民主主義は万能ではない! | My Aim Is True

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戦後日教組教育を受けた日本人は「民主主義こそ人類が辿り着いた最良の政治形態」だと妄信しています。

民主主義じゃない国は野蛮で遅れた国であるかのように錯覚しています。

例えば、「TVタックル(テレビ朝日)」に中国人論客が出演し、議論して中国を批判する際に、勝谷誠彦らは必ず「中国で選挙が行われたことありますか?ないでしょ?」と民主主義じゃない国は野蛮な国として蔑視します。

ただ、民主主義なんてものは、チャーチル(イギリス元首相)が言ったように、「民主主義は最悪な政治形態である。しかし、それ以上の方法を人類はまだ発見していない」程度のものなのです。

そして、それを誤った方向に進めれば、最悪な方向に向かうことは言うまでもありません。

欧米諸国はアフリカ・中東・アジアの発展途上国に対して、よく民主化を強要しますが、僕は発展途上国においては特に民主主義は不向きだと思っています。

教育が行き届いていないそれらの国々では、教養ある選ばれたエリートが「独裁」的に引っ張っていく方が遥かに有効的であると思っています。

そもそも、明治日本においても、ルソーの思想などに影響を受けた自由民権派が要求する「民主化」に対して、元老らが「時期尚早」として却下したのも、日本にはまだ教育が行き渡っていなかったからで、時機を見て漸進的に「民主化」を取り入れていこうという極めてまともな判断からでした。

また、岩倉使節団の一員として欧米の「民主主義」を見た久米邦武は、「民主主義の選挙は人気投票のようなもので、必ずしも優れた政治家が選ばれない」とその欠陥を早くも見抜いています。

そして、欧米諸国ですら、「デモクラシー」と言えば、かつてはプラトンが批判し、挙句は狂気のフランス革命で化けの皮が剥がれたように、衆愚政治に陥る制度として、声高に唱えられることは憚られたそうです。


さて、戦後日本ではどうでしょう。

元々はGHQ占領下におけるマッカーサーが「劣等黄色人種の日本人にアメリカ様が民主主義を教えてあげよう」と戦後教育の方向性を強制した影響ですが、独立後も日教組はフランス革命を美化し、そこで掲げられた「自由」「平等」「国民主権」等のスローガンを人類最良の「民主主義」の価値観として、子供たちに刷り込んでいきました。

もちろん、僕も理想論として「民主主義」は認めていますが、チャーチル同様、マシな制度程度の認識でしかありません。

民主主義が正常に機能するためには、それに対応した教育が選挙民に涵養されなくてはならないからです。

つまり、日本的民主主義を機能させるためには、教育によって、知識だけでなく、日本的な価値観・道徳観が涵養されなくてはなりません。

選挙民は個々の利益だけでなく、時に自己犠牲を敷いても国益を考えなくてはなりませんし、政治家は選挙のための人気取りだけでなく、時に選挙民にとって耳の痛い話をしながらも国民を正しい方向へと誘導しなくてはなりません。

日本のように代議士(政治家)を立てる間接民主主義においては、民意が問われるのは基本的に選挙だけであり、その後は選挙で選ばれた「政治のスペシャリスト」である(べき)政治家に任せることが必須であり、気まぐれな世論調査である「民意」を「選ばれた政治のスペシャリスト」である(べき)政治家に強要するのは必ずしも正しいことではありません。


しかし、今の日本の民主主義は正しく機能しているでしょうか?

していませんね。むしろ、民主主義の失敗である衆愚政治に陥っています。

その原因は、日教組教育利己的個人主義者を培養する教育であったからです。

国家観が欠落した教育であったからです。

国家観が欠落した利己的個人主義に陥った「国民」に、「国民主権」という思想が行き渡っては国家は滅びます。

辛うじて、それらを防いできたのは、官僚だったのでしょうが(劣化著しいとはいえ)、フランス&ロシア革命の左翼思想を押し進めて、官僚=人民から搾取する打倒すべき支配者」というプロパガンダが張られて、官僚寄りや官僚に少しでも甘い政治家はすっかり「悪」というレッテルが貼られる有様です。


そうした中(「官僚=悪」という世論の中)、加地伸行・大阪大名誉教授が産経新聞の「正論」において、思い切ったことを主張しました。

3月10日のものなので、だいぶ時間が経ってしまいましたが、読んでいない人もいるでしょうから紹介したいと思います。


タイトルは、「国民は武士道的官僚を信頼する」でした。


[記事]

「民主党政権は諸省庁に対して、『政治主導』だと言う。その根拠は民主主義すなわち選挙によって国民が民主党を選び政権を委託したではないか、というわけである。だから、他党はもちろんのこと、官僚も民主党の言うことに従えと主張している。

≪国会議員は『神さま』でない≫

(わら)ってしまうとはこのことである。この理屈を支えているのは、選出された国会議員を『選良』どころか『神さま』に仕立てあげている単純な選挙至上信仰である。

冗談ではない。できあがった人間集団、すなわち組織の場合、まずは2割ぐらいはまともであるが、あとの8割はどうしようもない連中というのが通例である。

国会議員とて例外ではない。まともなのは2割そこそこ。そのことをよく心得ているのが小沢一郎民主党幹事長である。だから、口を開けば、選挙区に帰って次の選挙に勝つよう努力しろと言っている。すなわち、お前らは盆暗(ぼんくら)と言っているのと同じではないか。

国会議員は神さまではない。それどころか、多くは怪しげな雰囲気。4億円の、12億円の、といった悪銭の腐臭が立ちこめている。叩けば埃どころか必ず悪臭が漂ってくる連中が多い。われわれ国民は大半の国会議員を信頼していない。むしろ官僚を信用しているのである。なぜか」


「大半の国会議員を信頼していない」のは多くの人が同調するでしょうが、「むしろ官僚を信用している」とは思い切ったことを断定します。

何故なら、左翼思想を刷り込まれたニホン人は、「国会議員」「官僚」という国家権力そのものに「打倒すべき権力者」と感じているからです(もちろん、昨今の官僚の劣化に対する怒りもあるでしょうが)。

左翼は「人間は生まれながらにして『平等』であり、皆、『同じ』である」と思いたがりますが、当然のことながら、人間には能力差があり、優れた能力(だけでなく倫理観)を持つエリートが国家を引っ張っていくべきだと個人的には思います。

そして、時に「エリート」の奢りにストップをかける制度として民主主義が有効なのですが、左翼はエリートの存在そのものを否定的に見ているため、優れたエリートが育つ環境すら整えられていないのではないでしょうか。


[記事]

「≪国家を背負って立つ気概≫

明治維新後、日本が図った近代国家とは、要するに当時の欧米諸国の物まねであった。その最大の物まねショーが国会開設であり選挙であった。しかし、物まねとは外形(形式や制度)のことであり、内面性(精神や本質)の導入は困難であった。

その結果、今日に至るまで物まねショーが続いている。すなわち当選するために選挙民に対して徹底的に媚び諂(へつら)い、利権ばらまきの約束をする。

しかし、このような形で登場する政治家は、たかだかこの100年の話にすぎない。それ以前の政治家、特に江戸時代の武家為政者の精神(公への忠誠)は近代国家になっても続いてきており、窮極的には近代官僚(主として中央省庁官僚)の精神となってきていた。それは、一言で言えば、国家を背負って立つ気概である。

つまり、日本における近代国家化の過程で二種の政治家が生まれたのである。一つは選挙を通じて生まれる民選政治家(いわゆる国会議員)、もう一つは、国家試験合格者の国選政治家(いわゆるキャリア官僚)である。

民選政治家は、選挙が頼りであるから、国家のことよりも選挙区が大切となりやすく、しぜんと選挙区の利害とつながりやすい。

国選政治家は、国家百年の計を第一とするから、国民生活に対する配慮に欠けることもあり、国民に憎まれやすい。

両者それぞれ一長一短がある。しかし、一者のみであると、国家はバランスを欠く。両者の節度ある対立があるほうが、むしろ国民のためには良いのである。

その意味では、両者には上下はなく、対等であるべきである。ところが欧米流に、国会議員が上で、官僚が下だ、という観念が普及している。その結果、今日、民主党政権による無惨な大衆迎合行政が行われようとしている。この大衆迎合の行きつく先が国家崩壊であることは言うまでもない


政治には、「国民に目先の利益をチラつかせて喜ばす政治」と「国民に不人気ながらも長期的な国益に繋がる政治」があります。

こういうと、最近、世間では単純な二元論で語られがちなので、その構図を「(目先の)国民生活が第一」と「(長期的な)国益」、言い換えれば、「国民」か「国家」かという二元論で論じられがちです。

ただ、言うまでもないことですが、国益が適えば、当然、国民への利益になるのですが、国家観の欠落した人にはそれが理解できないのです。


そして、もちろん、この議論には大前提があります。

それはキャリア官僚が真のエリートであることです。

真のエリートとは、「国家を背負って立つ気概」と武士道精神を有し、滅私奉公の精神を持つ者をいいます。

ところが、どうやら最近のエリート官僚からはそれが感じられなくなっているために、「霞ヶ関はけしからん」、そして、「霞ヶ関をぶっ壊せ!」という議論にまでなってしまうのです。

また、どうも最近は一つの問題に対して、中身を考慮しないで、制度やシステムだけのせいにしてしまいがちです。言い換えれば、目に見えないものを考慮しないで、目に見えるものだけで判断するという唯物論になりがちなのです。

制度、モノ、金、数字だけで判断するようです。

例えば、民主党は小沢一郎の献金問題が起これば、すぐに「政治資金規正法を改正せねば」と制度を改革すれば解決するかのように論じます。


違うのです。

霞ヶ関問題でも政治資金問題でもそうですが、制度を変えたら解決するというものではなく、その中身、が問題のです。

制度や法律を変えても、その抜け道を探そうとする心がある限りは結果的には解決しないのです。

中国風に言えば、「上に政策あれば、下に対策あり」ということです。

問題は、日本人が、そうした中国風の心を有するようになったことです。

それを改善するには、そうした心を養う教育を正常化するしかないのです。


≪誤れる大衆迎合的な政治≫

とすれば、ここで足を踏んばるべきは官僚諸公ではないのか。

もちろん、それができるためには、みずからも身を正さねばならない。その第一は、身の処しかたである。

世上、特殊法人をすべて極悪のように言うが、それは浅薄な誤解である。必要な特殊法人はかなりある。官僚が退職後にそこに勤務することがあっていい。ただし、思いきって給料を引き下げることだ。あるいは一律に年間300万円でいいではないか。年金は早期に給付する。

一般に、日本の官僚は清廉である。中国や韓国の官僚のような収賄したい放題とは全く異なる。武士道が生きている。この点を日本人はよく知っている。日本人は官僚を信用しているのである。また日本人の深層心理として、難関の国家試験を突破してきたキャリア官僚に対する畏敬の念もある。

官僚諸公よ、奮起せよ。国家的見地から堂々と発言し、民主党の誤れる大衆迎合的政策案を批判すべきである。諸公がもし、主君を求めるならば、それは大臣や政権ではなくて〈国民〉である。現在の大臣や政権は、国民に対して選挙用に〈一つの案〉を提示したにすぎない。当然、その案は国家的見地から検討すべきであり、それができるのが官僚なのである。国民は武士道的官僚を信用しており、何億円もの腐臭まみれの民主党議員らを信頼していないのだ。

議会制民主主義の形は全世界同一ではない。その国の歴史や国民の意識に基づき、独自の在りかたがあっていい。わが国の場合、民選政治家への抑止力として国選政治家の価値を高く評価してその位置・組織を支持すべきである」


これまで僕が何度も主張してきたことに近いと思います。

霞ヶ関をぶっ壊して政治家が独裁的に「政治主導」するのではなく、政官一体となって政治を行うべきなのです。

たった数人の政治家が独裁的に「政治主導」しただけで国益にとって最良の策を打ち出せるわけではないからです。

筆者が指摘するように、「エリート」たる(べき)官僚と「庶民の代表」たる(べき)政治家が切磋琢磨し、互いの暴走を食い止める抑止力となるべきなのです。

本来は、議員立法などは別にして、「エリート」が作った法案・政策に対し、「庶民の代表」である政治家が庶民感覚によって、それが日本の国柄に即したものなのか国会で討論しながら修正&可決、あるいは廃案にしていくものでしょう。

これが(保守)政治家の役割です。

逆に左翼政治家にとってみたら、それが日本解体に有効なのかの観点で見ます。

ただ、最近は「国会の討論」そのものが無意味なものとなり、形だけ討論して、最後は「数の独裁」によって通されてしまうようになっています。

そして、更には、「マニフェスト政治」の名の下に、国会の討論そのものが完全否定され、「選挙で勝った我々のマニフェストは国民の総意」として、問答無用で「数の独裁」によって通されてしまう有様ですが、一人の政治家が「天皇もきっとそう仰ると思うよ」「国民の声」を騙って、独裁者として振舞うようにすらなってしまっています。


結局、民主党の掲げていた「政治主導」とは「民選政治家」による独裁政治そのものにしか思えません。

無論、「保守するために改革する」余地はあるでしょう。

また、これまでの弊害もあるでしょう。

これまでの日本の政治は、閣僚が政治主導しつつ、官僚がその右腕となってフル稼働するというものでしたが、それがやがて何事も官僚任せで政治主導しない閣僚も生まれ、尚且つ官僚が劣化していったことに日本の政治の停滞が見られるのです。

ならば、単純に制度をぶっ壊すのではなく、優れた政治家を生み、優れたエリートたるべき官僚を生み出すことに力を入れなければ根本的な解決にはならないでしょう。

何でもかんでも「日本流はダメ」とする破壊的な左翼思想はもうたくさんです。


僕は子供の頃、「プロ野球の選手になりたい」と思っていました。

それ故、「野球のエリート」であるプロ野球選手がやる気のない、ファンを無視したかのようなプレーを見せると、何とも憤りを感じます。「俺がプロ野球選手だったら、そんなことはしない。せっかく、その立場にいながら、何をやっているんだ!」と批判したくもなるでしょう。

しかし、だからといって、「プロ野球をぶっ壊せ!」という気にはならないでしょう。

最近、僕は、時間を戻せるなら、「国家公務員(官僚)になって、国家のために精進したかったなぁ」と思うときがあって、だからこそ、「官僚は何てざまなんだ!」と批判したくもなりますが、だからと言って、「霞ヶ関をぶっ壊せ!」なんて思う気には全くなりません。

結局、「ぶっ壊せ!」とは、フランス革命(ルソーやロベスピエール)ロシア革命(マルクスやレーニンやスターリンや毛沢東や金日成&金正日)の影響を受けて、左翼化した者たちの破壊衝動の発露に過ぎないのです。