【旅行】新潟 2024年08月04日~05日 その2 | としぬぅぅぅぅぅんのBlog

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【旅行】新潟 2024年08月04日~05日 その1

 

【2日目】

 

始発列車に乗って移動する為、早朝の新潟駅へ。

新潟ももれなく朝から蒸していて暑かったが酷かった頭痛は寝たことでほぼ治まってくれた。

 

 

本来ならこの日は北上して秋田県の象潟へ行って元滝伏流水、奈曾の白滝を見た後に温泉へ。

その後は秋田空港から飛行機で羽田空港へ戻ってくる予定だったが白紙に戻したことでノープラン。

 

上越線に乗って東京方面へ戻りながらどこかへ立ち寄ろうという考えのもとに、群馬県の水上にあるモグラ駅で有名な土合駅を見て谷川岳の一ノ倉沢を見て帰るというプランに落ち着きました。

 

5時14分の長岡行きの列車に乗車し長岡へ。

駅の時刻表には5時2分村上行の快速の表示がありました。

ムーンライトえちごに乗ったときはこの列車を利用して日本海側を北上したものだ。

懐かしいニコニコ

ムーンライトえちごに限らずムーンライト系の快速、復活してくれないかなぁ…

 

長岡へ向かっている途中、路面が濡れているのを見て谷川岳で雨に降られたら嫌だなという思いもありプランを急遽変更。

長岡駅周辺にある長岡藩の藩主、藩士のお墓を見て帰ることにしました。

 

長岡駅で下車し、先ずは長岡藩主歴代の墓と長岡藩士の墓がある榮凉寺へ。

 

 

長岡藩主牧野家の菩提寺なので歴代藩主のお墓があります。

 

 

 

長岡藩の藩旗って五間梯子なんだけどこの梯子を旗にした由来からしても牧野家は名君だと思わせる。

 

時は戦国時代、敵に追われていた牧野の殿様は、領民の家の納屋に匿ってもらいました。
そして領民は機転を利かせ、まるで何事も無かったかのように梯子を納屋の扉に立てかけておきました。
敵の追手はこれを見て誰もいないのだろうと見事騙され、殿様は無事逃れきったのです。
領民は殿様を差し出せば褒美がもらえた筈なのに、そうはしませんでした。
殿様はこのことを忘れず、今まで以上に領民を大切にしようと決意し、この五間梯子を藩旗にしました。

※由来に関しては<“慈眼寺のホームページ”元管理人のひとりごと”>より抜粋。

 

こういった由来で藩旗が出来たのであれば旗を見ることで藩政にブレが少なくなると思うんだよね。

大前提が<領民を大切にしよう>だからそこから外れることは良くないと分かるだろうし。

 

※画像は河井継之助記念館より

 

次に向かったのは長岡藩士・河井継之助の墓。

 

 

河井継之助に関しては司馬遼太郎が書いた「峠」という本が有名。

幕末~明治維新の頃の長岡藩は幕府につくのか、新政府につくのかではなく独自路線を行ったのが面白い。

その独自路線を推し進めたのが河井継之助。

歴史の教科書では長岡藩は奥羽越列藩同盟に入って政府軍に敗れたくらいにしか書かれていないかもしれないが、そこへ行くまでの過程を知ると長岡藩は凄かったなと思う。

 

10年以上前だと思うけど東進ハイスクールの林先生が深夜番組で歴史上の偉人を紹介しているTV番組があった。

その最終回に取り上げたのが「河井継之助」だった。

確か林先生は一番好きな偉人と話していたと思う。

 

河井継之助は当時の武士としては経済や軍備に明るかった上に交渉力、行動力にも長けていた。

彼が北越戦争で戦死していなかったら、それ以前に北越戦争突入直前に小千谷で行われた長岡藩と新政府軍の交渉に山県有朋がいたら今自分たちが知っている戊辰戦争が大きく変わる可能性があったのではないかと想像します。

先見の明がある人物だったのに最後まで藩という小さな縛りの中に居たというのも面白い。

 

榮凉寺の後は河井継之助記念館へ。

榮凉寺の近くにある長興寺に山本五十六の墓があったけど行くのを忘れてましたアセアセ

 

河井継之助記念館は9時から開館なので当然開館していなかった。

 

 

この記念館は河井継之助の生家があった場所に建てられている。

 

 

この記念館へは10年近く前に行ったことがある。

河井継之助に関心があるならここだけではなく、河井継之助が亡くなった只見の会津塩沢にある記念館へも絶対に行った方が良いと思う。

 

その後は興国寺へ。

 

 

河井継之助は新政府軍との戦争へと仕方なく舵を切ったがその戦争に反対していたのが小林虎三郎。

米百俵の精神で有名な人物だよね。

 

<以下、Wikipediaより抜粋>

戊辰戦争の戦災によって壊滅的な打撃を受けた長岡で、四郎丸村(現在の長岡市四郎丸)にある昌福寺の本堂を借り、仮校舎として国漢学校を開校させた。
その後、長岡藩の支藩であった三根山藩(現在の新潟市西蒲区峰岡)が長岡藩の窮状を察して米百俵を寄贈したが、分配されることを望む藩士らに向けて虎三郎は、「国が興るのも、街が栄えるのも、ことごとく人にある。食えないからこそ、学校を建て、人物を養成するのだ」と教育第一主義を唱え、その米百俵の売却益を元手に、学校に必要な書籍、器具の購入にあて、明治3年6月15日(1870年7月13日)に国漢学校の新校舎が坂之上町(現大手通2丁目)に開校した(現在の市立阪之上小学校のルーツでもある)。

 

百俵なんて食べたら無くなって終わりだけどそれをせずに長岡の未来を見据えた行動をとった。

自分たちが食べものすら窮している状態なのに未来の人たちに長岡を託した。

本当に凄いと思う。

 

 

立場は違えど河井継之助も小林虎三郎も長岡藩の未来を考えて行動していた。

 

その後は千手観音千蔵院でこの日のお参り拍手

榮凉寺→興国寺と回ったのにそこでお参りしなかったの?という突っ込みは無しで笑

 

 

このブログを書くまで知らなかったけど、このお寺は長岡藩主牧野家の祈願寺とのこと。

ここでお参りしてよかったニコニコ

 

 

この後は長岡駅へ戻り、列車を乗り継いで帰りました。

途中、新前橋にあるHUMPTY DUMPTYで高崎のパスタ店で有名なシャンゴのパスタソースを買う為に途中下車はしたけどね。

まだ食べてないけど、食べるのが楽しみだよ。

本当ならシャンゴまで食べに行きたかったけどクソ暑かったし早く帰りたくなっていたので行くのを止めました。

 

車窓の風景。

列車の窓がUV加工だからか青みがかっているね。

 

 

あまり気が乗らない旅行ではあったけど、遠出するってやっぱり良いなと思った2日間でした。

 

おしまいニコニコ