20世紀初頭のアメリカ南部のカントリーブルースメンには、目が不自由な人が一定数いた。冠名に「Blind」(=盲目の)が付くブルースマンだ。

 

・Blind Blake

・Blind Willie Mctell

・Blind Boy Fuller

・Blind Lemon Jefferson

・Blind Willie Johnson

・Blind Gary Davis

 

思いつくまま挙げるだけでもこれだけ出てくる。目が不自由なため、他に職を見出すことができず、ギターを片手に街角や土手の飯場で歌うことを宿命づけられた人たち。町から町へと旅をし、投げられる小銭で生計を立て、時には星空を見上げて眠りにつくこともあったろう。

 

盲目のブルースメンの音楽の技量には目を見張るものがある。Blind Blakeのギターが奏でるチャールストン・ビートは、スピード感とも相まって素晴らしいグルーブ感を生み出しているし、Blind Willie Mctellの朗々とした歌唱力は、同時代の他のブルースマンを寄せ付けない。

 

この技量は、目が見えないことにより、他の五感が否応なしに研ぎ澄まされてきた結果だろう。地下鉄の駅で目の不自由な方が杖一つを頼りに歩いていることがあるが、電車の方にフラフラ行くこともなく、改札も問題なく通り抜けている。どちらも素晴らしい。

 

「盲目のブルースメンはハンデを逆手にとり、超人的な能力を手に入れたのか?」

この問いには「否」の立場をとりたい。「同じ人間なのだから、本当は視覚に問題がなくても持っている能力なんだよ」と。

 

視覚がなまじあるがための弊害が多い気がしてならない。人間の五感は視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚からなるが、特殊な状況がない限りは、最初に対象を捉えるのは目であることが多いだろう。

 

対象を一分一厘の隙もなく、あるがままに、捉えられればよいだろう。また、そうあるべきなのだ。ところが、ここに人為的、作為的な要素が入ることがある。見て対象を捉える前にこういうものだと判断をしてしまったり。あるがままの対象以外の何かを見せようと誘ったり、誘われたり。視覚を取り囲むものには嘘を喚起させる罠が多いように思う。

 

例えば壁に掛かった洋服の皺。これがたまたま人の顔に見えたとしよう。「心霊現象みたいで怖い」、怖いのは思考回路がそう思わせているのであって、洋服の皺はただの皺、罪はないのだ。例えばAmebaトピックス。「赤いビキニ姿で際どいshotを公開 HOT!」などとあるが、見えないものを見せようとせず、サッサと赤いビキニをめくって秘所を見せれば良いのだ。「人間の煩悩は野球のボールの縫い目の数ある」とはよく言ったものだ。

 

一度目を瞑ってみてほしい。何を感じるだろうか?何が感じられるだろうか?

小鳥の囀り、手を入れているポケットの温もり、風の匂い。

人といる時は?

相手の声、ビシッと肩を叩いた時の音と一瞬の温もり、整髪料の匂い。

素朴ながら、あるがままのものを感じないだろうか?

 

盲目のブルースメンの音楽の技量は、人に何かを伝える術が限られた結果だろうが、何者にも阻害されず、シンプルにできることをしただけなのかもしれない。本人たちには視覚の「不自由」という概念すらなく、それが当たり前で生きてきたのだから。

 

視覚の自由がきく側が、対象以外のものを視てしまう「不自由」(と言ってしまう)を身に纏うことになり、視覚の自由がきかない側は別段「不自由」を感じていない。音の世界では自由自在とは皮肉なものだ。「不自由」がわかりにくく、「不自由」と認識しにくいところに不幸があるだろう。

 

人間、畑に転がってるジャガイモみたいなものなんだし、もうちょっと「不自由」があっても良いね。新幹線もネットもなく、「会えないものは会えないんだぞ!」「えーん、明日にならないと汽車が出ない」と言ってるほうが、健康的で平和だね、という記事でした(笑)。

 

だから目を瞑って。お祈りするときみたいに。心の洗濯です。

目を瞑ったら寝るだけだって?疲れてる?ぐっすり寝て下さい(笑)。