「良い演奏」、「良い写真」、「良い文章」、「良い言動」、これらは、誰にとって「良い」ものなのか。
写真撮影を趣味としていた時、否、それ以前から、しばしば考えていた事です。
私が未成年の頃、大人が子どもを褒める風習がほとんどなく、ほぼ全ての言動について毎回貶されるのが当然の事でした。
「バカ」、「死ね」、「ただちに窓から飛び降りろ」、「生きる価値なし」…。
同世代同士ではこのような言葉が飛び交う事はありませんでしたが、毎日毎日、特に学校の教員達からは、存在するだけでこのような言葉を浴びせられてきました。
子どもの命は大切なものではなく、「死んでもいいから学芸会では息継ぎをせずに先生の顔を立ててくれ」と幼稚園時代から教育された世代です。
合唱コンクールでは、変声期の男子は音楽教師から口パクを命じられているのが当然の事でした。
それに対して学校にクレームを申し出る保護者が皆無なのもまた当然の事でした。
秋元康氏がプロデュースする48Gの事を口パクと非難する方々は、アイドルのメンバーに対してではなく、自分自身や周りの同世代が受けた教育について非難しているのではないかと思う事もしばしば有ります。
このような子ども時代を過ごしたので、「良い演奏」とは、誰にとって「良い」のか、決して口には出さずに想いを巡らせた事が有ります。
参観に来る保護者にとって「良い」のか。
ステージで演奏をする子ども達(私たち)にとって「良い」のか。
先生の世間体にとって「良い」事は言うまでもありません。
…続きを記載しようとしたのですが、私が人前で何かを披露する事に興味が無くなったのは、この教育を幼稚園児の頃から受け続けていたからなのではないかと思う節が有ります。
関与する「人」の間での利害関係、犠牲になる人権、このような負の概念が未だに常に付き纏っています。
何故大人になってまで趣味で忖度を続けなければならないのか。
決して口には出しませんが、幼稚園や小学校の先生を見る度、「この人は、抵抗できない子どもを虐めてあることないこと難癖つけているのだろうな…」と自然と感じています。
大学生の頃、知り合った人が教育大学の初等教育学科に通っていると判明した瞬間、「嗜虐趣味の危険人物だ」と察知して無言で距離を置いた事があった程です。
標題の、「良い演奏」とは、誰にとって「良い」のかと云う件について、趣味の範疇であれば、「そこに存在する人の中で、人権を尊重し合える関係にある人全員」にとって「良い」のだと私は考えます。
また、「良い演奏」が成立する必要条件として、関与する人物全員が互いの人権を尊重できる事が挙げられると考えています。
【本日のピアノの練習について】
・バッハ インベンション第1番 ハ長調(暗譜済)
・バッハ インベンション第2番 ハ短調(暗譜済)
・バッハ インベンション第3番 ニ長調(暗譜済)
・バッハ インベンション第9番 へ短調(暗譜済)
・バッハ インベンション第4番 ニ短調(暗譜済)
・バッハ インベンション第7番 ホ短調(暗譜済)
・バッハ インベンション第8番 ヘ長調(暗譜済)
・バッハ インベンション第12番 イ長調(暗譜済)
・バッハ インベンション第13番 イ短調(暗譜済)
・バッハ インベンション第5番 変ホ長調
・バッハ インベンション第10番 ト長調
・バッハ インベンション第11番 ト短調
・バッハ インベンション第15番 ロ短調
・バッハ シンフォニア第11番 ト短調(暗譜済)
(※ここまでそれぞれ1~2回通しただけ)
・ショパン エチュードOp.10-4 嬰ハ短調(暗譜済)
・ショパン エチュードOp.10-12(革命) ハ短調(暗譜済)
・ショパン ノクターン第5番 Op.15-2 嬰ヘ長調
・ショパン ノクターン第1番 Op.9-1 変ロ短調
・その他(スケール、アルペジオ、半音階、その他)
ショパン ノクターン第5番 Op.15-2 嬰ヘ長調の中間部克服に際し、第40小節の赤枠で囲んだ箇所について高確率で音色が汚くなりがちなので、部分的に練習に取り組みました。
白鍵オクターブの直前の黒鍵が離れているので、ペダルと右5の使い方の徹底練習です。
また、本日は左手は全く弾かずに右手だけメトロノーム八分音符=80でゆっくり通してみてどこに問題が有るのか探っていました。
…詳しく記そうとしましたが…
ステージ発表云々を考えると、二度と関わりたくない義務教育の過去の嫌な記憶が蘇るので、保留。

