「自分の時間」という言葉をよく耳にします。
時間は全ての人に1日24時間平等に与えられているはずなのに、「就職すると自分の時間がなくなる」、「結婚すると自分の時間が取れなくなる」などと言う声が挙がっているのを聞く度に、各自の「自分の時間」という認識について考えてしまいます。
同様に、就労していない未成年者や既婚者から、「自分のお金」という言葉も耳にすることが多いです。
この場合、世帯全体で所有している財産の中で、自分が自由に使える権限を持つ財産や、自分が就労して得た収入を指す事が多い傾向にあります。
「自分の時間」も「自分のお金」も、家族や親族、会社などの共同体に帰属し、その共同体の中で決めた独自のルールに基づいて発生する制約で、その共同体の外の者は関与しない性質を持ちます。
もう7年ほど前の事ですが、web上で印象的な記載を拝読しました。
逮捕されて留置場に拘留され、1日3回の食事を公費で賄われて提供された物で済ませた立場の方が、同じ官房の容疑者たちが自費で豪華なお弁当を購入していた様子を振り返り、
「自費で食事をするのは家族に負担をかけることになるから、自分はどんなに拘留生活が長引いても自費は一切使わずに公費で賄われている食事で我慢しようと思ったのに、他の容疑者たちは自分勝手だ」
との旨、記していたのです。
この価値観について、初めて読んだ時にも衝撃を受けましたが、今でもこの事を思い出して改めて「自分のお金」について考えることがしばしばあります。
他の容疑者たちは、私情により逮捕された上、食事に際して公費を消費するのは国に負担をかけることになるのは申し訳ないと考え、家族という共同体の中の人たちに手紙を書いて一旦は資金を支援してもらうことにより自費を工面し、後日共同体の中で決めた「自分のお金」の中から共同体(=家族)へ返還する形式を取っているとは解釈できないのか、という疑問を抱いたのです。
この投稿者の云うところの「自分勝手」とは、共同体の中の人の手を煩わせることを指すのか、共同体の共有資産を一時的に消費することを指すのか、定かではありませんでしたが、この投稿者は公費で自分の食費を賄うことについては全く罪悪感を抱いておらず、寧ろ家族に迷惑をかけない奨励すべき行為だと捉えているようにさえ読み取れました。
この執筆者は既に当該アカウントを削除しているため、憶測にすぎないのですが、共同体の中と外、内と外との境界線について認識が垣間見えた描写でした。
共同体の中さえ大切にすれば、外に対してはどれほど犠牲を払わせてもかまわない、寧ろその方法こそが道徳的に正しい方法だ、このように主張しているように感じられたのです。
その投稿の直後、逮捕された事件の被害者に対する申し訳なさについてはほとんど言及せず、身元引受人として警察署まで赴いた自分の奥さんを指して「家族もまた被害者」と執拗なまでに投稿しているのを見て、共同体の外に対する意識が希薄なのか、非常に不思議に感じたのを未だに覚えています。
一般的に言うところの「自分のお金」という概念についても、共同体の中で決めた分け前という制約を守りつつ正当に割り当てられたお金なのだから共同体の中の人に負担をかけているわけではない、という共同体の外への主張が感じられます。
典型例として、中学生や専業主婦が「この服は家族に買ってもらった物ではなく、自分のお金で買った物です」と言う行為が、自分は共同体の制約を守って生きているのだから共同体の中の人に負担をかけているわけではない、という共同体の外への主張であるように感じられるのです。
共同体の中の事情などそれぞれあるだろうに、このような主張をわざわざ共同体の外に向けてしている光景を見ると、非常に窮屈な思考回路を想起します。
共同体の外の人たちにとっては、所有に関する境界線は共同体の中と外との間に存在し、共同体の中での分け前が臨時的に移行しようと何ら関係ないのですが、「自分の時間」、「自分のお金」という言葉を頻繁に使う人たちは共同体の中の事情詳細を共同体の外へ向けて克明に語りたがる傾向にあります。
そして、「自分の時間」、「自分のお金」の不足について、共同体の外の人たちに訴えかけても解決する確率は極めて低いにもかかわらず、共同体の外の人たちに愚痴をこぼす傾向にある気もします。
何が「自分勝手」なのか解らなくなってきますが、自我を抑制して生活していることを共同体の外の人たちに向けて強く主張しなければ気が済まない共同体に属していること自体、選択を間違えている気がしてなりません。
自我を抑制して公費に依存して共同体の中での「自分のお金」を死守したことを共同体の外の人たちに誇れることではないと私は考えています。
そもそも、ここまで「自分の時間」、「自分のお金」という言葉が飛び交い、自己と他者、共同体の中と外との区別を明確にし、所有に関して他の共同体の中のことまで気にかける人が増えたこと自体、育児や介護に際して他者を頼りにすることや職場で思いやりを持って休暇を譲ったりする精神が廃れつつあるからではないかと考えることもあります。