こんにちは。
いつも訪問、ありがとうございますニコニコ
 

 

 
いつかこの記事をきちんと文章化したいと思って早4〜5ヶ月。
 
 
やっとシェアできそうです照れ
 
 
このブログでは、
「わたし」という表現について、
アイデンティティを持った「わたし」、
肉体の「わたし」、
名前、肩書き、役割(父、母、夫、妻など)などの「わたし」、
つねに何かになろうとしている存在のことを
「わたし」と書いていきますので、
その認識で読んでいただけると嬉しいです。
 
 
今日は最近、「わたしがやっている」という感覚があまりないというお話です。
 
 
昨年の夏頃からほぼ毎月、
宝塚へ日帰りで観劇ドライブ旅をしています。
 
 
片道200キロ弱の道のり。
 
 
行きはその日の観劇に対する期待や喜びで満ち溢れているので、
ちょっとしたトラブルもそんなに気にならないのですが、
帰りは余韻に浸っていても、
夕方のラッシュ時間の交通量の多さや、
帰宅時間が気になり、
何かと心が忙しくなってしまい、
身体も緊張状態が続いてしまいます。
 
 
帰りは多めに休憩を取るのですが、
休憩とっている間に事故の区間が通行止めになってしまうなど、
おちおち休憩もしていられない時がありました。
 
 
ざわつく帰りの道のりをなんとか快適に運転することはできないだろうか??
私自身、自問自答する日々があり、
その答えがピン!!とひらめいたのですおねがい
 
 
それは・・・、
 
 
運転する人も、ザワザワする人もいない、ということ。
 
 
??????????
 
 
ノンデュアリティの観点からすると、
考える”わたし”、行動する”わたし”は、
すべて幻想である、という考え。
 
 
肉体をまとっている”わたし”は、
”わたし”という存在をこの世で確かなものにしたいために、
存在を主張するのです。
 
 
いいかえると、
「エゴ」は、幻想の”わたし”を創り出している、ということ。
 
 
「エゴ」そのものが幻想なので、
運転する”わたし”も、心がザワザワする”わたし”も、
幻想、ということになります。
 
 
そんな”わたし”はいない、ということ。
 
 
これは、わたしがやっている、
という感覚がなくなるときに、
ピン!!と気づきが起こります。
 
 
すべての人間的行動、考えは、
「エゴ」の幻想が、
”わたし”がやっている、という感覚を創り出しているんだ
ということです。
 
 
この、「わたし」という感覚は、
とても強烈ですよね。
 
 
「ドラマ」(わたしがこのブログで言っている人生劇場)も、
「エゴ」が創り出しているのです。
 
 
宝塚観劇をする”わたし”も、幻想です。
 
 
じゃ、何がほんものなの??
 
 
身体、思考、感情のもっと奥深いところにある、
微細なエネルギーが「ほんもの」です。
 
 
これは、言葉で言い表すにはちょっとむずかしい。
 
 
上の記事に書いている内容が一番わかりやすいかなと思います。
 
 
観照者。
 
 
ただ見ているだけの存在。
 
 
もっともっと深いことを言えば、
観照者さえも、いないのが真実。
 
 
観照者がいる、と言ってしまうと、
観照される存在がいることになってしまうからです。
 
 
対象がない、というのが本来の在り方。
 
 
意識の話は本当に深くて、
言葉、というツールを使って表現するには限界があります。
 
 
それは、言葉も「かたち」をまとった表現であるからです。
 
 
「かたち」にしばられないのが本来のわたしの姿です。
 
 
だからこの「わたしがやっている」という感覚も、
「エゴ」が自身の存在を確かめるために
意識の中で作られているのであって、
本来誰もやっていない、のです。
 
 
ただのあらわれ。
 
 
そして、消えていくもの。
 
 
だから、「ドラマ」が鮮烈でドラマティックであればあるほど、
「わたし感」が強い、ということになります。
 
 
「自我」が強い、ということ。
 
 
人生の操縦席に常に「エゴ」が乗っている状態。
 
 
他人を見て、
ドラマ(人生で体験すること)好きだなーと思う人、いると思います。
 
 
何かと、できごとをオーバーに捉える人。
 
 
ちょっとしたことも大事件のように捉える人。
 
 
もしかしたら「自我」が強い人かもしれません。
 
 
「自我」が強いことが、ダメなわけではありませんが、
苦痛をともなうので、苦労が絶えない人生を送っていることが多いのではないでしょうか。
 
 
それもこれも、
「自分でこしらえている」ので、
自作自演のドラマの製作者。
 
 
名演技の持ち主、ということになります。
 
 
苦痛をともなう人生を卒業したいなら、
この「名演技の持ち主」を卒業しなければいけません。
 
 
自作自演のドラマの製作者も卒業しなければいけません。
 
 
こういう感覚を手放していくと、
苦痛とは無縁の人生を築くことができます。
 
 
もう、心をざわつかせることがなくなるし、
身体を緊張させる場面を極端に減らすことができ、
いつもエネルギーで満たすことができるのです。
 
 
そのひらめきがきてから、
私の宝塚日帰りドライブがとても快適になりました。
 
 
「わたしが長距離を運転している」
「わたしが時間を気にしている」
「わたしが交通量の多さにザワザワしている」
 
 
これらの「わたし」が自分自身でないとわかった時、
この苦痛から解放されます。
 
 
料理するわたし、も
食べるわたし、も、
勉強するわたし、も、
寝るわたし、も、
自分自身ではありませんよ。
 
 
肉体をまとったわたし、という存在は、
生きる上で行動をしなければいけません。
 
 
行動は大切な、この世のツールです。
 
 
行動ありき、です。
 
 
でも、気持ちまで持っていかれないように。
 
 
ただ、食べる、
ただ、作る、
ただ、寝る、
ただ、勉強する。
 
 
現実を豊かにするために、
肉体が行う行動は、
本来「幸せ」を伴っているのが基本なんです。
 
 
食べるのも、生きるため。
作るのも、生きるため。
寝るのも、生きるため。
勉強するのは、脳のアップデートとこの世の使命のため。
生きるために勉強することもあるのです。
(お金稼いだり、自分の好きなものを買うためにね)
 
 
どれも、幸せを伴っているんです。
基本事項。
 
 
苦痛、と思うのは、
「エゴ」が創り出す幻想、であるということ。
 
 
「エゴ」が介入しなければ、
それは幸せ以外にはありえない、ということです。
 
 
「わたし」という存在は決して、
嫌うべき対象ではありません。
 
 
「わたし」という存在がいてはじめて、
この世に存在できるのだから。
 
 
うまく協力していきましょう。
 
 
実践(行動)あるのみ、です!!
 
 
今日も”愛”あふれる一日をお過ごしくださいませハートルンルンキラキラ