今年も10月は
ピンクリボン![](https://emoji.ameba.jp/img/user/ma/madoromin/354605.gif)
のキャンペーン期間ですね![](https://emoji.ameba.jp/img/user/ko/kona-blog/1433846.gif)
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皆さん、乳癌の検診に行いかれた事はありますか![](https://emoji.ameba.jp/img/user/yu/yunapeach/124882.gif)
まだ行かれた事の無い方は『どんなことをするんだろう??』と不安に思われるかもしれません。
20代中盤の女性なら、『まだ行かなくても良いんじゃない?』と思われているかもしれません。
でもね。
なってからでは遅いと思うので・・・・。
自分自身を大切にすると言う意味でも、検診には参加する事をお勧めします。
勿論、私も行っていますよ。
キッカケを与えてくれたのは・・・・母でした。
ご存知の方もいらっしゃると思いますが・・・私の母は、乳癌からの再発・転移で骨髄癌になり49歳で亡くなりました。
私が22歳の時の事です。
闘病期間は・・・2年半くらいだった・・・かな。
病院で、長年、看護師長をしていた母だけに、どうしてもっと母自身が早く自分の中の変化に気付かなかったのか・・・と悔しい気持ちでいっぱいでした。
その時の気持ちを書いた前ブログはもう全て消えてなくなってしまっているので見直す事は出来ませんが・・・改めてここで書いてみようかと思います。
長くなりますが、乳癌についても書いておりますのでお読み頂けたらと思います。
(私が20歳から23歳の時の話です)
母が亡くなってから数ヵ月後、台所の荷物の整理をしていると、食器棚の上にあった段ボールに書かれた”お弁当箱”という文字を見て、父が一言こう呟いた。
『お母さんの字だな』
父の寂しげなその表情を見て、胸がぎゅーっと締め付けられる様な想いになった。
その光景が、今でも頭から離れない。
23歳の私は、いよいよ現実を受け入れなければいけない時なのだ・・・と悟った。
私が20歳の頃のある日。
実家に帰った私が自分の部屋の片付けをしていると、廊下を母が横切った時にこういった。
『あっこさ~ん。お母さん、最近なんか胸のここ(上の方)が痛いんだ~』
そんな話をした事が無い健康体な母だけに不思議な感じがしたが「いつも人には”おかしいと思ったらすぐに薬飲め!病院行け!”って言うんだから、自分もそうしなよ~」とだけ言って、私はまた部屋の整理を続けた。
今思えば、あの時既に母の身体を癌が蝕んでいたに違いない。
どうして気付かなかったのか?
どうして病院に連れて行かなかったのか・・・?
この時の事は、どれだけ悔やんでも悔やみ切れない。
それから半年くらい経った頃だろうか・・・・母から、私の自宅電話に連絡があったのは。
「どうしたの?」
と尋ねた私に、バツが悪そうに母はこう言った。
『お母さん、前にあっこさんに胸が痛いって言ってたでしょ。・・・・乳癌になっちゃったみたいなの。でもね、左だけ胸をとっちゃえば大丈夫だから』
「・・・・」
その言葉を聞いて、はじめは声が出なくなった。
しかし、その直後、今度はどこからともなくフツフツと怒りが込み上げて来たのだ。
「何やってんのよ?!看護師でしょ!なんでもっと早く気付かなかったのよ!!胸とっちゃえばとかそう言う問題じゃないでしょ?!」
母に言ったところでどうしようもないのは百も承知だったけれど、この気持ちをどこにぶつけたらいいのかわからず、母を攻めてしまった。
一番辛いのも、一番苦しいのも、悲しいのも、ショックなのも・・・・全部母だったのに。
女性として、胸を片方切除すると言う事にどれだけの重みがあるのか・・・・考えれば誰でもわかる事なのに、私はそんな母を気遣う事も、優しい言葉の1つもかけてあげる事も出来なかった。
電話口で『ごめんね。ごめんね』と謝る母は、涙声だった。
心配したものの、その数ヶ月後、入院・手術して“左胸を切除した”と連絡があった時には、これで暫くすればまた元気な母に戻るのかと思うと・・・・なんだかホッとしたのを覚えている。
手術後、帰郷した際に母の背中を流そうと一緒に浴室に入った時には、切除した胸の部分を見せてくれた。
『これでもう大丈夫』という事が言いたかったのだろうけど・・・・・片方の乳房がなくなっている母の身体を見て愕然としたよ。
もうこれで、全ての“不”が終わりであって欲しいと願った。
また元気な母に戻って、これからの母の人生が全て“幸せ”であって欲しいと願った。
私、当時22歳。
ある日、ドラマの撮影待機中に、滅多に電話してこない兄からの着信があり・・・・なんだか嫌な予感がしたんだ。
「もしもし」と電話をとった私に、信じられない言葉を兄が告げた。
『おばあちゃんが昨日亡くなったんだわ。明日の夜、お通夜だから。こいよ』
一瞬、何を行っているのか意味が分からなかった。
私の記憶の中では、半年前に会った時の元気な祖母の姿のままだったから。
「え?」
と、思わず周りにいた皆が振り向く程大きな声で聞き返してしまったし、混乱した頭では「は?なんで?いつ?どうしたの?」と畳み掛けるように質問するしか出来なかった。
『小さな段差に躓いて、倒れた拍子にお尻の骨を折ったからちょっと前から入院していた。お前に話すと心配かけると思ったから言わなかった』
続けて、前の晩も父と母がお見舞いにいった際に持って行った差し入れを「おいしいね、おいしいね」と嬉しそうに食べていたんだそうで・・・・今朝早く、誰にも看取られる事が無いまま静かに一人で旅立ったのだとの説明された。
翌日、バラエティー番組の収録を終え、一番早い電車に飛び乗り実家へと向かった。
信じられない気持ちのまま・・・。
うちの家庭は、私が生まれた時からずっと共働きだったので、両親が仕事の時間帯は母方の祖母の家に預けられて育った。
父兄参観も、運動会も、家庭訪問も・・・なかなか参加してもらえなかったけれど、子供心になんとなく「わがままいっちゃいけないんだ」って思っていた気がする。
むしろ、教師の父と看護士の母という両親の職業を誇りに思っていたから「忙しくても仕方ないのだ」と思っていたから、寂しかったけれど、別に嫌じゃなかった。
おばあちゃんと一緒の生活は、とても楽しかった。
その大好きだったおばあちゃんがこの世からいなくなった。
というか、入院していた。
その前に、怪我をしていた・・・・。
全部知らないのは私だけ。
家族の中で、いつも、なんでも知らないのは・・・私だけ。
家族と離れて暮らす自分だけがいつだって蚊帳の外で、いきなりここ何ヶ月の急展開した状況を全て飲み込む事等到底不可能だった。
お通夜には既に親戚一同が顔を揃えていた。
母に喪服を渡され、気持ちの整理がつかないまま着替え・・・祖母のもとへ向かうと、親戚のおばさんが『おばあちゃん、あつこがくるの待ってたんだから顔見てあげて』と言い、涙をぬぐっている。
不思議なことに、棺の中の祖母と対面し、お花を置いても実感は沸かなかった。
優しい表情で、まるで眠っているみたいにみえたから・・・。
祖母が眠る部屋の隅には、母が苦しそうに座っていた。
自分の身体の事と祖母の事で心労が重なって、とても疲れているようだった。
そんな母の姿を見ていたら、なんだか傍に居てあげたくなって、その晩は母と寄り添って祖母が眠る部屋で一緒に夜を明かしたんだ・・・。
祖母の四十九日が終わる頃、母の容態は更に悪化していた。
祖母の葬式の時、足を引きずって歩いている母を見ておかしいとは思っていたが・・・・やっぱりそうだった。
癌の再発である。
そして、数日後、兄からの電話で再び母が入院したと言う話を聞いた。
母の再入院から1ヶ月程経ったある日、再び兄から電話があり『あと2、3ヶ月だろうから早く会いにこい』とだけいわれたが、
まだ大丈夫だろう・・・・
また薬と手術で治るんだろう・・・・
そう思い、結局、私が見舞いに行けたのは母の再入院から2ヶ月程してからだった。
見舞いに行き、再会した母を目の前に、病気の進行を肌で感じた。
母の手を取り『お母さん、あつこだよ~』と言ってもニコッと笑うだけ。
『先週くらいまではちゃんと喋れたんだけどね・・・・』と父が呟き、兄が『“早く”会いにこい』と言った意味が分かった・・・・。
今度の癌は乳がんではなかった。
病名、“骨髄癌”。
病名をきいただけで、その恐ろしさの想像はつく。
もう、身体のどこか一部を取り去れば治ると言うレベルではない・・・・骨だ。
なんだか、母は子供に還ったかの様だった。
簡単に言うと、感情をコントロールする事が全く出来ない状態だ。
父が持って来た(カットされた)メロンを”1口のサイズが大きい”といいたいのか、言葉にはなっていない声で怒る。
自分の言いたい事が伝わらないと泣く。
自分の思い通りにいかないと、また泣く。
怒る、泣くの繰り返し・・・・。
全てを受け止め「はいはい」と言い母に付き合う父に最初はとても驚いたが、この”感情の波”は癌の進行を抑える為につかっている薬の副作用の一種なのだと知り、切なさで胸が苦しくなった。
自分がこんな事態に陥ったら、ココまで受け止めてくれる人はいるのだろうか・・・・?
例えそれが夫婦であったとしても、こんなに変わってしまった自分の伴侶の姿を受け止められるのだろうか・・・?
この姿を見て、私は自分の両親達の愛情を感じた。
実に皮肉だ・・・・。
見舞いから1ヶ月が経とうとした頃だ・・・・。
兄からの着信。
『今日明日が峠だそうだから、帰ってこられるなら帰ってこい』
そう言われた瞬間、目の前が真っ暗になった。
覚悟は出来ているつもりだったのに・・・・。
事情を汲んでくださったドラマの関係者の皆さんが、この日から数日間、私の撮影日を変更してくださり、すぐさま実家に帰る電車に乗り込み、母の病院へ向かった。
病室で横になっていた母は、まるで別人だった。
もう喋れないだけじゃなく、感情の表現すら出来なくなっていた。
当然、娘が来たことなど理解出来ているわけがない。
その外見からは、自分の母である事が認識出来ないくらい・・・変わり果てていた。
呼吸が弱くなっているので酸素マスクを外す事は出来ないし、薬の副作用で髪が抜け落ち、歯はボロボロ、体中が浮腫んでパンパンに晴れ上がっていて、代謝が悪くなっているせいか身体の節々には内出血の跡だらけ。
点滴の為に何度も針を抜き差ししている腕は、黒ずみ・・・傷になっていた。
筋肉が弱ってしまっているから目を上手く閉じる事が出来ない為、白目の部分は黄色く濁り飛び出してきてしまっている。
呼吸は荒く、酸素マスクの内側で『ゼィゼィ』と大きな音をたて、タンがからむ度、吸引機でそれを吸い取ってあげる・・・繰り返し。
ここに書いた以外にも、思わず目を背けたくなる様な、あまりにも厳しい現実が私達を待ち受けていた。
・・・私は、癌と言う病気の恐ろしさを知った。
あんなにも元気だった人間をここまで変えてしまう病なのだ。
目を開けていても、当然私の事がわかる訳もなく、もうニコリともしてはくれない。
息をしていても、もう言葉を発することも、私の名前を再び呼んでくれる事も無い。
どうしてもっと早く見舞いに来る事が出来なかったのか・・・・
何故時間を作る努力が出来なかったのか・・・・
本当に、本当に、ほんとうに後悔した。
深夜になっても、私はずっと母の隣にいた。
「あの時こうしていれば」という後悔は、もうしたくなかったから。
『少し眠りなさい』と言われても、母の手を握り、ずっと腕をさすり続けた。
少しでも、その身体の体温を逃がさないよう・・・。
夜が明ける頃には、看護師さんと先生がきて、母につけられていた脈拍計を取り去った・・・。
もう、機械で測れないほど、脈が弱っていたのだそうだ。
そして、その頃・・・・最初は大きな音を立て『ゼィゼィ』していた呼吸が、急激に弱まっていった。
その様子を見ていた親戚達は、ざわざわしだして・・・・
先生が病室に戻ってきて、母の目を開き、・・・・時計を見る動きをし、よくドラマで見たことがある『●時●分』と言った。
先生に、頭を下げる父。
顔を背け、静かに涙を流す人。
声をあげ、号泣しだす人。
母の名前を何度も何度も呼ぶ人。
これも、ドラマのようで・・・・
どうして母なんだ?
どうしてこの病気は私の母を選んだんだ?
悪いことをしている人だっている。
命を粗末にしている人だっている。
なのに、なんでよりによって“看護師”というみんなの命を救う側だった母が40代という若さでこの世を去らねばならないのだ?
もっともっと大切に出来たはずの命なのに・・・・
神様なんて、きっといない。
ちゃんと見ていてくれているなら、こんなことしない。
私には、理解できなかった。
だって、握り続けている母の手は、まだ温かいんだから。
目の前にいる母は、眠っているようなのだ。
「嘘だ。まだ生きてるよ!まだ生きてるって!!まだ、あったかいもん。お母さん、あったかいもん」
そう言いながら母の手をさすり続ける私の肩を、誰かが“ポンポン”と叩いた。
振り返った先にいたのは・・・・涙を拭う兄。
それから・・・・もう1度病室を見渡し・・・・みんなの泣き崩れている姿を見て現実に戻った瞬間、涙が止まらなくなった。
半年前、祖母の時に受け入れることが出来なかった“現実”を受け止めなければいけない時が来た。
お葬式では、葬儀場に入りきらないほどのお花と、地元でこれまでにないくらい沢山の人が駆けつけてくださったという話を聞いた。
葬儀場の方に『沢山の方から慕われていらっしゃったんですね』といわれ、私が見ることの無かった母の一面に気付く。
通夜、葬儀と誰かに声をかけられる度『母さんにはお世話になったんですよ』『お母さんには良くしてもらったんですよ』という話を伺い、そこでまた改めて自分の母の偉大さを知った。
そして、この時「私も母のような女性になりたい」と強く思った。
これが、私が22歳の時の話。
私は作家じゃないし、自分の感情を書いただけなので「~だった」とか「~た」って語尾ばかりだけど、これが思い出して書いた“リアル”。
前の文章の方がうまく纏めてあった気がするから・・・削除してしまったものをこうやって改めてまた書くって難しいな・・・と痛感しました。
(本当はピンクリボンのキャンペーンが始まってすぐにこの記事をUPしたかったんだけど・・・なんだか色々考え出しちゃうと文が書けなくなってしまって、結局こんなに遅くなってしまいました。トホホ)
でも、書いてみて、また感じたのは「命は大事にしなきゃ」ということ。
母のように、生きたい気持ちがあっても、自分の意に反して命を失う人間もいる。
だから、命を粗末にしちゃいけないんだ。
一体何を見てきたんだろう・・・。
私自身も反省しなきゃいけない事があった。
母に怒られますね・・・・「何考えてるの?」って。
その前に、生きていたら色々相談していたかもしれないな。
あぁ・・・お父さん、お母さんがいるってやっぱり羨ましい。
って、話がそれてしまいましたが。
もっともっと自分を大切にすると言う意味でも、やっぱり身体の検診は大事だなぁ・・・と思います。
早期発見、早期治療。
早く見つけられれば、助かる命はあるはずだから。
大切な誰かを悲しませない為にも、自分自身を大切にすると言うためにも・・・・考えるきっかけになればと思います。
長い文章、読んでいただき有難うございました。
ピンクリボンの輪が、もっと広がりますように・・・・
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皆さん、乳癌の検診に行いかれた事はありますか
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まだ行かれた事の無い方は『どんなことをするんだろう??』と不安に思われるかもしれません。
20代中盤の女性なら、『まだ行かなくても良いんじゃない?』と思われているかもしれません。
でもね。
なってからでは遅いと思うので・・・・。
自分自身を大切にすると言う意味でも、検診には参加する事をお勧めします。
勿論、私も行っていますよ。
キッカケを与えてくれたのは・・・・母でした。
ご存知の方もいらっしゃると思いますが・・・私の母は、乳癌からの再発・転移で骨髄癌になり49歳で亡くなりました。
私が22歳の時の事です。
闘病期間は・・・2年半くらいだった・・・かな。
病院で、長年、看護師長をしていた母だけに、どうしてもっと母自身が早く自分の中の変化に気付かなかったのか・・・と悔しい気持ちでいっぱいでした。
その時の気持ちを書いた前ブログはもう全て消えてなくなってしまっているので見直す事は出来ませんが・・・改めてここで書いてみようかと思います。
長くなりますが、乳癌についても書いておりますのでお読み頂けたらと思います。
(私が20歳から23歳の時の話です)
母が亡くなってから数ヵ月後、台所の荷物の整理をしていると、食器棚の上にあった段ボールに書かれた”お弁当箱”という文字を見て、父が一言こう呟いた。
『お母さんの字だな』
父の寂しげなその表情を見て、胸がぎゅーっと締め付けられる様な想いになった。
その光景が、今でも頭から離れない。
23歳の私は、いよいよ現実を受け入れなければいけない時なのだ・・・と悟った。
私が20歳の頃のある日。
実家に帰った私が自分の部屋の片付けをしていると、廊下を母が横切った時にこういった。
『あっこさ~ん。お母さん、最近なんか胸のここ(上の方)が痛いんだ~』
そんな話をした事が無い健康体な母だけに不思議な感じがしたが「いつも人には”おかしいと思ったらすぐに薬飲め!病院行け!”って言うんだから、自分もそうしなよ~」とだけ言って、私はまた部屋の整理を続けた。
今思えば、あの時既に母の身体を癌が蝕んでいたに違いない。
どうして気付かなかったのか?
どうして病院に連れて行かなかったのか・・・?
この時の事は、どれだけ悔やんでも悔やみ切れない。
それから半年くらい経った頃だろうか・・・・母から、私の自宅電話に連絡があったのは。
「どうしたの?」
と尋ねた私に、バツが悪そうに母はこう言った。
『お母さん、前にあっこさんに胸が痛いって言ってたでしょ。・・・・乳癌になっちゃったみたいなの。でもね、左だけ胸をとっちゃえば大丈夫だから』
「・・・・」
その言葉を聞いて、はじめは声が出なくなった。
しかし、その直後、今度はどこからともなくフツフツと怒りが込み上げて来たのだ。
「何やってんのよ?!看護師でしょ!なんでもっと早く気付かなかったのよ!!胸とっちゃえばとかそう言う問題じゃないでしょ?!」
母に言ったところでどうしようもないのは百も承知だったけれど、この気持ちをどこにぶつけたらいいのかわからず、母を攻めてしまった。
一番辛いのも、一番苦しいのも、悲しいのも、ショックなのも・・・・全部母だったのに。
女性として、胸を片方切除すると言う事にどれだけの重みがあるのか・・・・考えれば誰でもわかる事なのに、私はそんな母を気遣う事も、優しい言葉の1つもかけてあげる事も出来なかった。
電話口で『ごめんね。ごめんね』と謝る母は、涙声だった。
心配したものの、その数ヶ月後、入院・手術して“左胸を切除した”と連絡があった時には、これで暫くすればまた元気な母に戻るのかと思うと・・・・なんだかホッとしたのを覚えている。
手術後、帰郷した際に母の背中を流そうと一緒に浴室に入った時には、切除した胸の部分を見せてくれた。
『これでもう大丈夫』という事が言いたかったのだろうけど・・・・・片方の乳房がなくなっている母の身体を見て愕然としたよ。
もうこれで、全ての“不”が終わりであって欲しいと願った。
また元気な母に戻って、これからの母の人生が全て“幸せ”であって欲しいと願った。
私、当時22歳。
ある日、ドラマの撮影待機中に、滅多に電話してこない兄からの着信があり・・・・なんだか嫌な予感がしたんだ。
「もしもし」と電話をとった私に、信じられない言葉を兄が告げた。
『おばあちゃんが昨日亡くなったんだわ。明日の夜、お通夜だから。こいよ』
一瞬、何を行っているのか意味が分からなかった。
私の記憶の中では、半年前に会った時の元気な祖母の姿のままだったから。
「え?」
と、思わず周りにいた皆が振り向く程大きな声で聞き返してしまったし、混乱した頭では「は?なんで?いつ?どうしたの?」と畳み掛けるように質問するしか出来なかった。
『小さな段差に躓いて、倒れた拍子にお尻の骨を折ったからちょっと前から入院していた。お前に話すと心配かけると思ったから言わなかった』
続けて、前の晩も父と母がお見舞いにいった際に持って行った差し入れを「おいしいね、おいしいね」と嬉しそうに食べていたんだそうで・・・・今朝早く、誰にも看取られる事が無いまま静かに一人で旅立ったのだとの説明された。
翌日、バラエティー番組の収録を終え、一番早い電車に飛び乗り実家へと向かった。
信じられない気持ちのまま・・・。
うちの家庭は、私が生まれた時からずっと共働きだったので、両親が仕事の時間帯は母方の祖母の家に預けられて育った。
父兄参観も、運動会も、家庭訪問も・・・なかなか参加してもらえなかったけれど、子供心になんとなく「わがままいっちゃいけないんだ」って思っていた気がする。
むしろ、教師の父と看護士の母という両親の職業を誇りに思っていたから「忙しくても仕方ないのだ」と思っていたから、寂しかったけれど、別に嫌じゃなかった。
おばあちゃんと一緒の生活は、とても楽しかった。
その大好きだったおばあちゃんがこの世からいなくなった。
というか、入院していた。
その前に、怪我をしていた・・・・。
全部知らないのは私だけ。
家族の中で、いつも、なんでも知らないのは・・・私だけ。
家族と離れて暮らす自分だけがいつだって蚊帳の外で、いきなりここ何ヶ月の急展開した状況を全て飲み込む事等到底不可能だった。
お通夜には既に親戚一同が顔を揃えていた。
母に喪服を渡され、気持ちの整理がつかないまま着替え・・・祖母のもとへ向かうと、親戚のおばさんが『おばあちゃん、あつこがくるの待ってたんだから顔見てあげて』と言い、涙をぬぐっている。
不思議なことに、棺の中の祖母と対面し、お花を置いても実感は沸かなかった。
優しい表情で、まるで眠っているみたいにみえたから・・・。
祖母が眠る部屋の隅には、母が苦しそうに座っていた。
自分の身体の事と祖母の事で心労が重なって、とても疲れているようだった。
そんな母の姿を見ていたら、なんだか傍に居てあげたくなって、その晩は母と寄り添って祖母が眠る部屋で一緒に夜を明かしたんだ・・・。
祖母の四十九日が終わる頃、母の容態は更に悪化していた。
祖母の葬式の時、足を引きずって歩いている母を見ておかしいとは思っていたが・・・・やっぱりそうだった。
癌の再発である。
そして、数日後、兄からの電話で再び母が入院したと言う話を聞いた。
母の再入院から1ヶ月程経ったある日、再び兄から電話があり『あと2、3ヶ月だろうから早く会いにこい』とだけいわれたが、
まだ大丈夫だろう・・・・
また薬と手術で治るんだろう・・・・
そう思い、結局、私が見舞いに行けたのは母の再入院から2ヶ月程してからだった。
見舞いに行き、再会した母を目の前に、病気の進行を肌で感じた。
母の手を取り『お母さん、あつこだよ~』と言ってもニコッと笑うだけ。
『先週くらいまではちゃんと喋れたんだけどね・・・・』と父が呟き、兄が『“早く”会いにこい』と言った意味が分かった・・・・。
今度の癌は乳がんではなかった。
病名、“骨髄癌”。
病名をきいただけで、その恐ろしさの想像はつく。
もう、身体のどこか一部を取り去れば治ると言うレベルではない・・・・骨だ。
なんだか、母は子供に還ったかの様だった。
簡単に言うと、感情をコントロールする事が全く出来ない状態だ。
父が持って来た(カットされた)メロンを”1口のサイズが大きい”といいたいのか、言葉にはなっていない声で怒る。
自分の言いたい事が伝わらないと泣く。
自分の思い通りにいかないと、また泣く。
怒る、泣くの繰り返し・・・・。
全てを受け止め「はいはい」と言い母に付き合う父に最初はとても驚いたが、この”感情の波”は癌の進行を抑える為につかっている薬の副作用の一種なのだと知り、切なさで胸が苦しくなった。
自分がこんな事態に陥ったら、ココまで受け止めてくれる人はいるのだろうか・・・・?
例えそれが夫婦であったとしても、こんなに変わってしまった自分の伴侶の姿を受け止められるのだろうか・・・?
この姿を見て、私は自分の両親達の愛情を感じた。
実に皮肉だ・・・・。
見舞いから1ヶ月が経とうとした頃だ・・・・。
兄からの着信。
『今日明日が峠だそうだから、帰ってこられるなら帰ってこい』
そう言われた瞬間、目の前が真っ暗になった。
覚悟は出来ているつもりだったのに・・・・。
事情を汲んでくださったドラマの関係者の皆さんが、この日から数日間、私の撮影日を変更してくださり、すぐさま実家に帰る電車に乗り込み、母の病院へ向かった。
病室で横になっていた母は、まるで別人だった。
もう喋れないだけじゃなく、感情の表現すら出来なくなっていた。
当然、娘が来たことなど理解出来ているわけがない。
その外見からは、自分の母である事が認識出来ないくらい・・・変わり果てていた。
呼吸が弱くなっているので酸素マスクを外す事は出来ないし、薬の副作用で髪が抜け落ち、歯はボロボロ、体中が浮腫んでパンパンに晴れ上がっていて、代謝が悪くなっているせいか身体の節々には内出血の跡だらけ。
点滴の為に何度も針を抜き差ししている腕は、黒ずみ・・・傷になっていた。
筋肉が弱ってしまっているから目を上手く閉じる事が出来ない為、白目の部分は黄色く濁り飛び出してきてしまっている。
呼吸は荒く、酸素マスクの内側で『ゼィゼィ』と大きな音をたて、タンがからむ度、吸引機でそれを吸い取ってあげる・・・繰り返し。
ここに書いた以外にも、思わず目を背けたくなる様な、あまりにも厳しい現実が私達を待ち受けていた。
・・・私は、癌と言う病気の恐ろしさを知った。
あんなにも元気だった人間をここまで変えてしまう病なのだ。
目を開けていても、当然私の事がわかる訳もなく、もうニコリともしてはくれない。
息をしていても、もう言葉を発することも、私の名前を再び呼んでくれる事も無い。
どうしてもっと早く見舞いに来る事が出来なかったのか・・・・
何故時間を作る努力が出来なかったのか・・・・
本当に、本当に、ほんとうに後悔した。
深夜になっても、私はずっと母の隣にいた。
「あの時こうしていれば」という後悔は、もうしたくなかったから。
『少し眠りなさい』と言われても、母の手を握り、ずっと腕をさすり続けた。
少しでも、その身体の体温を逃がさないよう・・・。
夜が明ける頃には、看護師さんと先生がきて、母につけられていた脈拍計を取り去った・・・。
もう、機械で測れないほど、脈が弱っていたのだそうだ。
そして、その頃・・・・最初は大きな音を立て『ゼィゼィ』していた呼吸が、急激に弱まっていった。
その様子を見ていた親戚達は、ざわざわしだして・・・・
先生が病室に戻ってきて、母の目を開き、・・・・時計を見る動きをし、よくドラマで見たことがある『●時●分』と言った。
先生に、頭を下げる父。
顔を背け、静かに涙を流す人。
声をあげ、号泣しだす人。
母の名前を何度も何度も呼ぶ人。
これも、ドラマのようで・・・・
どうして母なんだ?
どうしてこの病気は私の母を選んだんだ?
悪いことをしている人だっている。
命を粗末にしている人だっている。
なのに、なんでよりによって“看護師”というみんなの命を救う側だった母が40代という若さでこの世を去らねばならないのだ?
もっともっと大切に出来たはずの命なのに・・・・
神様なんて、きっといない。
ちゃんと見ていてくれているなら、こんなことしない。
私には、理解できなかった。
だって、握り続けている母の手は、まだ温かいんだから。
目の前にいる母は、眠っているようなのだ。
「嘘だ。まだ生きてるよ!まだ生きてるって!!まだ、あったかいもん。お母さん、あったかいもん」
そう言いながら母の手をさすり続ける私の肩を、誰かが“ポンポン”と叩いた。
振り返った先にいたのは・・・・涙を拭う兄。
それから・・・・もう1度病室を見渡し・・・・みんなの泣き崩れている姿を見て現実に戻った瞬間、涙が止まらなくなった。
半年前、祖母の時に受け入れることが出来なかった“現実”を受け止めなければいけない時が来た。
お葬式では、葬儀場に入りきらないほどのお花と、地元でこれまでにないくらい沢山の人が駆けつけてくださったという話を聞いた。
葬儀場の方に『沢山の方から慕われていらっしゃったんですね』といわれ、私が見ることの無かった母の一面に気付く。
通夜、葬儀と誰かに声をかけられる度『母さんにはお世話になったんですよ』『お母さんには良くしてもらったんですよ』という話を伺い、そこでまた改めて自分の母の偉大さを知った。
そして、この時「私も母のような女性になりたい」と強く思った。
これが、私が22歳の時の話。
私は作家じゃないし、自分の感情を書いただけなので「~だった」とか「~た」って語尾ばかりだけど、これが思い出して書いた“リアル”。
前の文章の方がうまく纏めてあった気がするから・・・削除してしまったものをこうやって改めてまた書くって難しいな・・・と痛感しました。
(本当はピンクリボンのキャンペーンが始まってすぐにこの記事をUPしたかったんだけど・・・なんだか色々考え出しちゃうと文が書けなくなってしまって、結局こんなに遅くなってしまいました。トホホ)
でも、書いてみて、また感じたのは「命は大事にしなきゃ」ということ。
母のように、生きたい気持ちがあっても、自分の意に反して命を失う人間もいる。
だから、命を粗末にしちゃいけないんだ。
一体何を見てきたんだろう・・・。
私自身も反省しなきゃいけない事があった。
母に怒られますね・・・・「何考えてるの?」って。
その前に、生きていたら色々相談していたかもしれないな。
あぁ・・・お父さん、お母さんがいるってやっぱり羨ましい。
って、話がそれてしまいましたが。
もっともっと自分を大切にすると言う意味でも、やっぱり身体の検診は大事だなぁ・・・と思います。
早期発見、早期治療。
早く見つけられれば、助かる命はあるはずだから。
大切な誰かを悲しませない為にも、自分自身を大切にすると言うためにも・・・・考えるきっかけになればと思います。
長い文章、読んでいただき有難うございました。
ピンクリボンの輪が、もっと広がりますように・・・・