諸事情により、1週間ぶりの投稿となってしまいました。
可能な限り、毎日投稿する予定でしたが、体力的に厳しい日々が続いており、ブログをお休みせざるを得ない状態になってしまいました。
本日から心機一転、再開したいと思います。
添付画像は、以前植物園を訪れた際に観賞したメマツヨイグサです。
メマツヨイグサの花言葉の中に、「浴後の美人」「気まぐれ」というものがあり、遠目で見ると「気まぐれ」と云う言葉が相応しいように見えるのですが、間近で見ると、「浴後の美人」という言葉にも頷けます。
この咲き様、しおれているようにも浴後に本性を表わしているようにも受け取れ、受け取り方次第で解釈がかくも変わるのかと驚かされます。
先週から無花果が美味しい季節になり、私も購入して頂きました。
無花果は好き嫌いが分かれると言われているのですが、私は季節の果物はどれもお気に入りです。
昔、祖父母の家に無花果の木が植えてあり、幼少期は鈴なりの無花果を頻繁に目にしていたことが鮮やかに蘇ります。
【本日のピアノの練習について】
・ハノン 1~20番の中から5曲
・ベートーヴェン エリーゼのために
・バダジェフスカ 乙女の祈り
・バッハ インベンション第1番(暗譜済)
・バッハ インベンション第2番(暗譜済)
・バッハ インベンション第13番(暗譜済)
・バッハ インベンション第9番
・バッハ インベンション第4番 (暗譜済)
・バッハ インベンション第7番 (暗譜済)
・バッハ インベンション第8番 (暗譜済)
・バッハ シンフォニア第11番
・ショパン ノクターン第20番(遺作)
・ショパン エチュードOp.10-12(革命)(暗譜済)
・ショパン エチュードOp.10-4(暗譜済)
・その他(スケール、アルペジオ、その他)
本日は、ショパンエチュード Op.10-12(革命)及びOp.10-4の2曲に力を入れて練習しました。
この2曲に関しては、既習の曲で、ショパンエチュード Op.10-12(革命)については、現在再度習い直しています。
そこで、ピアノのレッスンを受けたり自宅で練習したりしている時、強く感じることですが、過去に習得したものを喪失してしまった感情が拭えないのです。
体感として、過去に習得していた所謂ピーク時と比較すると、現在、この2曲に関して言えば低水準にあると言えます。
この体感が事実であるとすれば、
「過去に築き上げてきたものを失った」
「大切なものを失った」
このような心境に至るのは当然のことでしょう。
ただ、私も当然ながら、人間、産まれてきた時にはこの2曲を習得している人など皆無なのです。
成長過程の中学生の頃や、大人になってピアノを再開してから、一時的に習得した「獲得形質」であり、一旦獲得した技術について、当時の絶好調な状態を基準値として自分自身の中に常に備わっている状態だと認識するが故、上述のような喪失感を抱く訳です。
見方を変えれば、このような喪失感を抱く事自体、非常に傲慢ではないかと思うことが多いです。
本質的に似通った代表的な例として、嘗て私が一番疑問を抱いていたことの中に、横領や性犯罪などの能動的且つ本人に犯行の意図が有る事象で、社会的地位が高い人が懲戒解雇されると、加害者について「全てを失った」などと記載されることが多い事が挙げられます。
何故、「そのような犯罪を犯す人間は最初からその地位に就くべきではなかったのだから当たり前の結果」ではなく、「せっかく築き上げた地位(や家族)を失った」という解釈になるのか、理解に苦しみます。
失うも何も、誰しも「初めからそのような地位は手に入れていなかった」のだから、「全てを失う」以前に「全てがまやかしで、やっと本来の姿に戻った」と表現するのが適切であると、この類の報道を耳にする度、毎回感じます。
この件については、予てより報道に対して相当な疑問を抱いていました。
同様の理由として、「離婚により配偶者を失った」「恋人と別れた」などということに対しても、「元の状態に戻った」と解釈せず、「配偶者や恋人は、最初から『いて当たり前』」だという傲慢な認識が垣間見え、私がこの種の悩みを聴きたくない理由の根源は、上述の件と関連しています。
「元々自分に相応しくない有形無形のものを無理矢理手に入れた結果、無理が生じて本来の姿に戻った」
この表現が適切で然るべきだと信じてやまないのですが、人間、自分に都合の良い状態が「普通の状態」で、都合の悪い状態は全て被害者扱いする風潮が蔓延っていると感じます。
私自身、ショパンエチュードOp.10-4の練習中、今年の冬よりも実力が落ちたと感じる事が多々有ります。
その際、
「過去に築き上げてきたものを失った」
このような感情が一瞬脳裏を過り、喪失感を抱き、その直後には、
「元々ピアノを再開してから初めて得た技術であるにもかかわらず、何故『自分はできて当たり前』だと傲慢な認識を持っているのだろうか」
と云う罪悪感に至るのです。
既習の曲を練習する際、常にこのような想いとの闘いが付き纏い、無垢な感情で物事を捉える事が非常に難しいのが現状です。
電気やガス、水道といったインフラが完備された日本に産まれたからこそ、「電気が点いて当たり前」、五体満足に産まれたからこそ、「手を動かしても痛くないのは当たり前」、このような認識が産まれるのであり、その「当たり前」だと捉えていることを維持するために、「当たり前」の努力を継続しなければならないことが「当たり前」であることを忘れつつあることが多いように思います。
ピアノの練習については、全くの初めて、0の状態ではないからこそ、意識を変えて取り組んでいかなければならないのですが、嘗て獲得したことと、喪失したこと、元から備わっていること、これらの環境要因や経験を利用し、良い方向へ持っていくのが今後の課題です。