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少し前の記事。
どんな出来事も、どんなもの、誰でも、
いい部分とそうでない部分があります。
(そもそも、いい部分やそうでない部分も人によるので、どちらがどう・・・、ということではないです)
例えば・・・、
あの人はいつも人の悪口ばかり言っている。
あの人、マスクしてない
外出自粛なのに、けっこう出かけてるじゃん
こういった、人やできごと、ものごとに対するジャッジメントは
人やできごと、ものごとに向けているのではなく、
自分に向けているのです
いやいや・・・・、人に向けてるでしょ。
と、思ったあなた。
こういったジャッジメントをして、
気分がいいですか
おそらく、気分いい人はあまりいないと思います。
(もしいたらかなり歪んだ性格かもしれません)
人に向けているこういった判断、ジャッジは
他人を攻撃して、自分を正当化しようとする行為でもあるので、
自分と他人をしっかり境界線で仕切っているのです。
(分離させているのは、ジャッジしてる本人だということ)
そもそも、自分と外側(人やものごと、できごと)は
イコールの関係。
自分(内側)=外側
なので、相手を責めると
自分を責めたことになる。
誰もが経験したことあると思うのですが、
人を責める時、けっこう辛くないですか
(誰もしたくてしているわけではないと思うのです)
自分相手
自分から相手に向かっている矢印が、実は・・・、
自分相手
となって、即帰ってくるのです。
たとえ、相手がどんな反応をしても・・・。
(私はここにはタイムラグはないと思っています)
自分相手
の心地悪さの度合いや種類は人それぞれです。
罪悪感や無価値感など。
本来は・・・。
自分(内側)=外側
なので、矢印を向ける必要がない。
もし、矢印を向けたいのであれば、
『愛』を向けよう
そうすれば、
自分相手
となり、お互いに気分がいいのです。
「ありがとう」と言われて、
気分がいいのはそういうことだと思います。
日常生活のいろんな場面で、
人やものごと、できごとに判断、ジャッジをしてしまいますが、
してもいい。
ただ、ジャッジしていることに気づけばそれで
「私はいま、〇〇さんにジャッジしてしまった・・・。」
そして、そんな自分を責めないで。
ただただ、ニュートラルに
ジャッジしたことを認めればいい。
自分の気持ちに気づくこと。
「悟り」とは、
こういうこと、なのかなと思います。
本当は、すべてはニュートラル。
いいことも悪いこともない。
どちらでもいいんじゃない
と流せることができた時、
とても気分が軽くなる、自分がいると思います
それは、「いいかげん」という意味ではなく、
「よい加減」だと思いますよ
今日も”愛”あふれる一日をお過ごしくださいませ