本日は夏至です。
盛夏を目前とし、気分が高揚してきました。
帰宅したら世界のお茶の専門店ルピシアから「ルピシアだより」が届いており、台湾茶の特集が記載されていたので今から目を通すのが楽しみです。
今月のサンプルは、メルシー ミルフォワ(フレーバード紅茶)と香ばし黒豆麦茶でした。
未知のお茶のサンプルを自宅に居ながらにしてお試し出来るこの制度は本当に有難いです。
自宅に送付されるお便りや、web上の広告には、「美容に良い」「ダイエットに最適」などの謳い文句が散見されます。
自分の身体や脳が本能的に欲する物を抑制し、健康面や美容面を重視するあまりにストレスを抱えている方が多いように思います。
理想とする状態である為に、本能の赴くまま飲食物を摂取するのではなく、摂取時刻や摂取物を理性で以て調整する、これは、自分の体質を理解し、方向性を間違えなければ、健康面に於いて有効に働くと思いますが、自分の体質に抗ってこの類の調整を行うと、医学的異常をきたし、日常生活もままならなくなります。
その最たる例が摂食障害です。
また、胃腸が弱く、消化しきれない体質の人が焼肉などを自分の好きなだけ食べると、消化不良を起こし、肉体的な健康面に異常をきたします。
人間の三大欲求の一つである「食」について、自らの好みと体質、食事を摂取できる環境とが全て一致していればよいのですが、これらの調和が取れない場合、どこかに歪が生じます。
私は現在趣味として毎日ピアノに取り組んでいるのですが、この件をひしひしと痛感する事が多いです。
ショパンの英雄ポロネーズやベートーヴェンの月光第三楽章のような曲は、手を開いても8度しか届かない場合、和音の連打部分に苦しいものが有り、表現に余裕が無くなります。
それだけでなく、9度の和音が出現する場合、その時点で原曲から少し逸脱した奏法を考えねば物理的に不可能であり、無理をすると手を痛める事になります。
それでは、課題として与えらえた曲ではなく、あくまでも趣味で取り組んでいるピアノなのだから、発想を転換して8度の手で物理的に弾き易い曲を能動的に選び取ればよいではないか。
選曲が間違っているのではないか。
そのような思考に至るのが自然なものです。
趣味として独学でピアノに取り組む場合、選曲から自分で行うのが当然の流れです。
この選曲の理由は何に基づいているか。
私の場合は、自分が好きな曲を自由奔放に選んでいます。
そこで、その曲を弾ける自分になりたいと希求しているのか、その曲と自分が一体化したいのか。
前者と後者では全く思考が異なります。
前者は自分の在りたい概念の象徴で、曲を同化したい存在、共存したい存在として捉えていると思います。
後者は自分が手に入れたい概念の象徴で、曲に対する入れ込み方として、完全に自分とは分離した「対象」として本能的に捉えていると思います。
私は、後者の思考で以てピアノに魅せられているのです。
私が一切演奏動画を掲載しない理由の一つとして、この思考が自分の中に根付いているからです。
在りたい概念の象徴として他者へ披露する事はあれど、「対象」と結ばれるまでの過程を他者へ披露する事は通常あまり無いと思います。
曲との関係性は秘められているからこそ恍惚を感じる訳です。
上達への秘訣は、他者から与えられた曲を他者から教わって練習する事だというのは百も承知です。
しかし、趣味として楽しむ場合、拙くとも好きで楽しく思える自分自身の本能を優先したいのです。
そうすると、下記添付画像のような箇所で苦難を強いられる訳です。
英雄ポロネーズの例の箇所で、どう考えてもこれ以上8度超の部分を処理できないのではないか、と行き詰まる訳です。
赤枠で囲んだ音をどうするか。
青枠で囲んだ部分は右手を使って何とかなる(※他の箇所の右手の指使いの熟考の必要性有)のですが、残りの4箇所をどうすべきか、昨年からずっと考えています。
ベートーヴェンの月光第三楽章に於いて、下記添付画像の赤枠で囲んだような箇所も結構苦しい(曲の終盤という事情も有り…)のですが、不可能という訳ではありません。
最初の転調後の左手メロディー部分について私がよく言及していたのは、此処なら私でも改善の余地が有る、伸びしろを感じられる箇所だと判断したからです。
逆に言えば、もう此処以外は改善の余地が無いと判断したのかもしれません。
ピアノの場合、「食」とは異なり、私の生命体を維持する為に必要な行為ではないのですが、「食」と深く関連しているのではないかと考える事がしばしば有ります。
昨年2020年11月28日時点に於いて、私は自分自身の記事内に、
「自分の気があまり進まずとりあえず着た服が意外に似合っていた事や、自分が好き好んで選んだ服が実用性に欠けていてあまり着用する機会が無かったりするように、自分の好みと合う曲との関係は相性の問題も有るのだとつくづく痛感します。」
と記していますが、ファッションに例える記載をしたのは厳密に言えば誤りでした。
上述のその曲を弾ける自分になりたいと希求しているという前者の思考の場合、ファッションを例に挙げて話を進めると解りやすいと思います。
しかし、自分が手に入れたい概念の象徴としての後者の思考で以てピアノに取り組んでいる場合、あらゆる意味での人間の三大欲求の複合的要素に近いのではないでしょうか。
そもそも何故その選曲に至ったのか、突き詰めて考えると多種多様で、100人いれば100人とも全く異なる思考回路が有ると思います。
もっと言ってしまえば、私は、永遠に楽譜通りに弾けるようにならない曲を潜在的に選び取っているのかもしれません。
曲を「対象」として捉えて選んでいるうちは絶対に上達する事はない、この件も昨年から自覚していました。
趣味のピアノとは何なのか、何の為に取り組んでいるのか、考えれば考える程、不思議に思えてきます。