昨今、「共感力」と云う言葉をよく耳にするようになりました。
「共感力」とは、相手の視点に立って、相手の考え方や感情を理解することができる力を指し、現在は対人関係に於いて求められる能力となっています。
ここで問題となるのは、共感する側と、共感してもらう側に二分される事です。
教師と生徒、親と子どものような関係性であれば問題無いでしょう。
しかし、18歳以上の同級生同士や、職場の同僚同士など、互いに自分の意思を持ち、本来対等な関係を築くべき関係性の中で、この共感する側と、共感してもらう側に二分してしまうと、共感する側に負担がのしかかり、不公平感を抱かせる原因となるのではないでしょうか。
人間、生活していると様々な困難に直面します。
そこで、自分一人だけで抱え込まず、周囲の人達に愚痴として吐き出す事で、聴いて貰うだけで気が楽になると云う事が往々にして有ります。
ここで言う「愚痴を聴いて貰う」とは、聴く側に、決して正論を振りかざさず、愚痴を吐く側の感情を肯定し、反論する事を赦さない事を求める事を指します。
要約すると、聴く側は、一切の自分の感情を押し殺し、本音を言えず、自分の時間と労力とを話をする側に全て注ぎ込む事が要求される訳です。
この時、聴く側の精神的・時間的負担や、「共感」する素振りを見せる苦痛について「共感」できる人は居るのでしょうか。
自分が窮地に陥った時だけに一方的に無償で聴く事を要求し、聴かなかったり反論したりすれば「共感力に乏しい人」として非難する風潮が世の中に蔓延っていると感じます。
これでは、好きなだけ自分の不平不満を他人に漏らす人が、聴き役の精神的・時間的財産を奪っているようにしか捉えられません。
互いに対等な関係性を築いている場合、どちらか一方が窮地に陥った時、このような聴き役に徹する事も有るでしょう。
その関係性が、持ちつ持たれつであれば問題無いと思います。
しかし、一方的に共感してもらう側ばかりで、自分は決して相手に共感する事は無いと云う不公平な関係性を強いる人が出現するのが問題です。
そのような人物と遭遇した場合、速やかに距離を置く事が望ましいのですが、話に付き合わなければ「共感力に乏しい人」と世間から見做される風潮が出来上がってしまっているように感じます。
「不平不満」「愚痴」の内容について、自然災害や本人の責によらない先天的疾患などであるならば仕方ない事も有ると思いますが、自分の選択した進路や配偶者について他人に無償で愚痴を吐いて共感を得ようとする前に、自らの人生設計について猛省し、有料でカウンセリングを受ける事を視野に入れるべきだと私は考えます。
プロのカウンセラーではない素人が、一方的に愚痴を聴き続け、自らの感情を押し殺し、「共感」する事を求められるのは、理不尽な事だと云うのが私の見解です。
素人が勤務時間外のプライベートの時間に於いて、人間としてその人固有の感情を抱くのは当然です。
素人が無償で一方的に相手の人生の選択ミスについて冗長な話を聴く事を強いられ、「それを選んだあなたが悪い」などと率直な感想を述べると「共感力に乏しい人」扱いされる、これは、「共感力」を大義名分として自由奔放に他人を拘束する人物に対する単なる甘やかし行為に過ぎないと私は考えます。
コロナ前、職場の飲み会を半強制的に開き、立場を利用して勤務時間外に延々トークショーを繰り広げ、周りを内心うんざりさせながら無理矢理「共感」させていたライオンのような人が、職場での利害関係による「お世辞」「社交辞令」を真に受け、職場での力関係が一切通用しない外部の人相手に同様の話を持ち掛けた時、想定していたような反応が得られず、「この人達は自分の話に感動しない。感性がおかしい」などと本気で思い込んでしまうケースも見られます。
周囲が気を遣って「共感」し続けた結果、40代半ばにもなって、自分の話に付き合って貰えていたのは職場の権力のお陰だと気付かず、利害関係の無い状態で、純粋に対等な関係性で会話をした事がほとんどない人を量産しているのが現状です。
・Give&Takeが出来ない人間は本来相手にされない事、
・一方的に自分の話だけを聴いて貰って「共感」してほしいのならば有料カウンセラーを利用すべき事
上記2点を世の中に広めていきたいです。
※本記事は2021年5月に記載しており、記事の投稿が遅れましたので、一定期間経過した後は記載した日付に移動予定です。
「共感力」「共感力」と謳って、無償で他人の不平不満や悩みを聴かなければ非情扱いされる風潮について、いつも感じるのですが、「私はこの人の不平不満を聴くのが苦痛で苦痛で仕方ないです」と言ったら、「共感力」の押し付けをしている方々は、私の「愚痴を聴かされる苦痛話」に付き合ってくださるのでしょうか。