1月にしては暖かい日が続き、早くも八重咲き水仙の花が咲き始めています。

 大半は蕾ですが、咲きかけの様子も見られ、心躍る気分です。

 

 

 少し切なげな様子で咲く姿からもまた趣を感じます。

 

 

 ルピシアだより1月号に同封されていたサンプルのうちの一種が、いちご(フレーバード紅茶)でした。

 例によって、パッケージに七十二候が記されており、今回は1月6日~9日芹乃栄(せりすなわちさかう)」です。

 二十四節気では小寒

 

 

 この芹乃栄(せりすなわちさかう)」という言葉についてですが、明日1月7日は七草粥を食べる日だと云うのは有名でしょう。

 七草粥には、春の七草のうちの一つである芹(セリ)を入れる習慣があります。

 その芹(セリ)は、丁度この季節に若葉が競り合うように群生することが名前の由来だそうです。

 日本原産の多年草で、冷たい沢の水辺に群生するセリ科の植物です。

 ちなみに、セリ科の植物の中には、ニンジンやパセリなど、食用として用いられているものが挙げられ、セリ科特有の香りがあるため、香辛料として用いられている植物が多数存在します。

 

 

 肝心なルピシアだよりを乱読した感想が浮かんだのですが、これについては記載を控えるのが望ましいと判断しました。

 

 まず、このルピシアだよりを受け取ることができるのは、直近6ヶ月以内のルピシア商品購入金額が3000円以上である会員で、フリーペーパーとは異なる性質を持つと云うのが一つの理由として挙げられます。

 

 

 この記事をお読みの方々の中には、会員限定として配信される情報について、会員だけで独占する事について快く思わない方もいらっしゃるかもしれません。

 しかし、あくまでも私の見解ですが、他の会員の方々の中には、会員特典を得る事が目的で、会員になることの条件としての3000円以上のお買い物を達成するため、本来欲しい商品は2500円であっても1品追加購入して条件を満たした方もいらっしゃるかもしれない可能性を考慮すると、冊子の中の情報については敢えて言及しないのが会員とその他の方々との公平性を保つための一会員としての気遣いなのではないかと考えています。

 

 

 この件に関しては、自分が何かしらの行為によって得た情報について、どこまで秘めておくべきか、インターネットが普及してしばし考える事が多いです。

 何らかの入場資格が必要な催し物に自ら参加して得た情報や、広く考えると、被雇用者の立場で所属している会社の経費で出張をした事により宿泊したホテルや移動に伴う際に目にした景色の写真などをプライベートな匿名アカウントのSNS上に主催者や雇い主の許可を得ずに掲載する事は、倫理的に考えて控えるべきではないのかと私は考えているのです。

 

 これは、決して情報の出し惜しみをしているわけではなく、何らかのそれまでの信頼実績があったり、入場料を支払ったりして、指定された時間内にその場に足を運んだ他の参加者の方々と、その他の方々の間で不公平な想いを抱かせないように心掛けている結果でもあり、自費ではなく会社の経費で出張をした事により宿泊したホテルの室内の写真やそこから見えた非日常的な景色の写真などを掲載するのは社会人としての信用問題に関わるのではないかと考えた結果でもあります。

 勿論、知事や芸能人のような公人の方々が公式アカウントで公開する事とは全く意味合いが異なります。

 また、一般の社会人の場合も、自費で購入したその土地特有の物であれば掲載しても構わないのではないかと私は考えています。

 

 どこまで秘めておくべきか、何らかの有料コンサートの感想を記す事についても細心の注意を払う必要があるのではないかと考え、私自身は現時点では公開する内容について慎重にならざるを得ません。

 

 

 【本日のピアノへの取り組みについて】

 

 ・バッハ インヴェンション全15曲

 ・バッハ シンフォニア第11番 ト短調

 (ここまで各1~2回ずつ通しただけ)

 

 ・ショパン ノクターン第5番 Op.15-2 嬰ヘ長調

 ・ショパン エチュードOp.10-4 嬰ハ短調

 ・ショパン エチュードOp.10-12(革命) ハ短調

 ・シューマン 幻想小曲集Op.12 飛翔 へ短調

 ・その他(スケール・アルペジオ・半音階)

 

 シューマン 幻想小曲集Op.12 飛翔についてですが、基本的に速い曲で跳躍が多いので、音色の追求をしようとすると困難な箇所が多いです。

 

 変ニ長調に転調し、右手アルペジオが続く箇所についてですが、

 

 1.8分の6拍子の拍感を保つ事

 2.右手の主旋律以外の音を「弾かない」のではなく、絶妙なタッチで打鍵する

 

 上記2点について難儀しています。

 

 内声は、秘めておくものではなく、一際目立った存在に仕立て上げるものでもなく、確実に存在するけれど地味な脇役として働くもので、その加減について追求に余念がありません。