街中でクリスマスを意識したオブジェが目に付く時期になりました。
敬虔なクリスチャンの割合が低いわが国日本に於いても、クリスマス関連のイベントや装飾品は各地で散見されます。
ここで、わが国の「敬虔なクリスチャンの割合が低い」と言われているのは、どの国と比較して「割合が低い」のか、考えてみると、欧米諸国と比較した時の客観的データです。
イランなどの中東地域と比較すると、日本の方が国民全体に占めるクリスチャンの割合が高いのが事実ですが、普段の会話の中で海外と言えば欧米諸国を意識する者が多い事に起因しているのか、多くの方々が、何も疑問を抱かずに「日本には敬虔なクリスチャンの割合が低い」と云う言葉を発する傾向にあります。
これは、日本人の多くの方々の共通認識の中に、イランなどの中東地域よりも欧米諸国を世界基準としている事が推測されると私は考えています。
中学生の頃から、前後2学年以内に姉妹がいる同級生に対し、「Aさんの妹が今度中学1年生として入学してきたけど、Aさんに顔がそっくり」だとか、「今年入学してきたBさんの妹はBさんに似ても似つかない」などと、周囲が話題にしていたり、本人も、「私の妹は全然私に似てないんだよ」などと言っているのを聞く度に、妹が姉に似ているのではなく、姉が妹に似ていると云う概念を持っている人はいないのかと私は非常に疑問を抱いていました。
通常、姉妹の姉の方と同級生であれば、先に知り合いになったのは姉の方で、妹は後から知った存在なので、時系列に沿って先に知った姉の情報が基準となり、妹についての情報を知る事になり、妹が姉に似ている・似ていないと云う表現が第三者間で飛び交うのは何ら不思議ではありません。
私が疑問を抱いていたのは、姉妹の当事者で、姉の立場にある者が、「私の妹は全然私に似ていない」と、妹の話をする時に自分を基準として語る事がしばしばあった事です。
私は、姉の立場にある者に直接、「妹があなたに似ていないのではなく、あなたが妹に似ていないと云う発想はないの?もしくは、『私たちはお互い似ていない』と云う発想はないの?」と云う問いを投げかけた事が有ったのですが、真摯に向き合ってお答えいただけた姉妹の姉には出逢う事ができませんでした。
姉妹の妹の場合、中学3年生の4月の時点で既に、「私は姉に似ていない」と言う場合と、「姉は私に似ていない」と言う場合とに二分されており、後者の場合、18歳時点に於いて躊躇いなく姉と別分野に進む傾向が有ります。
あくまでも傾向の問題で、私の経験則に基づく事ですので、特に他意は有りません。
そして、私が何の前情報もない状態で知り合って友達になり、長続きする関係性の女性は、男兄弟がいる・もしくは「姉は私に似ていない」と言う妹の立場である事が多いのが非常に興味深いです。
三姉妹の中間子の場合、大抵の方が「姉は私に全然似ておらず、妹は私に少し似たところがある」などという言い回しをして、姉妹のどちらに対しても中立の立場で、あたかも指揮者が各楽器のテンポのずれを判断するかのような概念を持っている事が多かったです。
どのような認識であれ、姉妹のいる女性からは、姉妹を大切に想う感情が伝わってきて微笑ましくなる事が多いです。
【本日のピアノの練習について】
・ハノン 11,12番,21番
・バッハ インベンション第1~15番
・バッハ シンフォニア第11番 ト短調(暗譜済)
(※ここまでそれぞれ1~2回通しただけ)
・シューマン 飛翔(※練習中)
・ショパン エチュード Op.10-4(暗譜済)
・ショパン エチュード Op.10-12(革命)(暗譜済)
・ショパン ノクターン第5番 Op.15-2 嬰ヘ長調(暗譜済)
・その他(スケール、アルペジオ、半音階、その他)
シューマンの幻想小曲集Op.12「飛翔」を練習していて痛感したのは、上述のような「基準」を譜面に忠実に見出す事ができず、8分の6拍子への意識よりも、主旋律にその他の音を合わせるテンポの刻み方をしている事です。
上述の譜面で言えば、オレンジ色の蛍光マーカーを惹いた部分を自分の「理想」通りに奏でたい想いが先行し、拍感やその他の音は全て脇役としてしか認識していないのではないかと云う、音楽の基本的な概念の欠如を痛烈に感じる訳です。
ツェルニー100番練習曲を真の意味でやり直すのが一番早いのかもしれませんが、年内に最初から最後までインテンポで止まらずに「飛翔」を弾き切りたいので、現在、本来の楽曲分析や音色についてなどと云った事は考えず、8度超の音符をどう処理するかと云う暴挙に出ています。
上記添付画像に於いて、赤枠で囲んだA音について、高速アルペジオは考慮せず、
a.完全に抜く
b.1オクターブ上げる(※1参照)
c.1オクターブ下げる(※2参照)
の3択を考えたのですが、現在はb.を採択しています。
楽典を学んだら「答え」を変更する可能性大ですが、無心になれる瞬間とは、勢いの有る曲に向かっている時で、ショパンのノクターンが性格的に不向きであった事が身に沁みました。
「飛翔」を練習していていると、主旋律も内声も、「私たちは全員『指揮』に合っていない」と云う警告を発しているような気がしてなりません。