クリスマスローズの鮮やかな赤からは、鮮血から感じられるおぞましさと云うよりも寧ろ、紅葉から感じられる包み込むような優しさのような印象を受けます。
公共の広場にクリスマスローズやシクラメンが植えてあるのですが、毎年凍てつくような張りつめた雰囲気の中、気丈に咲き誇る姿が美しいと感じながら観ています。
PCの容量にも回線接続の速度にも限界があるように、未成年時、音楽の専門教育を受けていない1人の成人が、30代でピアノを再開して、レパートリー曲を複数維持する事について、現実的な曲数はどれくらいなのか考える事が多いです。
勿論、曲数と云うカウント自体、無理が生じる事は承知しています。
【本日のピアノへの取り組みについて】
・バッハ インヴェンション全15曲
・バッハ シンフォニア第11番 ト短調
(ここまで各1~2回ずつ通しただけ)
・ショパン ノクターン第5番 Op.15-2 嬰ヘ長調
・ショパン ノクターン第20番(遺作) 嬰ハ短調
・ショパン エチュードOp.10-4 嬰ハ短調
・ショパン エチュードOp.10-12(革命) ハ短調
先日から感じていた事なのですが、生活が破綻しない程度にピアノに取り組んでレパートリー曲を複数維持する事について、私の場合、上述に挙げた楽曲+2曲が限度なのではないかと感じています。
更に言えば、ショパンエチュードについては同時に「所有」できる曲数は3曲が限度で、4曲以上になると完成度が大幅に下がりそうな気がします。
これについては、個々により見解が異なると思いますが、適正な自己分析の結果、上記のような判断を下しています。
自分(会社)の遂行能力を超えて何でも着手すると、下記記事のように見苦しい言い訳を繰り返す羽目になります。
ゆえに、自分(会社)の遂行能力については常に把握しておかなければならないのです。
翌朝早くから出勤の夜、飲み会に誘われてお断りした結果、「付き合いが悪い」などと悪態をつかれた場合、その悪態をつく人物は、「自分が嫌われた」、「自分が否定された」と常に短絡的に被害的に受け取る者である可能性が高いので、私は関わり合いにならないよう、20代の頃から意識していました。
自己管理の観点から生活全体を総合的に見て、「自分には無理だ」と判断を下し、実際に他言する事ができ、堂々とお断りしても関係性が崩壊しない相手だけと関わることにしています。
携帯電話が普及する前、通常の会社員は通勤電車の中で一人で黙って新聞を読み、会社関係者と業務連絡や雑談をする事などまず有りませんでした。
黙読した記事内容について、他人と感想を語り合う事はせず、自分で情報を仕入れ、真偽を判定し、自分の意見を確立する時間を平均して1日のうち約1~2時間持つことが日本中で自然と行われていたのです。
他人と精神的に繋がっていなければ不安で何もできない者・癇癪を起こす者を社会に出さない自動システムが機能していたわけです。
現在、120分間どころか30分間すら自分のしたい話を控え、他人の話に耳を傾ける力が削がれつつあるのかもしれません。
ピアノの練習中、バッハのインヴェンションを全15曲通して弾いてみると、着手から終わりまで、約20分間要するのですが、この後、基礎的に欠如した箇所について取り組むと、他の楽曲を通して「弾く」行為だけで90分間が終わってしまいます。
これでは、レパートリー曲の維持どころか、「完成度の再確認」の作業だけで時間が過ぎてしまい、欠如した部分の補充を行えるのが複数有るうちの1曲のその中の数小節に過ぎないことが多々発生してしまいます。
それゆえ、着手曲が多くなればなるほど、何かを妥協しなければならず、その「何か」について考えてみたところ、楽曲の数と云う結論に至りました。
「うろ覚えのまま何となく雰囲気だけをただ味わっていたい」となると話は別ですが、私なりにきちんと演奏できる到達度を考慮すると、そろそろ楽曲の数について現実的に考え始めなければなりません。
本当に好きな事であれば、先生が指導放棄しようと、先生の前で一度も1曲通して演奏した事がなかろうと、毎日自分で練習しますので、先生の事が気に入らなかったから或る分野が嫌いになったと云うのは、初めからあまり素質が無く、その人にとってどうでも良かった事柄なのかもしれないと考えるようになりました。
したがって、「初めから興味が無い」人を無理矢理話に付き合わせても、嫌悪感を募らせるだけで、何年続けても義務感が拭えず、「最初に対象人物を特定し、心の底から物事(人物含む)を好きになってもらう方法」を考えるより、「対象とする『人』については速やかに見切りをつけ、関わる対象人物を替える」事の方を優先した方が賢明だと云うのが私の持論です。