幼少期、多くの女の子の将来なりたいものの中に、ケーキ屋さんが挙げられます。
これは、自らが大抵の人から喜ばれる物に囲まれながら、その物を欲しいと思う人に対して提供する役割を担いたいという販売員(介在者)としての意味合いと、自らが0から創造した物を他人に喜んで使って取り入れてもらう役割としてのパティシェの意味合いとが混在していると私は推察しています。
20代後半頃から多くの女性が主婦として家族に毎日手料理を振る舞うようになることを考えると、ケーキ屋さんの果たす目的の本質としての行為を日常的に担うという意味では幼少期から大人になって気持ちと行動とが一貫していると言えるのかもしれません。
私自身、幼少期にケーキ屋さんになりたいと感じる気持ちが沸き起こったことがなく、特にパティシェの役割を担う事に嫌悪感を抱いていました。
これは、幼稚園児の頃から、誰に教わったわけでもなく自分の創造物を他人に与えることは他者への支配の意味合いが含まれており、失礼な行為だと認識していたことに由来します。
勿論、パティシェ自体は創造物を他人に強要する役割を担っていないため、失礼な行為をする方々ではありません。
3年以上前にピアノを再開した時、私はもう人前で演奏したくないと感じた理由の一つが幼少期から理屈ではなく自然に沸き起こっていた上述の事項に関連しています。
これらの感情は本能であり、人前演奏への向き不向きとケーキ屋さんになりたいと感じる気持ちとは何かしらの関係がある気がしてなりませんでした。
もっと言えば、主婦や母親になりたいという気持ちと人前で演奏したいと感じる心、そして幼少期にケーキ屋さんになることに抵抗を示さなかったこととは関連しているような気がしてならなかったのです。
この件について、いつ公開記事を記すか再開当時から考えていたのですが、再開後3年間の年月を経ても再開当時に感じていたことと同様の事を今もなお考えているため、夏の終わりの記事にしたためておきます。
夏を迎えた頃の山梔子(クチナシ)の花です。
マスクを外して3mぐらいの距離を通っただけで感じ取れるほどの強い香りを放っていました。
最近ピアノの練習について記していなかったのですが、毎日定期的にスケールとバッハのインヴェンションだけは練習を続けています。
酷暑で体調面に不安を感じる日は、上記の練習曲だけに留め、特に問題なく過ごせそうな日にはショパンの楽曲だけでなくモーツァルトの幻想曲K.397に触れています。
今年7月ごろから、子ども時代に習ったモーツァルトの楽曲が非常に懐かしくなり、ショパンよりもモーツァルトに入れ込んだ時期も有りました。
幼少期にケーキ屋さんになりたいと感じたことのない私ですが、自分の食べる分の料理をしたいという欲求は昔からあったのです。
これは矛盾する欲求のようで、私としては筋が通った本能でした。
私は、自分が創ったものを他人に消費させることに罪悪感を抱いていたのです。
その罪悪感の本質は他者への支配欲をむき出しにすることへの嫌悪感でした。
何の抵抗もなくケーキ屋さんになりたいと感じることができた人や、自分のオリジナルのケーキを作ってお店を開きたいと純粋に語っている同年代の人たちに嫌悪感を抱かなかった幼少期を送った人には、解りづらい感情かもしれません。
自分の世界観や価値観の中に他者を強引に巻き込む行為と、希望する他者だけに何かを提示する行為とは似て非なるもので、その境界線を確立できたと確信した今だからこそこの記事を投稿できるのです。
「この件について、いつ公開記事を記すか再開当時から考えていた」と前述したのも、ピアノに取り組むに当たって核心に迫ることについては、私の内面の深部に他者を触れさせる行為に当たり、他者へ価値観を共有・認識させることに繋がり、抵抗を感じていたからです。
本能とは今も幼少期も変わらないのだと痛感しています。