ジャルガルサイハン氏というのは、私がモンゴルに関わることになったブヤン社の社長である。
モンゴルの中でも彼に対する評価は「好き、嫌い」の二つに分かれていると思う。1996年に彼と出会ってから約30年が経過するが、「若い人は遊んでないで、がむしゃらに働け!」と奮起させられて好きになる人もいれば、彼が時折語る大きな構想を聞いて呆れる人もいる。彼は、若いころから世界を飛び回り、いろんな世界を見てきているので、愛国心からか、モンゴル発展のためにという視点から大きな話をするのが好きな人だ。
債権回収のための交渉をしている時もいろんな角度からいろんな話をしたが、「年間何十万枚のセーター売って返済する」という大きな販売構想を何度も聞いた。彼が語る内容は構想や骨組みであり、具体性や実現性が伴わないことが多い。若い頃から苦労されてきたとは思うが、一攫千金的な発想はずっと変わらなかった。
我々日本人は、何か着想する時に法的に問題ないか?ということを考え、法的にできないことは選択肢から消してアイデアと実現までのプロセスを絞り込んでいくが、当時のモンゴルは法治国家というにはほど遠い時代だったし、彼は、いつも法に拘らずたくさんの選択肢を持っていたので、話についていけないことも多かったが、いつも熱意だけはあった。
社会主義から民主主義への移行期の厳しい時代を生き抜いてきたモンゴルの人は強い生命力と底力を持っている。究極的には、ブヤン社の工場を手放し一文無しになっても、家畜を何頭か持って遊牧民生活をすれば生きていけるという生命力が、ジャルガルサイハン氏の底力でもあったと思う。
1999年から2005年の間、年間7~8回のペースでモンゴル出張し、いつも彼と面談を繰り返していたが、彼が働くのは基本的に昼から夜中という時間帯で、アポは大抵、午後に設定された。ただ、約束の時間に会社に来ないのが殆どで、何時間も待たされた挙句にキャンセルとか、毎回毎回、同じ話が繰り返されるので、根気がないとやすやすと付き合える人ではない。
今もあるかどうか知らないが、ジャルガルサイハン氏は当時、自分のバンドを持っていて、バンドの皆さんは夜中に練習するのだが、彼もそこに顔を出し、あれやこれやとプロデューサーのようにコメントする。私もバンドの練習に何度か連れて行かれたが、女性ボーカルがABBAのDancing Queenとか懐かしい曲を聞かせてくれるバンドだった。ジャルガルサイハン氏は、音楽好きが興じて、ナーダム・スタジアムのような大きな場所でも使える大型スピーカーも取りそろえてコンサートを行い、本人自ら音響調整をしたりする人である。当時のモンゴルで、あのスタジアムで使える大型の音響設備を持っていたのは彼だけだっただろう。
彼はブヤン社の社長であると同時に共和党党首として政治活動もしていた。2004年~2008年の4年間は国会議員にもなり、私が丸紅ウランバートル勤務中の2006年に彼は産業・通商大臣も務めた。
当時、丸紅は中国のWinsway社(今ではTavan Tolgoi石炭の大手バイヤー)と一緒にTavan Tolgoi炭鉱開発に取り組んでいたわけだが、当時のSu Batbold大臣とジャルガルサイハン氏と共にWinsway社のアレンジで「釣魚台国賓館(中国の迎賓館と呼ばれる)」で会談と食事をさせて頂いたことがある。食事場所はバレーボールのコートぐらいあろうかと思われる大きな部屋に大きな丸テーブルがあり、背丈2メートルぐらいありそうな背の高いモデルのような、美しい女性10名ほどが給仕サービスをしてくれた。忘れることができない貴重な思い出だ。