書棚から出してきた村上春樹氏の本たち。

今年のノーベル文学賞も受賞ならず。もはや風物詩だ。

※講談社の本のブログへの掲載は表紙のみ可。著作権表記(著者名・タイトル)は写真の通りなので割愛。

 

当時のうら若き乙女たちが挙って読んだのだとか。私が知っている中でも、良いところのお嬢さんたちが読んでいた記憶がある。特徴は“黙する会話”。肝心なことを会話に載せないゆえのリリカルで洒落た感じ。これが彼女たちの琴線をくすぐったのだろう。

 

この“黙する会話”の背景には、暗くて重いエピソードがある。語れば軽くなる、しかしその重みを保とうとするかのように、登場人物たちは肝心なこと、つまりこの背景について語らない。ところが、どうでもいいような会話はよくする。どうでもいいような会話が、かえって背景の重みを際立たせる。ひとつの手法だ。

 

そして“黙する会話”からは思想が伝わらない。肝心なことを言わないのだから批評のしようがない。批評を封じるという特徴を持っている。

 

村上龍氏の本たちも出してきた。春樹氏とほぼ同時代の作家で、こちらはロック、それもローリング・ストーンズの匂いがプンプンする。“黙する会話”はこちらでも見られる。

※講談社の本(以下略)

 

両氏の時代より少し時が流れ、文学における会話のあり方も変化していく。どうでもいいような会話だけが活発になり、背景を脱落させてしまう方向に向かうのだ。初めから背景などなかったかのように。

 

でも…。ニーチェは言う。思想など劣等感の所産だと。これは、思想には建前と本音の二つの局面がある、ということだ。であれば、他に何があると言うのだ。文学こそ思想を背景も含めて伝えねばならないのではないか。

 

同時期に所謂“ポストモダン文学”なるものが時代の中心にいた。近代の後にして現代の前。言葉の戯れと評されることがあるだろうか。簡単に言うと前時代である近代の逆説を愉しむもの、口の悪い言い方をすると、文学でやれることはみんなやりつくした、と言いたがる人たち(だった)。

 

いやいや、やりつくせないでしょうよ。やりつくすって何でしょうか。

文学を無理に新しくしようとしてませんか?…が正直なところだった。

 

アメブロにも言えることだが、人は誰でも自然に書くものだ。放っておいてもいずれ書き始める。自分が自身の外に立って、自身を見たいから書く。そもそも自分が自身に関わっているのだから、自分とは外のものだろう。社会にもたらされた自身が、自分という形で再び社会に関わっていく。だから独り言であろうと、ものを書くということは社会性を持っている。書くというのはその確認だろう。

 

そして、そこには書きたくて書きたくていかんともせんがたい何かがある筈だ。

思想であり、文学であり、アメブロ(?)の基本はここにあると思う。

言葉の戯れや逆説を愉しむ、も悪くないどころか素晴らしいけれど、ね。

 

 

 

【おまけ】

 

うろ覚えで恐縮だが、同時期に批評家として活躍された吉本隆明氏(吉本ばなな氏のお父さん)。氏の「マスメディア論」だったかの著作に、以下のようなXYグラフを載せていた。なるほど、言い得て妙ではある。


※念のため記しておくが、皆さん頭が良くて志が高いです。違った切り口で捉えないでね。