山茶花の花が謙虚な佇まいで咲いています。

 

 

 童謡「たきび」の歌詞の2番の歌い出しは、「サザンカ サザンカ 咲いた道 たきびだ たきびだ おちばたき」と詞が書かれているように、見頃を過ぎた山茶花は、花弁も葉も共に朽ち果てて落ち葉となり、焚火が出来そうなぐらいに枯葉の山が積もっていきます。

 このような特性を持つ植物を自宅敷地内に生息させると掃除の手間がかかる事が容易に推測出来ます。

 

 美しい植物は、その見頃を観ている分には心地良いのですが、年間を通して世話をするとなると私にとって現実的ではありません。

 事前予測をしながら生活を送る事は重要です。

 

 

 昨日の記事にて、トラブルは事後対応が9割物を言うと記載しましたが、私自身の認識の中にこの概念が根付いたきっかけを振り返ってみると、父親の影響が強かったのかもしれません。

 私の父は、「あの時こうしていればよかった」と云う発言は一切せず、何か危機的状況に陥っても、

 「これから修復できる項目からカバーする」

 「過ぎた事をあれこれシミュレーションしても仕方ない」

 と云う趣旨の発言を常にしていました。

 

 今思い出したのですが、4歳児の幼稚園の頃、私が七夕会の出し物の役決めのジャンケンに負けてやりたくない役に決まった時、私がやりたかった役に決まった人の事を羨ましいなどと言っていたら、

 「ジャンケンの結果は誰の責任でもない」

 「自分で選べなかったのだから落ち込む必要は無い」

 「『やりたくない役』は七夕会が終わったらやらなくても済むのだから、来年の七夕会で『やりたかった役』ができるかもしれない、と考えると良い」

 と父に言われた事が非常に印象的です。

 

 この時、今話題のモンスターペアレントのように、「うちの子がやりたい役にならなかったから落ち込んでいます。役を替えてください」などと幼稚園に苦情を言いに行く親でなくて良かったと今になって心底感謝しています。

 「ジャンケンに負けるのは悪い事でも何でもない、誰の責任でもない」

 この単純な事実を教えられたが故、自分がやりたくない役に決まっても惨めな想いを抱かずに済んだのだと思います。

 

 親によっては、行事などで、自分の子どもが華々しい役親の望む姿でなければ、子どもに向かって愚痴を言ったり先生に苦情を言って替えて貰ったりするよう誘導する場合もあるようですが、案外子どもはあまり気にしていないもので、振り回されているのは周囲の大人だけだという事がしばしば有ります。

 

 学芸会の主役などに関しても、平等くじ引きジャンケンで決めましょうと先生が指示した場合、集団の中の大抵の人は自分の好んでいない役割が割り当てられると思います。

 これは、人気のポジションとその定員との関係、需要供給との釣り合いの問題で致し方ないものです。

 幼少期から小学校時代、自分の好んでいない役割が割り当てられたら、拗ねて親に頼めば自分の希望が全て通ると云う「ゴネ得」のようなことがまかり通ってしまうと、親の発言力が無いコミュニティ内に於いては自分の要求を押し通す事が出来ず、ストレス耐性もほぼ育っていないため、思春期以降の友人関係が上手くいかなくなったり、大人になっても恋愛関係に於いて自分の希望の相手と交際できなければストーカー行為を繰り返すなど、問題行動を引き起こす一因となるのではないかと今になって考えます。

 

 人気のポジションとその定員や、需要供給との釣り合いで成立しているのがポジション獲得のための競争だと思います。

 日本で多くの人が若い頃に経験するであろう、受験就活人気のポジションとその定員との釣り合いが取れていないが故に起こる競争であり、倍率が1倍を超えた場合、必ず希望が通らない人が存在します。

 

 ジャンケンで決まる七夕会の役割とは異なり、その機関が定めた選抜基準があるとは言え、希望が通らない人は自分と向き合い、何とかして折り合いをつけていかなければならないと思います。

 幼稚園時代の七夕会の役決めの結果をトラブルと表現するのはやや過剰かもしれませんが、自分の意思に反して望まない役割が割り当てられた例として、トラブルは事後対応が9割物を言う例として、幼少期の場合、親のフォロー「事後対応」として挙げられるのではないかと今になって痛感しています。

 

 私自身、幼少期から小学校時代、ジャンケンで決まるなどの理由で自分の意思に反して望まない役割が割り当てられた例が多々有り、その度に、

 

 「運良く希望が通る人と通らない人がいるのは不公平」

 

 だとぼやいていたのですが、その度に、私の両親は、

 

 「運で決まる選択権の無い項目は諦めて、自分の意思で決められる項目について、確実に自分の希望を通すように目標を定めて行動する事」

 「義務教育とは違って、将来の進路・職業は自分で選べる。自分に選択権が有る項目では絶対に文句を言うな」

 「誰も強制せず、自分で決めた事には責任を持って絶対に他人のせいにするな」

 

 このような事を言っており、幼少期ジャンケンに負けて希望が通らなかった理不尽さを糧に、選択権が自分に与えられている分野に関しては絶対に後悔しないよう選択するよう心がけるようになったのだと思います。

 

 

 上記経緯により、自分に決定権が与えられていながら他責にする人の思考があまり理解できません。

 

 今振り返ってみると、幼稚園や小学校に於けるやや理不尽な物事に対しての両親の接し方がその後の思考に大きな影響を及ぼす気がしてなりません。

 

 

 

 【本日のピアノの練習について】

 

 ・バッハ インベンション第1番(暗譜済)

 ・バッハ インベンション第2番(暗譜済)

 ・バッハ インベンション第3番(暗譜済)

 ・バッハ インベンション第13番(暗譜済)

 ・バッハ インベンション第9番

 ・バッハ インベンション第4番 (暗譜済)

 ・バッハ インベンション第7番 (暗譜済)

 ・バッハ インベンション第8番 (暗譜済)

 ・バッハ インベンション第14番

  ・バッハ インベンション第12番(暗譜済) 

 ・バッハ シンフォニア第11番(暗譜済)

 ・バッハ シンフォニア第8番(運指思案中)

 ・ショパン エチュードOp.10-12(革命)(暗譜済)

  ・ショパン エチュードOp.10-5(黒鍵)

 ・ショパン エチュードOp.10-4(暗譜済)

 ・その他(スケール、アルペジオ、半音階、その他) 

 

 1曲1曲練習していて思うのですが、音楽は常に現在進行形で、過ぎた事を気にしていては「今のこの瞬間の音」に集中できません

 

 ピアノの練習に限らず、人が楽器の練習カラオケを趣味としやすいのは、物事を共有する特性だけではなく、過去に囚われたり過去を塗り換えたりする事無く、写真のように過去を保存する訳でもなく、未来へ向かって意識を集中させるからなのではないかと思う事が多いです。

 

 「あの時こうしていれば今はこうだっただろう」というような「たら」「れば」の細かいシミュレーション話に付き合う事に嫌悪感を抱いている私には、適性のある趣味なのかもしれません。