こんにちは。
いつも訪問、ありがとうございます
虹。きれーだね
ちょうど一年前の今ごろ・・・、
わたしの中で急にやってきたひらめき
「ご自愛」
これは、自分の現実を変える
最速の方法だと私は思っています
今日も、「神との対話」で
お勉強していきましょ
他者の価値を見抜くには、
まず自分に価値を見出さなければならない。
他者を祝福すべきものとしてみるためには、
まず自分を祝福すべき者としてみなければならない。
他者の神聖さを認めるには、
まず自分自身が聖なる存在であることを知らなければならない。
自分を認める前に他者を神聖な存在として認めるなら、
やがてはそれを恨むようになるだろう。
人間にとって耐えられないことがひとつあるとすれば
それは自分より他者の方が神聖だということだから。
わたしが送った牧師たちはすべて、
同じメッセージをたずさえていた。
「わたしはあなたよりも神聖である」
ではなく、
「あなたはわたしと同じく神聖である」
というメッセージだ。
このメッセージをあなたがたは聞くことができなかった。
この真実をあなたがたは受け入れられなかった。
だから、あなたがたは決して心から、
純粋に誰かを恋することができない。
心から、純粋に自分を恋していないからだ。
これからは自分を中心にしなさい。
いつでも相手ではなく、
自分が何者であるか、
何をし、何を持っているかを考えなさい。
あなたがたの救済は相手の行動のなかにではなく、
あなたがたの反応のなかにある。
Q: では、相手は何をしてもいいというのか?
私は相手の言動に傷つくことがあるのですが?
いつかは傷つかなくなる日がくるだろう。
その日、あなたは人間関係の真の意味、
人間関係を結ぶ真の理由に気づき、
真の人間関係を実現するだろう。
それを忘れているから、いまのような反応をするのだ。
だが、それはそれでよろしい。
それも成長の過程であり、
発達進化の一部だから。
人間関係というのは魂の仕事、
偉大な理解、偉大な記憶だ。
そのことを思い出さない限りーーーーー
あなたはいまのレベルで努力しなければならない。
今の理解のレベル、意思のレベル、
記憶のレベルで。
そこで、あなたが相手の在り方、
言うこと、行動に傷つき、
苦痛を感じた時には、
どう反応すればいいか。
まず、どう感じているかを
自分にも相手にも正直に認めなさい。
あなたがたは多くは正直に認めるのを怖がる。
そうすると自分が、「悪く見える」のではないかと思うからだ。
心の底のどこかで、「そんな感じ方をする」のは
ばかげていると気付いている。
そんな自分がちっぽけなのかもしれないと。
「自分はもっと大きな人間」のはずだと。
だが、感じるのはどうすることもできない。
苦痛を感じないわけにはいかない。
できることはひとつしかない。
自分の感情を大事にすることだ。
自分の感情を尊重するとは、
自分自身を尊重することだ。
あなたがたは自分を愛するように
隣人を愛さなければならない。
だが、自分の感情を尊重できないで、
どうして相手の感情を理解したり、
尊重したりできるだろうか?
最初の感情が否定的な感情でも、
何度でも必要なだけその感情を味わえば、
いつかはそこから踏み出せる。
怒りや逆上や憤怒を味わい、
「仕返し」したいと思っている者も、
いつかは「そんな自分にはなりたくない」と考えて
否定的な感情を捨てることができるだろう。
ここでいる、「わたし」とは”神”、
「あなたがた」とは質問者である人間です。
(Q:は人間が質問した内容になります)
「自分が感じた感情を味わうこと」
人は、ネガティブな感情は表に出さないことがほとんど。
(出してはいけない、と潜在的に思っているから)
そして、出さないと同時に
そんな感情を感じてしまった自分を責めてしまっている。
感情に”蓋”をして、自分を責めると、
当然相手に対しても、「責めて」いることになる。
自分=他人
だから。
根っこの意識(潜在意識)は、
「自分」と「他人」の区別はできません。
だから、相手の言動に苦痛を感じた時には、
自分を責めているから感じる、のです。
責めなくていいよ
気づいてあげるだけでいい・・・。
「あぁ、私は今悲しかったんだー」
「あぁ、今私はイライラしていたんだー」
気づくだけで、ニュートラルになれるから。
それで、ゼロポイントに戻ったことになる。
自分を「責める」行為もチャラになる。
(認めたことになる、ということ)
意識すればできるから、やってみて。
ただただ、受容する。
それだけ。
それ以外のジャッジメントはしないで。
少しずつやってみよう
「わたし」が”楽”になるよ
今日も”愛”あふれる一日をお過ごしくださいませ