当たり前のことを当たり前とし、当たり前の上に乗っかっていると、いつのまにか当たり前がどこかに行ってしまう。無意識の領域あるいは忘却の彼方に。当たり前のことに当たり前を積み上げていった結果、新しい当たり前が当たり前としてはばかり、古い当たり前が当たり前でなくなってしまったかのように。

一番古い土台は、家を建てる時の地面であり、人間であれば命であるが、想うこころを絶やさぬようにするにはどうすればいいだろうか。

 

宮城県東松島市。「津波なんてここまで来るわけがない」。そう言われながら、退職金をつぎこみ、ひとりで避難所を作った男性の話が忘れられない。先の東日本大震災の話だ。700人以上亡くなられた同市で、70人もの命を救ったのだ。

 

 

久々の投稿になりました。話がどこかでつながる感じがあるので、いつもの哲学記事にうつりましょう。 

 

            

じっさい読者というものは、どんなに老練な者でも勝手に振舞うことをゆるされると、知らぬうちに作中人物を類型化してしまうのである。
読者は―小説家の場合も同じであって、緊張感を失うとすぐにそうなるのだが―長い間の修練の結果、日常生活の便利さから、かれ自身それに気づかずに類型を行なうのである。鈴が鳴ると唾液を分泌するパブロフの犬のように、読者はほんのちょっとした手がかりをつかまえては、作中人物をこね上げてしまうのである。

                        ― ナタリー・サロート「不信の時代」より ―

 

以前紹介した方法を用いて縦書きで記載。俳句や短歌をブログに掲載したい方は使ってみてね。スマホのAmebaアプリでご覧のかたは横スクロール不可です。「ブラウザで開く」で閲覧ください。

 

届きました。年始の配達が大変なのでしょう。元旦に届くはずが1月4日になりました。さすが古本、送料込みで\515也。仏ヌーヴォー・ロマン作家・ナタリー・サロート著「不信の時代」です。

 

 

類型とはなにか。レッテルといえばわかりやすいのではないだろうか。レッテルはよろしくない意味で使われることが多いが、いいこと悪いことを含め、これで手を打とうと一括りにする、つまりこねあげてしまうのである。

サロートは続ける。読者の手に触れるものはすべて化石化してしまうのだと。作中人物の化石を記憶の中の厖大な雛人形のコレクションに加えるのだと。このコレクションは、かれが読書年齢に達して以来、無数の小説によってたえず豊かにされてきたのだと。

 

見逃せないのが「日常生活の便利さから」というフレーズだ。作中人物、つまり読書の話をしているように見えて、我々は実は日常生活においても人にたいして類型化を行っている、つまりレッテルを貼っている、と言っているようにみえる。

 

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英小説家のE・M・フォスターが、確か「小説の諸相」という著作で面白いことを言っている。小説の作中人物には平面的人物と立体的人物という2つのタイプがあるのだそうだ。

 

平面的人物は、1つの観念や性質でその人を説明できてしまうわかりやすい人物。

ドラえもんの登場人物を思い浮かべてみるとよい。スネ夫、ジャイアン、しずちゃん、出木杉君。「親に買ってもらった高価な物を自慢する」スネ夫、「オレの物はオレの物、オマエの物もオレの物」ジャイアン、「綺麗好きでいつもお風呂に入っている」しずちゃん、「非の打ちどころのない優等生」出木杉君。彼らが登場してくるだけで台詞まで予想できてしまいそうだ。こうした人物が平面的人物。

 

主人公ののび太はどうか。彼も平面的人物と言えないことはない。劣等生でいつも叱られてばかり。おまけに怠け者で、寝ながら口の中におやつを入れてくれる機械がないのかドラえもんに訊いている。しかしながら主人公だけに、時にドラえもんの力を借りずにやってみるんだと決心したり、映画などでしずちゃんの危機とあらば漢気を見せたり。あろうことか未来の時代に行ったら、しずちゃんと結婚しているではないか。こうしたいろいろな側面を持っていて、読者が図り切れないような、時に読者がびっくりしてしまうような人物が立体的人物。

 

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サロートの話に戻ろう。我々は日常においても、人に類型化を行っているのではないか。日常生活の中では誰しも、職場や家庭などでたくさんの人と関わっていることだろう。これら関わりのある人ひとりひとりに対して、漏らすことなく深い話をして、図り切れずびっくりしてしまうことがあるだろうか。人ひとりの持つキャパからまず無理だろう。ある程度のところでわかったつもりになって、平面的人物として手を打っているのではないか。逆に言うと、特段心を乱されることなく静かに過ごしていけているのは、いいところで手を打って着地できているからだ。

 

ところがだ―。今キャパの話をしたが、誰しも若い頃のキャパというのは今よりあって、誰かのことをもっと知りたい。もっと、もっと。どうしてこんなに考えているのにわからないんだろう、ということがあった筈だ。

 

特別な人。恋愛でもいい、尊敬する人でもいい、子供を可愛がるでもいい、特別な人のことを一生懸命考えて思いわずらった経験がどなたにもあるかと思う(ない人はスミマセン)。

 

どうしてわからないんだろう。それはその相手が類型化できない人物だからにほかならない。これまでたくさんの人と接してきてこんな気持ちになったことがない。それはこれまでの人を本当の目で見たのではなく、類型化の目で見ていたから。音楽でもストックフレーズ(※)という言葉があるが、たくさんの人の化石のストック=コレクションを持っていただけだったから。

※旋律・リズムなどのアイデアを蓄積し、それらを組み合わせてインプロビセーション(即興演奏)さながらに演奏すること。そのために蓄積すること。

 

だからその悩んでいることは本当の目で見ていることだと思う。相手を立体的人物として。また悩んでいる自分も平面的人物ではない。悩んでいろいろと考えるが着地できていない立体的人物なのだ。立体的人物が立体的人物を認めてもらおうと悩んでいる。相手が自分のことをどう思っているのか。

 

間に合わせのよくある本当らしさは要らない。思い悩むのはあなたが真っ直ぐな証拠だと思う。

ただ、相手のことなどわかりっこない。わからないのだからわからないまま、ありのままを見る。相手の領域に入って、ただただ傾聴する。相手のことがわからない、共通項が見出せないとしたら大変不安定に感じられるだろうが、その分深い場所に身を置くことができるだろう。小説の作中人物、日常生活、ブログに限らず、特別な人をそうやって大事にしてほしい。

 

この話が震災の話とどこでつながるのかというと、お役所的で平面的対応に終始せず、備えや事後処理・医療・報道・政策などには生の本当の目で見つめていてほしいという点であり、これを切に願うばかりです。

 

長くなりましたが、最後にサロートの言葉をもう少し紹介して締めたいと思います。

 

 

われわれは古い小説が考えついたような作中人物(及びかれらを生かすのに役立っていた古い装置のすべて)が、もはや、今日の心理的現実を入れるに至らないことを知った。これらの作中人物は、かつてのように心理的現実を明らかにする代り、それをごまかして隠してしまうのである
(中略)作中人物が溌刺とした生気とほんとうらしさを獲得するときに、かれらが支柱となっている心理的状態は、その深い真実性を失うのである。

                        ― ナタリー・サロート「不信の時代」より ―