色鮮やかでどことなく人工的な装飾物を想起させる植物、ハッピーキャンドルの花が植えられているのを見かけました。
最近、色とりどりのハッピーキャンドルの花が公道に寄せ植えされているのをよく目にします。
ケイトウの一種で、暑さ耐性に非常に強いようです。
最初目にした時には造花なのではないかと思う程に色合いが鮮やかでファッショナブルな形状でしたが、生花で間違いありません。
名前の通り、キャンドルの炎を想起させる雰囲気を感じ、夏の盛りが近い事を視覚を通して感じ取っています。
こちらは、少し成長した様子です。
やや涼し気な印象を受けますが、ハッピーキャンドルの花からは遊び心が感じられて気分が開放的になる気がしてなりません。
季節を象徴する植物が公共の場に植えられているのを見ると、定期的にどなたかがお手入れをしてくださっているのだと、陰の努力に有難さを感じます。
ここで、標題の「芸術作品に感動するということ」についてですが、生け花、寄せ植え、写真、音楽、舞踊、etc.広義の他人の目や耳に触れる事を前提とした作品については、その出来栄えだけでなく、製作者や演奏者、踊り手など、作品を産み出す側のバックグラウンドを含め、総合的に感銘を受ける事が多いと私は感じています。
有形無形の美しいものの裏に、製作者のその時の境遇や、人知れず行っていたたゆまぬ努力などを感じ取るからこそ、完成した美しいものを目の当たりにした時、より一層その美しさは深みを帯びて感じられるのだと思います。
反面、名勝地の風景写真が技巧的に優れていたとしても、極端な話、立ち入り禁止の柵を乗り越えてカメラを向けて撮影されたものであったり、本来懲戒解雇となるような不正を行いつつ在籍している会社の経費で出張に行った時に撮影したものであると判明した場合、一瞬にして興醒めとなります。
どのような分野であれ、感銘を受ける作品には、作品が独り歩きしているわけではなく、製作者の生き様が反映されている気がしてなりません。
突き詰めると、完成した「もの」に対して心を揺さぶられると云うよりも、寧ろ製作者や演奏者の偽りなき心や日々の言動、人生そのものが心の琴線に触れるのだと私は感じます。
【本日のピアノの練習について】
・バッハ インベンション第1番 ハ長調(暗譜済)
・バッハ インベンション第2番 ハ短調(暗譜済)
・バッハ インベンション第3番 ニ長調(暗譜済)
・バッハ インベンション第13番 イ短調(暗譜済)
・バッハ インベンション第9番 へ短調(暗譜済)
・バッハ インベンション第4番 ニ短調(暗譜済)
・バッハ インベンション第7番 ホ短調(暗譜済)
・バッハ インベンション第8番 ヘ長調(暗譜済)
・バッハ インベンション第12番 イ長調(暗譜済)
・バッハ インベンション第5番 変ホ長調
・バッハ インベンション第15番 ロ短調
・バッハ インヴェンション第11番 ト短調
・バッハ シンフォニア第11番 ト短調(暗譜済)
(※ここまでそれぞれ1~2回通しただけ)
・バッハ シンフォニア第2番 ハ短調(運指9割ほど決定)
・ショパン エチュードOp.10-4 嬰ハ短調(暗譜済)
・ショパン ノクターン第1番 Op.9-1 変ロ短調
・ショパン ノクターン第5番 Op.15-2 嬰ヘ長調
・その他(スケール、アルペジオ、半音階、その他)
本日は、ショパン ノクターン第5番 Op.15-2 嬰ヘ長調の中間部の土台を固めるべく、左手だけで確実に拍を刻む練習に取り組みました。
この曲の中間部は、気を抜くと右手の内声と左手とが合わなくなり、途中からどこか誤魔化しているようになってしまうので、片手ずつ丁寧にやり直しています。
どこか誤魔化しているような杜撰さを認知したまま放置しておくと、私自身の日々の言動の端々にも杜撰さが習慣化して滲み出てしまうような気がしてなりません。
僅かな進歩であっても、趣味で取り組む場合、日々の練習に於いて自らの未熟な部分に真摯に向き合う事こそが素晴らしい作品に一歩近づく秘訣なのかもしれないと思いつつあります。