英国での訴訟経験のある人は少ないと思うので、少し触れておきたい。英国にはSolicitorという事務弁護士とBarristerという法廷弁護士がいる。裁判の前に、まずは立証書類として準備された膨大な書類すべての内容を理解し頭に叩き込むという作業を強いられた。公判の1週間ぐらい前に法務部の人間とロンドン入りし、大きなファイルに纏められた立証書類を繰り返し繰り返し読み込んで頭に叩きこんだ。そして、裁判で想定される問答についてSolicitorと予行演習を行った。この予行演習ではBarristerは助言してはいけないらしい。裁判所では、丸紅側とモンゴル側の証人が一人一人証言台(Witness Stand)に立ち、まず「真実を述べる」ことを宣誓し、相手側Barristerの質問に対して受け答えをする。驚いたことに裁判官は全員、コート・ドレス(法廷衣装)を身につけ中世の音楽家のような白いカツラを着けており、何やら中世の映画の世界に入ったような気分だった。当然のことながら会話は全て英語で行われる。通訳をつけてもよいし、つけなくてもよいということだったので、質問に対する答えを考える時間を稼ぐためにも私は通訳をつけて証言台に立った。丸紅社員の中でもLondon Courtの証言台に立った社員は少ないのではないだろうか。。。余談だが、裁判で英国を訪れた時に「ラスト サムライ」が上映されていたのをよく覚えている。

 

こうして審理は保証履行義務に移行した。この審理に適用された判例に関する細かい内容には触れないが、なんと100年以上も前の1878年の判例”Holme VS Brunskill”が適用され、保証人(モンゴル政府)が免責という判決になってしまった。

この判決に対する評価はいろいろあった。準拠法が英国法でなく、ニューヨーク法とかシンガポール法あるいは香港法であれば、”Holme VS Brunskill”のような英国での判例が適用されることはなかったはずなので、丸紅は絶対に勝訴しただろうという評価もあった。

実は、支払保証状には準拠法の記載はなく「Disputeは英国の裁判所で最終的に解決する」とのみ記載されていたのだが、英国の裁判所で扱う以上、英国法を準拠法とするということが裁判前に決まったという経緯がある。その時は安心もしたのだが、結果的には英国法の適用によって、このような古い判例が適用されるという結末となってしまった。

 

「モンゴル政府との国際裁判(2)」にも書いた通り、会社の債権には、財務省保証付き債権と保証なし債権があったわけだが、保証人免責となったことにより、債権全額を財務省保証なし債権と認識せざるをえなくなった。モンゴル政府にとってみれば、民間企業間の問題として肩の荷が下りた格好となった。

こうして約2年半におよぶ国際裁判は終結した。

2001年6月、モンゴル政府側ワーキンググループから「支払保証状は無効である」という見解が出されるに至った。

 

それまで会社としては、モンゴル財務省の支払保証があることが、交渉の切り札と考え、保証人としての義務をブヤン社再建支援という形でモンゴル政府側にも果たしてもらいたいという意向だったので、その保証状が「無効」という表明がなされたことに非常に驚いた。

当然のことながら、会社としては「無効」を認める立場にはなく、結果、「【保証状有効】と【保証履行】を求める裁判をするしかない」という方針となり、日本の外務省や在モンゴル日本大使館などにも事情説明した上で、2001年8月にロンドンで訴訟を提起するに至った。ロンドンで裁判を行った理由は、支払保証状に「Disputeは英国の裁判所で最終的に解決する」と記載されていたためであるが、ロンドンで裁判を行ったことで予期せぬ展開となってしまった。

 

この訴訟は2004年の春まで約2年半続いた。

訴訟が始まるとブヤン社関連での出張先に、英国ロンドンが加わった。英国の法律事務所から求められる立証書類の準備にもかなりの時間を要した。

 

裁判は、まず「支払保証状の有効性」について審理された。この審理に関して出廷したり傍聴したりした記憶はないので、英国の法律事務所の弁護士に任せたと思う。記憶が定かでないが、「保証状有効」の判決が出るまでに1年以上は費やしたと思う。「保証状有効」の判決が出たあと「保証履行義務」の審理が始まるまで、更にまた膨大な書類整備が続いた。

 

また、保証状有効の判決が出たことにより、会社はワーキンググループの再開など、モンゴル政府への働きかけを再開した。つまり、モンゴル政府から何らかの支援を得ながらブヤン社事業の再建を図りたいと考えての働きかけだったが、ワーキンググループが復活することはなかった。

ブヤン社向け債権には、財務省保証状付き債権のほかに保証状無しの債権もあったので、「保証状有効」の判決がでたあとも如何にして債権回収を図るか、引き続き出張を繰り返しながら対策を講じる必要があった。モンゴル出張を繰り返す中で、モンゴル側関係者からは和解による裁判中止の要望があったことも追記しておくが、詳細は控えたい。

 

1996年から97年に会社はモンゴルのブヤン社向けに、日本・イタリア・台湾製の多数の繊維機械を延払い条件で輸出したが、新工場になる予定の建物内で使用する水や電気等のインフラ整備の遅れにより、ブヤン社の工場完成が遅れた。また、中国企業によるカシミア原毛買付によりモンゴルでは原毛価格も高騰していった。一方その間に、会社がファイナンスした融資の返済期日も順次到来していたが、返済できる状況になかったため、1998年と1999年に二度に亘りリスケ(返済スケジュールの変更)が行われていた。このような状況で、1999年4月からまたモンゴルとの関わりが始まった。

 

ブヤン社への融資には、人民革命党政権下のモンゴル財務省から支払保証状が出ていた。1999年から2000年のモンゴルの経済規模といえば、国家歳出3,500億トゥグルグ(3.3億米ドル相当、1米ドル=1,070トゥグルグ)、一人当たりGDPが400米ドルぐらいの頃である。今では(2025年)、為替は1米ドル=約3,500トゥグルグとなり、国家歳出は75億米ドル、一人当たりGDPが6,000米ドルを超えているが、契約当時の1996年のモンゴルの経済規模は1999年の半分ぐらいだったので、モンゴル財務省がブヤン社のために保証した額は国家予算の一割にも及ぶ大金であったと言える。

 

1999年にブヤン社の案件に関わるようになって最初にやったことは、現状分析だったが、返済できるような絵(事業計画)にならなかった。一方で、財務省の支払保証状があったので理論的には保証人である財務省に保証を履行してもらって債務弁済してもらうという方法もあったが、当時のモンゴル国にとっては巨額な債務だったこともあり、保証履行を求める代わりに、各省庁に対して「カシミア産業支援策(運転資金融資や原毛輸出制限など)」を求める啓蒙活動を行った。しかしながら、カシミア産業支援策は何も講じられなかった。2000年の選挙で人民革命党が政権に返り咲いた後は、頻繁に出張し、支払保証状の存在を盾に当時のモンゴルの中銀、財務省、外務省、法務省などと面談を繰り返した。面談相手は、中銀総裁や各省の大臣、副大臣クラスで、関係省庁への働きかけが功を奏して、モンゴル政府内にも問題解決のためのワーキング・グループも組成された。会社としては、このワーキング・グループを機能させて、政府支援を得ながらブヤン社の再建を図りたいという前向きな協議を行う方針であったが、会社の意に反して2001年6月にモンゴル政府側から「支払保証状は無効である」という見解が出されるに至った。

1996年6月1日、36歳のとき私は初めてモンゴルの地を踏んだ。

当時、私は丸紅(株)のプラント本部に所属し、海外の繊維工場向けに機械輸出の仕事をしていた。
1996年4月に配属された営業課がモンゴルのカシミア工場建設の案件に取り組んでおり、ファイナンス供与についても既に社内決裁も取得し各種契約書作成の段階であった。
担当者が海外赴任するということで、私が引き継いで担当することになり、まずは現場確認、ということでモンゴルに足を踏み入れることになった。

私は1983年の入社以来、インド、パキスタン、中近東(シリア、イラン、アラブ首長国連邦、オマーンなど)、アフリア市場を担当していたので、行く先々は、どこも年中暑くて埃っぽく、宗教的にもイスラム圏が多かった。
モンゴルと聞くと「蒙古襲来」「チンギスハーン」ぐらいしか知識はなかったし、一般の日本人が持っているのと同様に「草原」と「ゲル」というイメージしか持ち合わせていなかった。


 この最初のモンゴル出張は滞在3日間という短い出張だったが、非常に印象深いものだった。契約先のカシミア工場はB. Jargalsaikhan氏が有するブヤン社で、当時のジャルガルサイハン氏は「モンゴル初のMillionaire」と称されるほどの有名人だった。高級腕時計を身に着け、ハマーを初め何台もの高級車を保有する人で、私がブヤント・ウハー空港に到着した時も、車体の長いリムジンカーに出迎えられ、数台の黒い車(ランクルだったかパトロールだったか覚えてないが)に先導されて、殆ど対向車とすれ違うこともないまま市内のチンギスハーンホテルに到着した記憶がある(今では、道路も大渋滞だが、当時はすれ違う車も殆どなかった)。私がそれまでに出張した国々では、どこでも車はたくさん走っていたし、街は活気にあふれていたので、ウランバートルに足を踏み入れた時の最初の印象は、「なんというのどかな街なんだろう」、「穏やかで空気がきれいだな(厳寒の冬でなく6月だったせいもあるが)」という印象をもったと同時に、「こんな国に与信して大丈夫かな?」という気持ちになった。


 滞在中は、既存のニット工場、新工場にする予定の建物(水、電気、暖房など何もない廃墟のような建物だった)などを視察し、空き時間には、車でウランバートル郊外に連れて行かれ「これがカシミア山羊だ!」と教えてもらったのをよく覚えている。季節的にも6月初めの良い時期だったので、広い大地と草原の緑が美しく、大らかな気分になった。


 当時、この案件を担当したのは、1996年4月からの7か月間だけで、その後の2年半は別の課に異動してモンゴルと関わりのない仕事をしていたが、1999年4月に課長として配属された課にブヤン社の案件があったため、再度モンゴルに関わることとなった。
この時から、今日に至るまでの長くて深いモンゴルとの関係が始まった。