無題
気づけば僕は頭を深々と下げて泣いていた流れる涙が額を伝うほどに頭を下げて。紗栄子もまた電車の中でこれに似た気持ちの中で揺られながら、子供をベビーカーに乗せて座席に座って外を眺めていた。耳に流れる大好きな歌手の歌詞が心に刺さる、どうしようもなく溢れだしそうな気持ちは確かにあるのにどうにも空虚でがらんとしてるのはきっと隣に彼が居ないからだろう。直感的にそう感じて、今この場に彼がいなくて良かったと周りの足を組む乗客に目をやった。付き合って半年、噎せ返るような夏の間に新しい命を宿し幸せだった。彼はどこにいても優しかったし、感謝をいつも伝えてくれた、悲しい顔なんて絶対しなかったし、愚痴や不満も言わなかった。彼は言っていた「ごめんねとありがと、僕は不器用でごめんねばかり多い人生だからせめて人にはありがとうを伝えられるようにしてるんだ。」その時の顔が今思い出せる1番悲しい笑顔だった気がする。そんな彼を救いたかったのかもしれない、自分を責めて全てを許す生き方に少しでも無償の愛を注いでいきたかったのかもしれない。それももう今は通り過ぎる電車の外の景色と同じで遥か彼方に消えていった。子供が生まれてから、生活は一変し2人で並んで歩いていたゆっくりとした時間は、何かに追われるように新しい命の手を必死に掴んで逃げるような日々に変わった。フリーの絵描きをしている彼の給与は不定期で不明確、このご時世、名前の一つがブランドにもならなければ生活するのは大変だったのだ。何とかしようと思うには大分時間がかかった上に彼の決意は紗栄子も彼にも現状に挫折するような暗い影となった。「明日から就職する為にハローワークに行ってみるよ」彼がそういった時、紗栄子は子供の世話に追われ、家事に疲れてまともじゃなかった、そう思いたかったのかもしれないが。「意気地無し」咄嗟に出た言葉がこれだった。彼はその言葉を聞いて一瞬心の痛みを堪えるような素振りを見せたが、直ぐに笑顔を向けて紗栄子に言った。「ありがとう、そう言ってしまう位に僕の絵を愛してくれて」そして2人は別れた。目の前の新しい2人で育てるはずの命が眠るベビーカーを見つめて、紗栄子は思った。この子には罪はない、彼にも罪はない。私にも罪はない。きっと、そうだ、そうならざるを得ない現実とこの世界が罪なんだ。夢を追うものに一雫の幸せも簡単に与えられない、それを支え合うことすら許してくれない世界のせいだ。こんな世界なんてなくなればいいのに。ぐっと気持ちが姿を現して紗栄子は涙が止まらなかった。どうにもならなかった。どうにもならなくて、窓の外の景色をそれでも睨み続けた。睨む先の世界を憎もうにも景色は流れて消えていく。早すぎる、紗栄子は取り残されたように座席の自分の今が流れているのを感じた。悲しいけれどもなんだか答えに行き着いたような気になって、涙は自然と止まっていた。もう何も恨むのはやめよう。何も悪くない、世界の罪さえもう景色と共に流れて消えた。なんだか言いたくなって仕方なくなって、ついで吐くように紗栄子は言った。「ありがとう」今頃彼はどうしているだろうか。