日帰りで大井川を見てきました。
大井川って西国の外様大名から江戸を守る防衛線として橋が架けられなかった程度にしか聞いたことがなくて関心は全くなかった。
でもブラタモリで大井川が取り上げられると俄然興味が湧いてきて行ってみたいなと思っていました。
まぁ、今回の様な関心を持つ前に大井川鉄道に乗って寸又峡や奥大井湖上駅へ行ったときに大井川を見ているのだが。
下の写真がその時に行った奥大井湖上駅を撮ったもの。
早朝の列車に乗って何度か乗り換えをして静岡県の島田を目指す。
沼津を過ぎると富士山が頻繁に視界へ入るようになってくる。
今夏、この山へまた登る予定です。
写真を拡大すると自分が富士登山の時に通っている富士宮ルートがわかるね。
富士登山するなら上りは富士宮ルート以外は考えられん。
島田には8時半頃に到着。
この日は風があって物凄く寒かった。
確かにこの辺りはお茶だよね。
駅前にある駐輪場でレンタサイクル(1日利用料500円)を行っているのでそこで自転車を借り、散策開始。
島田駅近くに大井川に掛かる蓬莱橋があるのでそこへ向かう。
大井川は江戸時代には橋が架けられなかったが明治12年に蓬莱橋が架けられる。
長さは897.4mで「世界一の長さを誇る木造歩道橋」としてギネスブックに載っているとのこと。
橋の袂に勝海舟の像がありました。
何故勝海舟かというと、明治になって旧幕臣が牧ノ原台地を開墾した際に物心で支えたことから。
この像に刻まれている碑文に1860年に咸臨丸で渡米した際にお茶に世界的な商品価値があると感じたと刻まれていた。
今でいうと、この国の未来の為に投資をしたと言った感じか。
この投資が現在の<地球上でもっとも緑茶を愛する街、島田>に繋がってくるんだろうね。
蓬莱橋は渡るのに渡賃が100円掛かる。
片道100円ずつ?と思ったけど往復100円だった。
風が強いので油断するとカエルの編みぐるみ達が吹っ飛ばされそうで写真を撮るときはそこそこ緊張感があった笑
大井川の水量っていつ見ても少ないなと思う。
上流にあるダムで調整しているのか?
リニア建設問題で静岡県知事が大井川水源付近のトンネル工事着工に反対している理由も頷ける。
トンネル工事で更に水が減ったらという懸念は確かにあるが…
まぁ、この件に関しては何も調べていないので何も言えない。
対岸から大井川を望む。
眼前に富士山が見えている。
西国からこの辺りまで来た人たちは富士山の美しさに目を奪われたことだろうね。
往路は歩いたけど復路は自転車に乗って渡ってみた。
人が多いときだったら自転車なんてとても漕げないけどね。
蓬莱橋を後にして次に向かったのは川越遺跡という場所。
蓬莱橋は明治になって架けられた橋であって、それ以前に大井川を渡っていた場所はこの橋より少し上流になる。
川越遺跡へ向かう途中、JRの鉄橋を潜って行きます。
遠くの山に「茶」の文字が。
強い向かい風に苦しみながら自転車を漕いで川越遺跡へ。
「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」
<この唄は、江戸時代に旅人や荷物を運んだ「馬子(まご)」という職業の方々が口ずさんだ有名な唄です。
東海道の難所 箱根と並ぶほど、「暴れ川」大井川が危険な難所であったことを現代に伝えてくれています。>とのこと。(島田市博物館より)
川越遺跡はちょっとした宿場町感が出てるね。
川越遺跡とは橋が架かっていなかった大井川を渡る為には川越人足の助けが必要だった。
その川越人足に関する施設がある場所といった感じか。
詳しくは下のリンク先で。
以下、ブログに書いている説明文は各リンク先から拝借しています。
下の写真は川会所(かわかいしょ)
その日の川の深さなどを測り、川越しの料金を決定し、川札(かわふだ=切符)の販売や川留め、川開けなどの川越し業務に関わる運営をした川役人が勤めていた場所とのこと。
ここは色々と展示物があって良かった。
少し前に貼った渡河の像の写真の水位は乳通くらいかな。
川を越える手段には神輿のようなものから肩車まで様々。
太陽光が射し込んでいて見づらいけど渡河手段各種。
そこそこの値段がするなという印象。
川の水位によって付き添いの人数が増えていくので値段に幅がある。
一般的には肩車で越えていたみたい。
肩車の場合、水位76㎝を越えると介助が1人つくとのこと。
大名が利用する大高欄連台だと担ぎ手16人に介助4人とのこと。
詳しくは下記リンクにあるので読んでみると面白い。
島田市観光協会 大井川川越遺跡(おおいがわ かわごしいせき)
尚、徳川初代~15代将軍の中で大井川を渡河したことがあるのは14代将軍・徳川家茂のみで家茂は2度大井川を渡河したとのこと。
1度目は1863年に上洛した際、2度目は1865年の第二次長州征伐の際。
流石に上の絵は盛ってるでしょ⁉とは思うけど、川越人足の数が尋常じゃないことは確か。
頼朝公となっているのは当時は浮世絵に将軍の名を入れることが出来なかった為。
だけど何で源頼朝にしたのかというのは、征夷大将軍には清和源氏の血を引いている者がなっているからなのかな⁉
知らんけど。
徳川家康が本当に清和源氏の流れをくむのかは…
下の写真は札場(ふだば)
一日の川越しが終了すると、それぞれの番宿の、陸取り(おかどり)がその日の仕事を終えた人足の川札を回収し、札場で年行事(ねんぎょうじ)の立会いの下、現金に替えて人足たちに賃金として分配していましたとのこと。
大井川を越える手順はざっくりこんな感じ。
利用者が川会所で川札を購入。
購入する川札の枚数は水位や渡河手段によって変わってくる。
大井川の越場へ向かい川越人足の助けで渡河する。
川越人足は稼いだ川札を札場で換金といった流れ。
尚、川越人足は大井川を渡った後、帰路は人を運ばずに戻ってくるらしい。
対岸の金谷にも川越人足はいるからね。
お互いの縄張りを守っていたらしい。
下の写真は番宿(ばんやど)
川越人足(かわごしにんそく)が詰めた建物。組織の管理上、川越人足は一から十までの組に分けられ、各番宿にて待機していたとのこと。
これは暖簾に十ってあるので十番宿だね。
川越人足の人数は幕末には大井川を挟んだ金谷宿と島田宿で各々650人超いたらしい。
下の写真は川原慶賀によって描かれた川越人足のイラスト。
自分は不勉強なので<この時代の入れ墨=罪人>ってイメージを持っていたので何で川越人足には墨が入っているんだろうって思っていた。
川越人足は12歳で見習いから始まって雑用、15歳頃から川に入っての訓練を経て一人前になるから罪人が川越人足をやっている訳ではないんだよなぁって思っていて。
下のリンク先を読んで、なるほどと思った。
リンク先から少し抜粋してみる。
<建築や祭りの準備などの仕事に従事し、町内の警備役や消防も担った鳶(とび)や、飛脚(ひきゃく)などにもイレズミは好まれた。
これらの人々は、身動きの取りにくい着物姿よりも、ふんどし一丁で仕事をすることが多かったが、地肌をさらすことは恥ずかしいとも考えたため、イレズミを身にまとったのだ。
やがて社会では「鳶にイレズミはつきもの」とのイメージが強まり、イレズミが入っていない若い鳶には、町内の旦那衆が金を出し合って彫らせることもあった。火事場で火消しとして戦う鳶は、江戸の「粋」の象徴であり、鳶のイレズミは彼らが住む町内の誇り、「華」でもあったからだ。>
鳶や飛脚と同じく川越人足も褌で仕事してるから同じ感じなのかなと思った。
それにしても幽霊や南無阿弥陀仏やら川越人足が入れている墨がなかなかで。
これは想像でしかないけど渡河は大変な危険が伴うからそういった内容の入れ墨になったのかなぁと。
渡河は川越人足自身も危ないけど、乗せているお客さんが人足の過失で川に飲まれたら死罪だったらしいからね。
ホントに命がけだった。
この絵を描いた川原慶賀はシーボルトが江戸へ行く際に同行していてその際にたくさんの絵を残している。
この人の画集があって見たんだけど、江戸時代の生活イメージがよく伝わってくる絵でした。
シーボルトが記した「江戸参府紀行」にも<川人足自身は特に鍛錬されていなければダメ、どんな季節でも陰部をちょっと覆っただけで裸、楽にこの急流を渡してくれた>と大井川に関して書かれている。
また、ケンペルの「江戸参府旅行日記」やC.P. ツュンベリーの「江戸参府随行記」でも触れられている。
川越遺跡を後にして次に向かったのは大井神社。
名前からして大井川の氾濫繋がりで建立されたんだろうなと思ったけどやはりそんな感じだった。
この日のお参りはここで
この後は用事があったので横浜近くの桜木町へ。
用事といっても馬券の払い戻しんだけどね笑
昨年ジャパンカップを見に行った時に買った馬券の払い戻し期限が近かったので場外馬券売り場へ寄ってきました。
序にみなとみらいも少しだけ。
もう人が多いところには居たくないので直ぐに退散。
川越人足に話を戻すけど、江戸時代に橋がけられなかった河川は大井川だけではなく、同じ静岡の安倍川・興津川や神奈川県小田原の酒匂川も徒渉し(かちわたし)だった。
調べだすと面白いんだけど、調べるのが面倒なんだよね笑
今回のブログもネット検索しながら書いていたんだけど、文章の少なさに反してブログを書く時間が結構掛かったし。
こんな感じの日帰り旅行でした。