イエス様が、私の罪のために十字架にかかって下さり、3日目に神が死人の中から、イエス様をよみがえらせたことを信じます。イエス様、どうぞ私の中に入ってください。イエス様が、私のこれからの人生を導いてください。イエス様の御名前により感謝して祈ります。アァメン。」  ※アァメンとは、“そうなったと信じます”という意味です。

<カルトからの解放>
「愛する天のお父様、イエス様。私が今日まで犯してきたオカルト・宗教の罪をお許しください。今まで信じてきたこと、教えられてきたことは、すべて間違いだったと認め、たった今捨て去ります。イエス様の十字架の血によって、私を清めてください。罪が許されたことを感謝し、イエス様の御名前によって祈ります。アァメン。」 

<聖霊のバプテスマを受ける>
「愛する天のお父様、イエス様。私に聖霊と火によって、バプテスマを授けて下さい。そして私の全身を、すみずみに至るまで、聖霊で満たして下さい。たった今、聖霊をいただけたと信じます。また、私に異言(いげん)も下さい。いただいたと信じ、舌を動かします。
(ラララララ・・・・と声に出して舌を動かして下さい。それがあなたの異言です。)
イエス様、ありがとうございます。これからはあなたが下さる通り、信じる者に伴う新しい言葉=異言(いげん)を語ります。すべての栄光はイエス様に帰して、イエス様の御名前により感謝して祈ります。アァメン。」

※「異言」とは、神と直接会話できる言葉です。私たちが知性で考えて言葉にして祈る時は、サタン(悪霊)も聞いています。すると、祈りがきかれないように先回りしてしまうことがあるのです。異言はサタンが分からない言語です。聖霊の力によって語りますから、いつでも何時間でも祈ることができます。何と祈ってよいのか分からない時、まだ分からない未来のことも神はご存じですから、祈らせて下さいます。