もう数年前のことだが、当時高校生の子どもを持つ父親の立場の方とお話しした際、アルコール依存や薬物依存、性依存など、各種アディクション(依存症)が国内で一般に認知されていないことを憂慮し、広めていきたいという趣旨の話に至った時、私が、「高校のカリキュラムに正式に組んで学ぶ機会を作ったらよいと思う」と発言したことがある。

 高校のカリキュラムと漠然と表現しただけで、国語や数学のように必修教科として一教科として取り扱い、通年授業と試験を課す形式を指すのか、交通安全教育のように専門的な部外者を呼んで年に一度程度講演形式の教育を施す形式を指すのか、私は敢えて明確に示さず話を切り出した。

 漠然と、保健の教科書の中に1頁ほどコラムを作って保健体育の教諭が担当クラスの状況を見ながら保健の授業中に言及する形式や、学校薬剤師が正規の授業時間外に生徒の履修単位とは無関係に啓発活動として講堂や体育館で不定期に講演をおこなう形式が思い浮かんだ。

 

 この時、この男性が、

 「今でも大学受験の対策が充分できていないのに、これ以上学ぶ内容を増やしたら保護者から確実にクレームがきますよ」

 と、物凄い剣幕でまくしたてて私の提案を一蹴した様子が今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。

 

 私は驚愕し、論争に発展することを危惧してそのまま引き下がった。

 このシチュエーションはあくまでも単なる雑談の流れで行き着いたやり取りで、学校関係者同士の本格的な会議でも何でもない。

 ゆえに、この雑談の中でどのような結論に達しようと、現行のカリキュラムには影響が及ぶことはないのだ。

 

 

 当時私が驚愕したのは、当該高校の生徒たちの大学受験の対策が不充分な事でもなければ、学ぶ内容を増やしたら保護者からクレームが来るという実態でもない。

 日本国内に於いて各種アディクション(依存症)が一般に認知されていない現状を解決する一つの方法として挙げた私の提案への反対理由として、この男性が、問題解決にさほど関係ない保護者の存在を真っ先に挙げた事である。

 

 仮に私の提案内容が施行されたとして、直接影響を受けるのは、教育を受ける側である高校生たちと、教育する側の教諭や専門職に就いている者だけだ。

 

 また、この話のやり取りの本質は、

 1.日本国内に於いて各種アディクション(依存症)が一般に認知されていない現状は問題であるという、その場に居合わせた者の総意

 2.1.の問題の解決策を提案

 3.2.が1.の解決策になっていないという反論

 であるはずだ。

 

 それゆえ、反対理由として、「現状、高校生たちは大学受験の準備で精一杯で、これ以上何かを学ぶ余裕がない。実際、卒業生たちの過半数は高校で履修する内容すら身に付いていないので、学ぶ内容を増やしても吸収できるとは思えない。したがって、アディクションに関しての認知が広まることは考え難い」などと、各種アディクション(依存症)が国内で一般に認知されていない問題の解決策として無効だとの趣旨を述べられれば私は何ら違和感を抱くことはなかった。

 

 私は、偶然話し相手が高校生の子どもを持つ父親の立場にある者であったため、各種アディクション(依存症)の実態を周知する対象としてこの時には高校生を挙げたまでで、啓発対象は成人全員なのは言うまでもない。未成年のうちから重要な事として認識しておけば成人した時に概念として残るだろうという目論見だった。

 このやり取りの中で非常に興味深いのは、話し相手が、仮に私の提案が施行された場合、肝心な教育を受ける側に置かれている当事者の事情よりも、第三者である保護者の事情が優先される思考回路を持っていたことである。

 

 

 保護者からクレームが来ることの問題の本質は何なのだろうか。

 保護者からクレームが来た時に対応するのは高校に勤務している教諭や教育委員会の大人たちであり、保護者でも高校生でもないのは明白だ。

 私の対話相手の男性は教職に就いている者ではないので、学習内容が増えたことが理由で保護者から学校や教育委員会にクレームがどれほどきたところで本人が対応する必要などないはずだ。

 

 このような当事者の事情を無視して第三者の事情を優先した仮想話はしばしば日常的に耳にする。

 誰が主役で、誰が傍観者で、誰に一番影響が及ぶのか、少し考えれば明白な事柄に対し、傍観者であるはずの者を引き合いに出し、必死に物事を押し通そうとする発言が多すぎると私は感じる。

 

 既婚者が、赤の他人の独身の者に、「結婚しないと親が悲しむよ」などと根拠のない事を言って結婚を勧めるのがその典型例だ。

 会ったことも話したこともない、いるのかいないのかすら判らない人の親が悲しむことにより、その発言主である既婚者に何が関係あるというのだろうか。

 大抵の場合、その発言主である既婚者は、対話相手の独身者が独身でいる事に対して不快感を抱いているものの、「私はあなたが独身でいることが不快なので結婚してほしいと思っています」と自分の感情を率直に述べることができず、人間として大切な人を悲しませない生き方をするよう助言する事は容易に非難されることではないという性質を利用して、会ったこともなければ顔も知らない親の事を引き合いに出しているだけだ。

 その発言主の親戚に結婚相談所の経営者でもいて、何らかの営業の要素があるのではないかと勘繰ってしまうほどなのだが、その物事に直接関係のない第三者を引き合いに出して執拗に他人に何かを勧めたり何かをお断りしたりする発言が随所に見られて、私としては言葉のやり取りに際して非常に違和感を覚えている。

 

 「~しないと親が可哀想」という言い回しは頻繁に見られるが、果たして発言主は、その「可哀想」である親と懇意な仲なのだろうか。私の推測に過ぎないが、大抵の場合は親の名前も顔も知らない、電話で話した事すらない、仮に亡くなっても香典すら送らない仲なのではあるまいか。

 

 

 上述の男性とのやり取りの場合、何かしらの営業の要素はないのだが、それにもかかわらず、第三者の事情を引き合いに出して反射的に反対された事にも同時に違和感を覚え、常に第三者の事情を物事の判断基準にしていると、咄嗟の時にもこのような発言をしてしまうという事を実体験として知った恐ろしい例である。

 まさか、本当に保護者からのクレームを恐れて、子どもたちに有意義な教育を施す事よりも、たとえ子どもたちに無意味であっても、保護者からクレームがこない、保護者受けの良いカリキュラムを推奨しているのだろうか。

 保護者第一の教育を本気で良しとする大人が居るとすれば非常にゆゆしき事である。