「会話の中で『エビデンス』という言葉をよく使う方がいる!」

今週の集会の中で『エビデンス』という言葉に焦点を当て語られました。

『エビデンス』とは、「証拠」「根拠」「裏付け」「形跡」といった意味を持ちます。

コロナワクチンにより死亡者、後遺症患者が増えている世の中で

「ワクチンを打たないで!!殺人ワクチンだ!!」

ワクチン接種者には

「ワクチンを解毒するには、イベルメクチンを!!」

と、声をあげ続けています。

もちろん、すんなりと受入れ聞く耳のある人達もいます。
しかし、今の日本の情報社会では、身近で見聞きするテレビやラジオ、新聞からの情報を日本人は当たり前のように信じます。

「イベルメクチンが効く!エビデンスは!」
「ワクチンが生物兵器!エビデンスは!」


などと、この世の知識を誇る人達は、そうやって追及してきます。

実際、国に対してワクチン後遺症を訴えてきた患者、亡くなったご家族に対して、ワクチン後遺症を認め賠償金も出されています。しかし、そんな情報は隠されていて、ワクチン大臣だった河野太郎は今でも「2億回ワクチンを打っても問題なし」と発言しています。

真実が隠された日本です。

SNSからの情報だと、陰謀論だとかいう人も多いです。誰でも発信でき、もちろん危険な間違った情報には気を付けなくてはいけませんが、一番!!国民の生の声、リアルタイムの情報を得ることができるのもSNSです。

『エビデンス!?』いくらでもありますよ!!

そこから目を逸らしているのは、あなたたちです。


そして、僕達は狂った世の中を伝えると共に「イエス様に力がある!!」と福音します。

そうすると、決まり文句のように「エビデンスは?」と。

人間が、神の力を分析し数字にまとめることなどできません。もちろん、体の不調など数値や癌が無くなったなど目に見えるもので証明することもできます。しかし、それをみて「確かに神だ!」と言える人がどれだけいるでしょう。「たまたまでしょ」と言う人もいるでしょう。

この力は過去から今まで信徒の口伝え、もしくは聖書によって伝えられてきました。

ヨハネによる福音書ではこの奇跡のエビデンスが記されています。


ヨハネによる福音書7章
【1節~5節】
そののち、イエスはガリラヤを巡回しておられた。ユダヤ人たちが自分を殺そうとしていたので、ユダヤを巡回しようとはされなかった。時に、ユダヤ人の仮庵の祭が近づいていた。そこで、イエスの兄弟たちがイエスに言った、「あなたがしておられるわざを弟子たちにも見せるために、ここを去りユダヤに行ってはいかがです。自分を公けにあらわそうと思っている人で、隠れて仕事をするものはありません。あなたがこれらのことをするからには、自分をはっきりと世にあらわしなさい」。こう言ったのは、兄弟たちもイエスを信じていなかったからである。

イエス様を信じていない兄弟が、ユダヤ人の仮庵の祭が行われるユダヤへ行く事を、イエス様に勧めてきます。自分の業をもっと公の場ですればいいと。これもイエス様に対して『エビデンス』を見せてみろと言っていることと同じです。


【6節~14節】
そこでイエスは彼らに言われた、「わたしの時はまだきていない。しかし、あなたがたの時はいつも備わっている。世はあなたがたを憎み得ないが、わたしを憎んでいる。わたしが世のおこないの悪いことを、あかししているからである。あなたがたこそ祭に行きなさい。わたしはこの祭には行かない。わたしの時はまだ満ちていないから」。彼らにこう言って、イエスはガリラヤにとどまっておられた。
しかし、兄弟たちが祭に行ったあとで、イエスも人目にたたぬように、ひそかに行かれた。ユダヤ人らは祭の時に、「あの人はどこにいるのか」と言って、イエスを捜していた。群衆の中に、イエスについていろいろとうわさが立った。ある人々は、「あれはよい人だ」と言い、他の人々は、「いや、あれは群衆を惑わしている」と言った。しかし、ユダヤ人らを恐れて、イエスのことを公然と口にする者はいなかった。

ユダヤ人に命を狙われている事を知っていたイエス様は「自分の時が来ていない」とガリラヤに留まりました。そんなイエス様に対して「あの人は良い人、悪い人」と噂がたてられていました。そのことに対して「うわべで人をさばかないで、正しいさばきをするがよい」と、相手の表面ではなく内側に目を向け正しい裁きをしなさいと教えました。


【14節~53節】
祭も半ばになってから、イエスは宮に上って教え始められた。すると、ユダヤ人たちは驚いて言った、「この人は学問をしたこともないのに、どうして律法の知識をもっているのだろう」。そこでイエスは彼らに答えて言われた、「わたしの教はわたし自身の教ではなく、わたしをつかわされたかたの教である。神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教が神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう。自分から出たことを語る者は、自分の栄光を求めるが、自分をつかわされたかたの栄光を求める者は真実であって、その人の内には偽りがない。モーセはあなたがたに律法を与えたではないか。それだのに、あなたがたのうちには、その律法を行う者がひとりもない。あなたがたは、なぜわたしを殺そうと思っているのか」。群衆は答えた、「あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうと思っているものか」。イエスは彼らに答えて言われた、「わたしが一つのわざをしたところ、あなたがたは皆それを見て驚いている。モーセはあなたがたに割礼を命じたので、(これは、実は、モーセから始まったのではなく、先祖たちから始まったものである)あなたがたは安息日にも人に割礼を施している。もし、モーセの律法が破られないように、安息日であっても割礼を受けるのなら、安息日に人の全身を丈夫にしてやったからといって、どうして、そんなにおこるのか。うわべで人をさばかないで、正しいさばきをするがよい」。

さて、エルサレムのある人たちが言った、「この人は人々が殺そうと思っている者ではないか。見よ、彼は公然と語っているのに、人々はこれに対して何も言わない。役人たちは、この人がキリストであることを、ほんとうに知っているのではなかろうか。わたしたちはこの人がどこからきたのか知っている。しかし、キリストが現れる時には、どこから来るのか知っている者は、ひとりもいない」。イエスは宮の内で教えながら、叫んで言われた、「あなたがたは、わたしを知っており、また、わたしがどこからきたかも知っている。しかし、わたしは自分からきたのではない。わたしをつかわされたかたは真実であるが、あなたがたは、そのかたを知らない。わたしは、そのかたを知っている。わたしはそのかたのもとからきた者で、そのかたがわたしをつかわされたのである」。そこで人々はイエスを捕えようと計ったが、だれひとり手をかける者はなかった。イエスの時が、まだきていなかったからである。 しかし、群衆の中の多くの者が、イエスを信じて言った、「キリストがきても、この人が行ったよりも多くのしるしを行うだろうか」。
群衆がイエスについてこのようなうわさをしているのを、パリサイ人たちは耳にした。そこで、祭司長たちやパリサイ人たちは、イエスを捕えようとして、下役どもをつかわした。イエスは言われた、「今しばらくの間、わたしはあなたがたと一緒にいて、それから、わたしをおつかわしになったかたのみもとに行く。あなたがたはわたしを捜すであろうが、見つけることはできない。そしてわたしのいる所に、あなたがたは来ることができない」。そこでユダヤ人たちは互に言った、「わたしたちが見つけることができないというのは、どこへ行こうとしているのだろう。ギリシヤ人の中に離散している人たちのところにでも行って、ギリシヤ人を教えようというのだろうか。また、『わたしを捜すが、見つけることはできない。そしてわたしのいる所には来ることができないだろう』と言ったその言葉は、どういう意味だろう」。
祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。

これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。群衆のある者がこれらの言葉を聞いて、「このかたは、ほんとうに、あの預言者である」と言い、ほかの人たちは「このかたはキリストである」と言い、また、ある人々は、「キリストはまさか、ガリラヤからは出てこないだろう。キリストは、ダビデの子孫から、またダビデのいたベツレヘムの村から出ると、聖書に書いてあるではないか」と言った。こうして、群衆の間にイエスのことで分争が生じた。彼らのうちのある人々は、イエスを捕えようと思ったが、だれひとり手をかける者はなかった。
さて、下役どもが祭司長たちやパリサイ人たちのところに帰ってきたので、彼らはその下役どもに言った、「なぜ、あの人を連れてこなかったのか」。下役どもは答えた、「この人の語るように語った者は、これまでにありませんでした」。パリサイ人たちが彼らに答えた、「あなたがたまでが、だまされているのではないか。役人たちやパリサイ人たちの中で、ひとりでも彼を信じた者があっただろうか。律法をわきまえないこの群衆は、のろわれている」。彼らの中のひとりで、以前にイエスに会いにきたことのあるニコデモが、彼らに言った、「わたしたちの律法によれば、まずその人の言い分を聞き、その人のしたことを知った上でなければ、さばくことをしないのではないか」。彼らは答えて言った、「あなたもガリラヤ出なのか。よく調べてみなさい、ガリラヤからは預言者が出るものではないことが、わかるだろう」。〔そして、人々はおのおの家に帰って行った。

アーメン。

「キリストはまさか、ガリラヤからは出てこないだろう。

よく調べてみなさい、ガリラヤからは預言者が出るものではないことが、わかるだろう

この時代の知者が、イエス様やニコデモに対して『エビデンス』を求めてくる。目で見て確認しなければ信じない人達。しかし、

「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。

と、イエス様は言われています。「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。(ヨハネ20:29)イエス様を信じる者は、誰でも私のもとに来なさい。見ないで信じる信仰が大事です。


ヨハネによる福音書8章
【1節~12節】
イエスはオリブ山に行かれた。朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕
イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。 

アーメン。


罪を犯し石打の刑にされそうになった女を、イエス様は女を憐れみ群衆に向け説教をしました。許しを学び、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。と言われるイエス様。

『エビデンス』(目に見えるもの)を求める方が多い中、聖書の教える聖霊の力は自身を守ってくださり、時には目の前の壁を突破する力を与えてくださります。


ヨハネによる福音書6章
【27節~29節】
朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである」。そこで、彼らはイエスに言った、「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか」。イエスは彼らに答えて言われた、「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」。

人間は朽ちるもの(この世のもの)に重きを置くのではなく、朽ちないもの(イエス様、御言葉)を求めること、イエス様と交わること、神の御旨を行うために信じることが大事です。それは終わりの日にクリスチャンを復活させるためでもあります。

【35節~71節】
イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。しかし、あなたがたに言ったが、あなたがたはわたしを見たのに信じようとはしない。父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。そして、わたしに来る者を決して拒みはしない。わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」。
ユダヤ人らは、イエスが「わたしは天から下ってきたパンである」と言われたので、イエスについてつぶやき始めた。そして言った、「これはヨセフの子イエスではないか。わたしたちはその父母を知っているではないか。わたしは天から下ってきたと、どうして今いうのか」。イエスは彼らに答えて言われた、「互につぶやいてはいけない。わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない。わたしは、その人々を終りの日によみがえらせるであろう。預言者の書に、『彼らはみな神に教えられるであろう』と書いてある。父から聞いて学んだ者は、みなわたしに来るのである。神から出た者のほかに、だれかが父を見たのではない。その者だけが父を見たのである。よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある。わたしは命のパンである。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。
そこで、ユダヤ人らが互に論じて言った、「この人はどうして、自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができようか」。イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう」。これらのことは、イエスがカペナウムの会堂で教えておられたときに言われたものである。
弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」。しかしイエスは、弟子たちがそのことでつぶやいているのを見破って、彼らに言われた、「このことがあなたがたのつまずきになるのか。それでは、もし人の子が前にいた所に上るのを見たら、どうなるのか。人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。しかし、あなたがたの中には信じない者がいる」。イエスは、初めから、だれが信じないか、また、だれが彼を裏切るかを知っておられたのである。そしてイエスは言われた、「それだから、父が与えて下さった者でなければ、わたしに来ることはできないと、言ったのである」。
それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった。そこでイエスは十二弟子に言われた、「あなたがたも去ろうとするのか」。シモン・ペテロが答えた、「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」。イエスは彼らに答えられた、「あなたがた十二人を選んだのは、わたしではなかったか。それだのに、あなたがたのうちのひとりは悪魔である」。 これは、イスカリオテのシモンの子ユダをさして言われたのである。このユダは、十二弟子のひとりでありながら、イエスを裏切ろうとしていた。

イエス様は「天から下ってきた生きたパンでありべる者は、いつまでも生きるであろう。」と、御言葉の力を教えています。
僕の推測も入りますが、それに続き「わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」と書かれており、イエス様がが与えるパンは世の命ため=健康・安全・平安だとも考えます。

イエス様がカペナウムで教えをしており、それを聞いた弟子も頭、自分の常識で理解できず、「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」と非難し、多くの弟子は離れていきました。
ここで「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。」と教えられていることも、肉で理解し生きようとしても苦悩は生まれてくるだけ、霊の思いに聞き従うことが正しい道だと語っています。



この世の人は、見えるもの、耳にすることによって判断し裁きますが、イエス様は人を裁くようなことはしません。もしイエス様が裁くのであれば、それは正しいものになります。なぜならイエス様の答えは三位一体(神(天の父)・イエス様・聖霊)、言い方を変えれば3人の口の証言でもあるからです。

「今だけ!金だけ!自分だけ!」の世の中で、学歴・役職・財産・収入といった上部だけで判断する人達には、真の神を見ることなどできません。清く!聖く!なければ神を見る事などできません。

現代はイエス様ではなく、悪霊が人間の神となっています。その悪霊の欲望どおり生きること、「今だけ、金だけ、自分だけ」となり真理に立つことができず、イエス様が示すワクチン、悪魔崇拝者の話を聞かず悟らず、自分が正しいという神になりルシファーのパン種が生まれているのです。




テサロニケ人への第二の手紙 2:6~12
そして、あなたがたが知っているとおり、彼が自分に定められた時になってから現れるように、いま彼を阻止しているものがある。不法の秘密の力が、すでに働いているのである。ただそれは、いま阻止している者が取り除かれる時までのことである。その時になると、不法の者が現れる。この者を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう。不法の者が来るのは、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、さばくのである。


イエス様は自分の時が来てから現れるのですが、それを止めている不法の者が存在しています。
そして再臨の時、その悪霊を全て滅ぼすのです。
SNSや報道、ニコ生でも本物は隠され、真実を言う方はBANされる時代です。
悪霊に翻弄されるのではなく、一直線にイエス様を信じることしか道はないとも言えます。


今週、あらためて牧師は「聖霊を受けることが大切だ」と語られました。僕達がいくら福音しても『エビデンスは!』と言われても、神の業を知ることは『聖霊』がなくては100%知ることはできない!聖書の言葉への理解力も『聖霊』なくして理解することは難しいです。そして、『エビデンス』を表すとしたら、聖霊を受けたクリスチャンの証、自分自身をもって表すしかありません。若しくは、聖霊を受け自分自身で体験体得していただくしかありません。


コリント人への第二の手紙4:18
わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くのである。


アーメン。


是非、自分自身で神の素晴らしい御業、大きな愛を体験体得してください。


声に出して読んでください。

<救い主・イエス様を受け入れる>
「愛する天のお父様、イエス様。私がこれまで犯してきたすべての罪をお許しください。イエス様が、私の罪のために十字架にかかって下さり、3日目に神が死人の中から、イエス様をよみがえらせたことを信じます。イエス様、どうぞ私の中に入ってください。イエス様が、私のこれからの人生を導いてください。イエス様の御名前により感謝して祈ります。アァメン。」  ※アァメンとは、“そうなったと信じます”という意味です。


<カルトからの解放>
「愛する天のお父様、イエス様。私が今日まで犯してきたオカルト・宗教の罪をお許しください。今まで信じてきたこと、教えられてきたことは、すべて間違いだったと認め、たった今捨て去ります。イエス様の十字架の血によって、私を清めてください。罪が許されたことを感謝し、イエス様の御名前によって祈ります。アァメン。」 

 
<聖霊のバプテスマを受ける>
「愛する天のお父様、イエス様。私に聖霊と火によって、バプテスマを授けて下さい。そして私の全身を、すみずみに至るまで、聖霊で満たして下さい。たった今、聖霊をいただけたと信じます。また、私に異言(いげん)も下さい。いただいたと信じ、舌を動かします。

(ラララララ・・・・と声に出して舌を動かして下さい。それがあなたの異言です。)

イエス様、ありがとうございます。これからはあなたが下さる通り、信じる者に伴う新しい言葉=異言(いげん)を語ります。すべての栄光はイエス様に帰して、イエス様の御名前により感謝して祈ります。アァメン。」


※「異言」とは、神と直接会話できる言葉です。私たちが知性で考えて言葉にして祈る時は、サタン(悪霊)も聞いています。すると、祈りがきかれないように先回りしてしまうことがあるのです。異言はサタンが分からない言語です。聖霊の力によって語りますから、いつでも何時間でも祈ることができます。何と祈ってよいのか分からない時、まだ分からない未来のことも神はご存じですから、祈らせて下さいます。