ものすごい力説,<私は幸せです>
[ビューポイント] <私は幸せです>レビュー記事入力2009-12-07午後7:41:16
去る11月26日封切りしたユン・ジョンチャン監督の三回目映画<私は幸せです>は2008年釜山(プサン)映画祭閉幕作で先に紹介になったが1年余りを過ぎてこそやっと開封された。
ヒョン・ビン,イ・ボヨンなどスターらの変身で話題を集めたが,29個スクリーンで今まで6千人余りだけの観客を集めるなど凄惨な興行を記録した。
しかし観客らの外面がいつも'作品性の失敗'だけを意味するのではなくて,'見ること自体が大きい勇気を必要とする'映画らも存在する。
<私は幸せです>やはりそのような映画の中の一つだ。 これにここに一歩遅れたレビューをのせる。
-編集者 注
もじゃもじゃする頭をゴムひもで縛る限り女の後ろ姿. 足をやっと引っ張るように歩く彼女の歩みはのろくて危険だ。
若干ぐらつくように歩いていった彼女の前の姿をカメラが照らして,膝まで降りてくるよう重い目じりのダークサークルとさく烈した唇が眼に触れる。
かわいらしい顔だが顔とからだ全体をいっぱい押さえ付けている疲労感と無気力感だけ見ても,彼女が全く幸せでないとの事実を誰でも知ることが出来る。
精神病院の看護師の彼女,水耕(イ・ボヨン)が新しく合うことになった患者はもじゃもじゃする頭とやはりさく烈した唇をした早晩数(ヒョン・ビン)だ。
家族知り合いが誰もいなくて村移葬の手に引きずられてきた彼は意志(医師)との初めての面談で,紙を取り出してボールペンで'自分が発行した'小切手を書いて明るい笑う。
痴呆にかかったお母さんとかけの借金に(狂う)及ぼした兄のために精神的苦労をして気が抜けてしまったという患者だ。
映画はこの時から病院で生活する万寿の理由と精神と看護師長の水耕の理由を交差する。
万寿の理由は明確に入院する前あった'過去'のことだが,水耕の理由は現在進行形だ。
重要なのは彼らがあまりにも大きい苦痛を受けたり受けていて,その理由という(のは)特定の個人にだけ起きたりあるいは映画やドラマで'だけ'ありふれている見る貴重で特別な理由でなく,
私たちが周辺で十分聞いて見たらしいありふれていて日常的な理由というものだ。
痴呆にかかったお母さんは子供も調べてみられないでなぜ家の外を出て行けば道をさ迷うのが常だ。
整備所を共に運営した堅実な兄は賭博に(狂う)及ぼした後金を出しておくとし,そして今は整備所契約文書を出すとし万寿を困らせる。
さらに真夜中に万寿の首をしめることさえする。
ソウルに上京した後連絡が切れた恋人はある日彼を訪ねてきて新しい人に会ったとし離別を告げる。 水耕の理由も違うところがない。
癌末期の男やもめのために財産を全部飛ばした彼女は仕事をしない時間ならばお父さんの病室で看病をしながら慢性的な疲労と不眠症に苦しめられる。
こっそりとデートした同じビョンドン医師は彼女を遠ざけて新しい恋愛をしながら彼女にことごとに是非を論じる。
日々積まれていく借金督促告知書と電話やはり少しの間も休む隙間を許諾しない。
誰にでも近づくことができるありふれていてもなじむ事件と苦痛ら.
▲ <私は幸せです>
彼と彼女が優しいから,彼らの苦痛は腹(船,梨)となる。
万寿は首をしめる兄に反抗一度正しくすることができなくて,カラオケですら大声を出せないままやっと後ろ姿だけ見えて肩だけ細く揺れる。
水耕は一回ぐらい到達する所ない願望一度口外しておきそうなのに,あたかも肉日がいくらも残っていないお父さんが最後の希望だったかのようにお父さんの病看護に必死にぶらさがる。
世の中は優しい人々により一層苛酷で,優しい人々は同じ不幸でも優しくない私たちよりはるかに大きい苦痛を味わう。
万寿が病院にきて(にせ物だとしても)はじめて幸福を求めたように,もしかしたら今万寿のあの狂ってしまった姿は水耕の未来になるかも知れない。
時間差を置いて苦痛を味わった/体験している二人の男女はたとえ患者と看護師の関係だが,お互いの苦痛を'なのか'したという点で一種の同志的関係だ。
誇大妄想の中で幸福を求めた万寿は苦痛に対する慰労を他の患者でない'看護師'の水耕に渡すということによって水耕を患者のコミュニティ中に引き込む。
水耕は特別に看護師と患者の関係を破棄することはないけれど,他の患者にきては多少他のトンで万寿に話しかける。
しかし彼らは患者と看護師以上の関係で近寄りはしなくて,特別にさらに親密な関係を結ぶことになったということもできない。
薄い連帯の瞬間,あるいは刹那の苦痛の接点. その珍しくて大事な瞬間,彼らは相手に'あなたの苦痛を感知した'という薄いサインだけを送るだけだ。
お互いに肩を貸すには彼らが担っている自身の荷物の重さがあまりにも大きい。
その薄い瞬間が果たして彼らにはどれくらい大きい慰労になることができるだろうか。
ものすごい苦痛の中で果たして'幸福'の純簡易なことができるだろうか。
"私は幸せです"という逆説的な題名のこの映画が本当に扱うのは'苦痛'だ。
主人公らのものすごい不幸と苦痛は,現実の甲男乙女が体験する一般的な不幸らととても似ていている。
そのような現実を直接体験したり間接的に周辺で常に見聞きする観客らの立場ではさっさとこれらの不幸と幸福のうず巻きまん中に入るのが大変だ。
実際には非常に豪華な容貌を持っている2人の俳優が単純に頭をかき混ぜてみすぼらしい身なりを楷書だけではない。
私たちは彼らの苦痛が決して終わらなくてどこにも救援(旧怨)がないだろうという事実をよく知っている。
それは映画のエンディングでも予定されたのだ。
イ・チォンジュンの原作小説がぞっとする悲劇で終わりにすることと違い,映画はそのエピソードを省略したまま'完治して退院した'万寿がバイクに乗って道を走る場面で終わらせる。
バイクにかかった薄いヘッドライトがかろうじて悲秋は薄暗い夜道,とうてい終わらないような道だ. 水耕やはり同じだ。
お父さんを送った水耕ははじめて病院(彼が勤める所と看病をした所,二つとも)を抜け出して一人だけの旅行に行く。
しかしそのように切迫するように水耕を土地の上で,マン精神で捕まえて結んだお父さんが死んだ後単独で残ったその人生を,果たして彼女はよく生き延びることができるだろうか。
映画の報道資料はそのエンディングが'希望'を言いたかったことと説明する。
しかしその終わりもなしで続いた,バイクの細いヘッドライトだけついたその暗くて長い道を見て希望を感じる観客らがどれくらいあるだろうか。
水耕と万寿に置かれた今後の人生の時間を予告するその道には余分の光もパートナーもない。
原作のドラマチックなエンディングが去勢されたまま残った映画のエンディングは,むしろとてもぞっとするように現実に似ている。
とてもぞっとしてとうてい不幸だという言葉をとてもできない,いっそものすごい力説としての幸福をいってその不幸を目の前に正面から押しこむこの映画,真にものすごい。
/キム・スクヒョン記者筆者の他の記事
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