赤い薔薇が咲き誇る中、お伽話に出て来そうな建築物が建ち並ぶ箱根の「星の王子さまミュージアム」に赴いた時の事です。
フランスを意識した街並みとベルサイユ宮殿を想起させる庭園が印象的でした。
本物のベルサイユ宮殿よりも遥かに小規模ではあるものの、現地の雰囲気に通ずるものが感じられます。
「星の王子さま」の作者であるサン=テグジュペリ生誕100年を祝した世界的記念事業の一環として作られた世界で唯一のミュージアムだとのことです。
ディテールに拘ってデザインされている、乙女チックな空間で、クラシカルなイメージの箱根に存在するのが信じられない程の心惹かれる空間。
日本国内だけでも、私のお気に入りの空間が数多存在すると思うと、再訪を望む場所が際限なく次々と思い浮かびます。
【本日のピアノの練習について】
・ハノン 21~30番の中から5曲
・バッハ インベンション第4番 (暗譜済)
・バッハ インベンション第7番
・バッハ インベンション第8番 (暗譜済)
・バッハ インベンション第9番
・バッハ インベンション第1番
・ショパン ワルツ Op.64-2(嬰ハ短調)
・ショパン ノクターン第20番(遺作)
・ショパン 幻想即興曲 (暗譜済)
・ショパン エチュードOp.10-12(革命) (暗譜済)
・その他(スケール、アルペジオ、その他)
昨夜、ピアノの練習量や練習時間と到達度の相関について、シグモイド曲線のグラフを添付しましたが、このようなグラフについて漠然と考えている時がピアノの練習時よりも心から楽しい事に気付き、少し思う事が有ります。
数曲平行した時の上達の度合いを表すグラフなども頭の中に浮かぶのですが、自然に暗譜できなくなってしまったことや、音を覚えられなくなってしまったことと引き換えに、大量の専門知識を身に付けたのかもしれません。
丁度成長過程の時期に能動的に得たものを考慮すると、致し方ないのかもしれないと感じます。
昨日添付したfig.を再掲します。
※figはお借りしているので横軸が薬物の投与量になっていますが、横軸を練習時間や経過日数、縦軸を到達度と規定します。
赤線で加筆した曲線が大まかな私の到達度を表すと思うのですが、敢えて原点を通らずにt=0(練習着手と同時時刻)の時点で到達度が約0.15の数値を取る曲線にしたのは、意図が有ります。
「練習環境が整っており、且つ、練習しようとする意思があり、その曲を聴いた事が有る」、この時点で到達度は0ではないのです。
そして、昨日、
「最初から楽譜を全く見ず、全て聴音のみで1曲弾けるようになると、弾けるようになる事と暗譜出来る事とが両立すると思います。」
と、昨夜就寝前にとんでもない事を記載したと気付きました。
指使いが解らない状態でどのように聴音のみで1曲弾けるようになるのか、何故その点に気付く事が出来なかったのか、今となっては甚だ疑問です。
そもそも、バッハのインベンションを練習しようと思った理由の一つに、バッハ独特の指使いを習得する事が挙げられるので、その点が抜け落ちてしまった場合、取り組む目的が半減してしまいます。
二声への意識も有りますが、その点については本日は割愛。
暗譜について言及すると、昨日記載したように、バッハの二声のインベンションの場合、何度も両手で繰り返すのが最善策ではなかろうかと現段階では考えています。
暗譜に近道も抜け道も無し、今ではそう思います。
何度も繰り返して身体に沁み込ませる、最終的に帰着するのはこのような体育会系の方針であるのも私の性格が滲み出ているのかもしれません。
試行錯誤段階ではありますが、暗譜へのスタンスが固まってきたと思います。
最優先課題を暗譜と規定しておいて、矛盾する話ですが、楽譜を置いてチラチラ見ながらの方が綺麗に弾けるので、綺麗に弾ける為には暗譜する事が最大の近道だと判断した事そのものが誤りであったのかもしれません。
そもそも、ピアノに関して「中卒」の私が、30代になってやり直そうとする事自体、ブランク期間に得た「何か」を駆使して別のアプローチ方法で臨むのが賢明なのではないか、今ではそう思います。
よく音楽と数学とは或る共通点が有ると言われていますが、中学時代のピアノの先生から、定期試験中にレッスンに行った時、「数学で確実に余裕で満点を取るタイプ」だと言われたのを思い出しました。
あの聴音のレッスンからそのように感じられたのか、他の要素から看破されたのか解りませんが、私は昔から図を書いて物事を捉えていたのかもしれません。
大学生の頃、私は数学系の定期試験対策委員として模範解答や答案の書き方のテクニック徹底攻略プリントを作成する係(考えてみれば、学生が同級生の試験対策プリントを作成するのは滑稽な事ですが、過去問が有っても「解答」が無い状態で上の学年から情報が回ってきていたので、誰かが作成するしかなかった訳です。故に、全科目についてそれぞれの得意分野を考慮して同級生の皆で手分けして何とか作成していたのですが、「他人の作成した模範解答など信用出来ない」と言い切って持論を書き直して回す人が居たのも印象的です。今はこの伝統も廃れていっているのでしょうか…自分も受ける定期試験の対策プリントを作成できる人達(※その科目に関しては、定期試験の最低40日前までに満点取れる程に理解していなければこれは不可能な事です)が試験を受ける必要が有るのか、今思えば疑問です。「大学生とはそういうものだ」と当時は認識していたのですが…。故に、留年生が0の学年はチームワークと対策委員の質が良い期だと評価される訳です。皆、「留年生の少なさは対策プリント作成者達が有能である事のステータスシンボル」との認識で、わざわざ他人の試験対策をしていた気がします)だったのですが、自分の手書きの字が幼過ぎて笑いが込み上げてきます。
或る時を機に、大人の字に変貌する訳ですが…。
バッハのインベンションやショパンエチュードの攻略動画を視聴して、当時の事を思い出しました。
「徹底的な模倣」よりも、これまで歩んできた道のりで得たものを駆使する事の方が合理的なのかもしれません。
「いちばん大切なことは目に見えない」、星の王子さまの中の有名な言葉ですが、この件を痛感しています。