人間は人生を飾ることに気を使い過ぎ。
そしてそれに悩み、苦労をする。
動物は異性に求愛するために「派手」な踊りや
派手な格好をしている(生まれつきではあるが^^)
それ以外に「自己満足」的な行動はしないと思う。
人は生きるために左程重要ではないことに悩んでいる。
犬猫との違いを鮮明にするために無理やり?哲学などと
いう学問を生んだ。
哲学者は生きる目的、生きる作法などをまことしやかに
俗物的に説いてまわった。
飾ることを正当化するために素養という服を着なければ
ならなくなった。
簡単なものを複雑にするのが「教養」かのように。
犬は秋田犬も柴犬もお尻をかぎ合い仲良く遊ぶ。
犬種の差別はお互いしない。
もちろんどちらが強いかはすぐ両方が理解する。
といって強い方が何かを強制するわけでもなくかえって
強い方が何かにつけて我慢をしているように見える。
本来人間にも白も黒も黄色もないはずだ。
ないはずだが、白人がこの差別を始めた。
理由は「強いから」だった。
肌の色は背が高い低いの身体的特徴となんら変わらない。
ただそれだけのことだ。
ところが着飾っている「素養」が違うというだけで
依然として差別が残っている。
裸になって食って寝て交わるだけの生活だとおそらく
争いはないだろう。
食を奪いあい、女を奪い合う争いはあるだろうがそれは
単なる「欲望」の為の争い。
生きる基本ではない。
北の民族と南の民族は衣装が違う。
それが文化の違いである。
南の人が北に来たら「そんな格好では寒くて大変ですよ」と
教えてやれば済むことでそれを素直に聞くことも大事だ。
「俺はこうだ」と素直さを忘れ、「そんなことも知らないのか」と
蔑み教えない。
これでは仲良くはなれない。
喧嘩両成敗というが諍いはまったくどっちもどっちである。
美男美女でも一皮むけば「骨」である。
実際は一皮むいた姿など恐ろしく醜態で怖いものがあるがw
人はそんな皮一枚、目の形、口の形、耳の形など造作にも拘る。
単に種を残すだけではなく「優秀な種」を残すことも仕事である。
が、この造形には十人十色好き好みがある。
蓼食う虫も好き好きという。
整形等をして異性を見つけようとする努力は買うが、
もっと広い世界に自分をおいていけば素の自分に合う人が
必ず見つかるはずで狭い世界で悩むからいらぬ苦労をする。
親元から巣立つのが本来の動物である。
そして自分のテリトリーを形成する。
「自分の居場所がない」と悩む人がいる。
居場所は与えられるものではなく自分で作るものだ。
家の中になければ出ればよい。
日本になければ国を替えればよい。
「こうでなければだめだ。」ということはそれほどはないのだ。
自分で自分を縛ってしまうようでは苦しいだろう。
海外に出る勇気もないならそもそも悩んでいることの原因が自分の
「臆病」に起因しているんだと認めること。
その臆病さを隠すためにいろいろ言い訳をつくってそのあさましさ
に自分が参っていくのである。
世界中に種を残していくということでは中国人には敵わない。
基本の本能に忠実に生きているのが中国人かもしれない。
日本が少子化だと言われているが何故そうなったのか?
何故婚期が遅くなり、子を生む環境が劣化しているのか?
メディアでも盛んに討論されているが男女の基本の話が
できていないんで上っ面の討論で終わってしまう。
公共ではなかなか言えない部分が多いからだ。
日本でいえば、一番の原因は日本人の幼児化であると思う。
種の保存ができる年齢が低下しているのである。
肉体年齢というより精神年齢である。
性行為をすれば子供を作れる年齢になっても精神の成長が
追いついていない。
ややもすれば幼児化のまま「親」になってしまい様々な
不幸を招いているのが現実ではなかろうか。
「子供」を作るんだと強く思えない。
「子供」を育てるんだと言う覚悟が希薄。
まずはここから教えなければ生きてはいけない。
生きることへの執着をどうやって持たせてやるか。
それには、人生の飾りの部分を動機にしてはならない。
お金を稼いで幸福な人生を送ろうなどというバカげた動機付け
をしないことだ。
そんな動機付けはもろくも崩れる。
動物の基本からちゃんと教えなければ「生きる」ということが
分からないであろう。
一夏しかお目にかかれないセミは何故生まれてくるのか。
まずはそこからだ。
基本の話は論破されることがない。
人間は犬猫とは違うから他の理由があるはずだ。
と言う人にも他の理由など言えない。
屁理屈をいう人、飾った物言いをする人は真面目に生きようとする
人を腐らすだけだからこういう人とは付き合わないことだ。
サバンナで生きている動物と人間と生きている基本理由は同じである。
人間だからと言って特別な理由などない。
あるといっているのはどこかの宗教だけだ。
宗教? それも生きる上での「飾り」であるだけでなくても困ることは
ない。
夏休み、カブトムシを飼ったり、花を観察したりしてその日誌を
つくることは実は大切な教育なのだが今、少しそれが軽く思われて
いないだろうか?
昆虫採集の道具をおもちゃ屋で買って来てセミやトンボに防腐剤を
注射し標本をつくったものだが今はない。
もちろん注射器は危険で、防腐剤や殺虫剤も危険である。
が、当時どれだけの事故があったのだろうか?
たしかに今の子なら弟や妹に注射してしまうかもしれない。
危険ではなかったものが危険になってきたのは何故か?
生きることへの執着心と根は同じところにあるように思う。
そしてそれに悩み、苦労をする。
動物は異性に求愛するために「派手」な踊りや
派手な格好をしている(生まれつきではあるが^^)
それ以外に「自己満足」的な行動はしないと思う。
人は生きるために左程重要ではないことに悩んでいる。
犬猫との違いを鮮明にするために無理やり?哲学などと
いう学問を生んだ。
哲学者は生きる目的、生きる作法などをまことしやかに
俗物的に説いてまわった。
飾ることを正当化するために素養という服を着なければ
ならなくなった。
簡単なものを複雑にするのが「教養」かのように。
犬は秋田犬も柴犬もお尻をかぎ合い仲良く遊ぶ。
犬種の差別はお互いしない。
もちろんどちらが強いかはすぐ両方が理解する。
といって強い方が何かを強制するわけでもなくかえって
強い方が何かにつけて我慢をしているように見える。
本来人間にも白も黒も黄色もないはずだ。
ないはずだが、白人がこの差別を始めた。
理由は「強いから」だった。
肌の色は背が高い低いの身体的特徴となんら変わらない。
ただそれだけのことだ。
ところが着飾っている「素養」が違うというだけで
依然として差別が残っている。
裸になって食って寝て交わるだけの生活だとおそらく
争いはないだろう。
食を奪いあい、女を奪い合う争いはあるだろうがそれは
単なる「欲望」の為の争い。
生きる基本ではない。
北の民族と南の民族は衣装が違う。
それが文化の違いである。
南の人が北に来たら「そんな格好では寒くて大変ですよ」と
教えてやれば済むことでそれを素直に聞くことも大事だ。
「俺はこうだ」と素直さを忘れ、「そんなことも知らないのか」と
蔑み教えない。
これでは仲良くはなれない。
喧嘩両成敗というが諍いはまったくどっちもどっちである。
美男美女でも一皮むけば「骨」である。
実際は一皮むいた姿など恐ろしく醜態で怖いものがあるがw
人はそんな皮一枚、目の形、口の形、耳の形など造作にも拘る。
単に種を残すだけではなく「優秀な種」を残すことも仕事である。
が、この造形には十人十色好き好みがある。
蓼食う虫も好き好きという。
整形等をして異性を見つけようとする努力は買うが、
もっと広い世界に自分をおいていけば素の自分に合う人が
必ず見つかるはずで狭い世界で悩むからいらぬ苦労をする。
親元から巣立つのが本来の動物である。
そして自分のテリトリーを形成する。
「自分の居場所がない」と悩む人がいる。
居場所は与えられるものではなく自分で作るものだ。
家の中になければ出ればよい。
日本になければ国を替えればよい。
「こうでなければだめだ。」ということはそれほどはないのだ。
自分で自分を縛ってしまうようでは苦しいだろう。
海外に出る勇気もないならそもそも悩んでいることの原因が自分の
「臆病」に起因しているんだと認めること。
その臆病さを隠すためにいろいろ言い訳をつくってそのあさましさ
に自分が参っていくのである。
世界中に種を残していくということでは中国人には敵わない。
基本の本能に忠実に生きているのが中国人かもしれない。
日本が少子化だと言われているが何故そうなったのか?
何故婚期が遅くなり、子を生む環境が劣化しているのか?
メディアでも盛んに討論されているが男女の基本の話が
できていないんで上っ面の討論で終わってしまう。
公共ではなかなか言えない部分が多いからだ。
日本でいえば、一番の原因は日本人の幼児化であると思う。
種の保存ができる年齢が低下しているのである。
肉体年齢というより精神年齢である。
性行為をすれば子供を作れる年齢になっても精神の成長が
追いついていない。
ややもすれば幼児化のまま「親」になってしまい様々な
不幸を招いているのが現実ではなかろうか。
「子供」を作るんだと強く思えない。
「子供」を育てるんだと言う覚悟が希薄。
まずはここから教えなければ生きてはいけない。
生きることへの執着をどうやって持たせてやるか。
それには、人生の飾りの部分を動機にしてはならない。
お金を稼いで幸福な人生を送ろうなどというバカげた動機付け
をしないことだ。
そんな動機付けはもろくも崩れる。
動物の基本からちゃんと教えなければ「生きる」ということが
分からないであろう。
一夏しかお目にかかれないセミは何故生まれてくるのか。
まずはそこからだ。
基本の話は論破されることがない。
人間は犬猫とは違うから他の理由があるはずだ。
と言う人にも他の理由など言えない。
屁理屈をいう人、飾った物言いをする人は真面目に生きようとする
人を腐らすだけだからこういう人とは付き合わないことだ。
サバンナで生きている動物と人間と生きている基本理由は同じである。
人間だからと言って特別な理由などない。
あるといっているのはどこかの宗教だけだ。
宗教? それも生きる上での「飾り」であるだけでなくても困ることは
ない。
夏休み、カブトムシを飼ったり、花を観察したりしてその日誌を
つくることは実は大切な教育なのだが今、少しそれが軽く思われて
いないだろうか?
昆虫採集の道具をおもちゃ屋で買って来てセミやトンボに防腐剤を
注射し標本をつくったものだが今はない。
もちろん注射器は危険で、防腐剤や殺虫剤も危険である。
が、当時どれだけの事故があったのだろうか?
たしかに今の子なら弟や妹に注射してしまうかもしれない。
危険ではなかったものが危険になってきたのは何故か?
生きることへの執着心と根は同じところにあるように思う。