をはじめとした華やかな花が見頃を迎えている今、遠出に関しては控えざるを得ないので、過去に訪れた数々の景勝地の撮影データを見返しております。

 

 

 5年程前の京都醍醐寺弁天堂とその周囲のの風景です。

 観光客がよく利用する京都市交通局の市バスのルートからは外れる為、公共の交通手段で向かう場合、地下鉄や京阪バスを乗り継ぐ必要が有りましたが、赴くだけの価値は有ると思います。

 

 三宝院の大玄関前にどっしりと構えた枝垂桜「太閤しだれ桜」は圧巻でしたが、撮影禁止区域でしたので私も含め観客一同は悔やんでおりました。

 ダイナミックな咲き具合を目に焼き付けて帰路に就きました。
 
 醍醐寺上醍醐下醍醐に分かれており、全て歩いて観て回るだけでも1時間以上を要します。

 

 

 本日のピアノの練習について。

 ・ハノン 1~22番全曲

 ・ショパン ノクターン第20番(遺作)

 ・ベートーヴェン 悲愴 第1楽章

 ・ベートーヴェン 悲愴 第3楽章

 ・ショパン エチュードOp.10-12(革命)

 ・ショパン エチュードOp.10-4

  ・その他(ハノン スケール、31~38番、同音連打、45番、etc.)

 

 ショパンノクターンを弾いてみると、ピアノのレッスンを含め、過去に受けた教育の嫌な事ばかり思い出すので、暫く控える事にします。このようなゆったりとした曲を好まない理由の一つとして、物思いに耽ってしまい、結果的にネガティブな感情が渦巻くだけだと云う点が挙げられます。

 

 今年に入ってほぼ毎日感じていた事なのですが、

 私は、ピアノのレッスンも含め、仕事(「給料」「社会的な肩書」が発生し、責任を負う必要が有る性質の事柄)以外で、血縁関係者以外の他者から何かを教わり、それによって自分の「理解度が増した事」や「出来るようになった事」が過去に一度でも有るのだろうか

 この回答が「記憶に無い」と導き出された時、「先生」と呼ばれる指導者の方々から一体何を教わっていたのか、自分でも呆れ返りました。

 全部自学自習していた、もしくは最初から出来た事だけで、「先生」と呼ばれる指導者の方々はただ指示を出すだけ威圧するだけの存在であって、「この人(敢えて「先生」とは表記しません)の説明で解るようになった」と云う事はまず無かった事に気付いた時点で、何を習いに行っているのか、何の為のレッスンなのか解らないと、学校の授業等も含めピアノのレッスンの意義が見出せなくなりました

 

 何か指導者から発せられたメッセージの意図を汲み取れない私に非が有るのなら、私の理解度や到達度に合わせてレッスンを行うべきではないのか、それが成立していない時点で独学した方が余程実りが有る時間を過ごせると判断し、今年に入ってからは習う事については辞める方向性でピアノについて取り組んできました。

 基礎練習について、何をすればよいかお尋ねしても、回答が得られない

 即ち私は何をしても無意味だと言われていると解釈すればよいのか。

 もしこの解釈が正しいのだとしたら、習いに行っても上達する見込みが無い。

 何をすればよいのか、自分で考える事が課題であるのなら、もはや習う意味が無い。

 

 上記思考が根底に有り、ピアノを習う事自体辞めたのですが、小学校中学校高校の授業がまさにこのような状況で、教員がその科目自体の「指導」をしていた事がほぼ無く非常勤で雇用されていた教師だけが担当教科の「授業」を行っていたのを思い出しました。

 私自身がこのような教育環境で育った為、昨年の今頃、日本全国の義務教育が全て休校となった際、オンライン授業云々世間で話が出ているのを聞いて、学校とは、先生の監視が無い環境下で同級生と触れ合う為に存在する機関のだから、オンライン授業は無意味であると感じました。

 

 最近、各学校のパンフレットやHP上に、本来学校生活に於いて在校生全員が一番長い時間を過ごす教室での授業風景ではなく一年間のうち1~2日間しか開催されない文化祭体育祭にて一部の生徒のみが活躍している様子がその学校の「看板写真」として掲載されているのを見ると、皮肉な事に学校の本質が良く解るものです。

 校舎をはじめとした設備の写真ならばまだ理解出来ます。

 

 各学校のパンフレットやHPには、本来何をする目的で設立されている機関であるのか、一番外部に強くアピールしたい部分をトップページに掲載するのが通常の思考でしょうから、一年間のうち1~2日しか開催されない文化祭や体育祭に於いて、一部のお気に入りの生徒通常の学校生活では決して身に着ける事は無い見栄えの良い衣装を纏い、楽しそうに演技をしている様子をトップページに掲載している教育機関では、お気に入りでない生徒や普段の生活を軽視していると云う見方も出来ます。

 

 学校紹介の写真が10枚有る場合、その中に授業風景在校生のほぼ全員が写っている写真が1枚も無いとしたら、教育の目的は即ち「そう云う事」なのだと明確に可視化しているのだと思います。

 本来教室内にてクラス全員が着席して授業を受けている時間が一番長いはず全日制普通科の高等学校や、中学校に於いて、上述したような「ごく一部の生徒」の「非日常」の風景を「看板写真」として掲載されているのを目にする度、教育機関の本質が透けて見える気がします

 

 10枚の写真の中に写っていない事象については、「不要」もしくは「後回し」として教育機関から認識されている事を仄めかされているので、自分が求める事がTOP10に入っていない場合、その学校は合わないと判断した方が賢明だと思います

 また、学年に一人しか存在しない何らかの分野に於いて優秀な成績を修めた生徒の紹介ページについては、その学校の教育の成果であるのか、本人の資質に因るものであるのか、判断不能な事が多い為、あまり参考にならないと思います

 「初めから出来る人がたまたまその学校に入学してきただけ」の事象を掲載されている場合、その学校の教育力について疑問が残ります。

 

 

 私が受けていたピアノのレッスンについても同様なのではないか、と物事の本質に気付いた時、既にピアノを辞める手続きを始めていました。

 個人レッスンであるにもかかわらず、先生のお気に入りの他の優秀な生徒の話を何度もされるのは、つまり「そう云う事」なので、早く察知して辞める事を実行に移すべきだと悟りました。

 ピアノを習う事によって上達する事は無い、指導する気も無い、こう云う事です。

 

 一般論として、集団の中で「普通」である事を目指しており、且つ、「及第点ギリギリ」にギリギリ達していない、このポジションが一番指導者に目をかけて貰いやすく、且つ自分の向上が見込めるもので、既に「普通」に達している者や、どう頑張っても「及第点ギリギリ」が見込めない者集団に属して何かを身に着けようとするにあたって時間とお金の無駄だと判断してその機関についてはこちらから見切りを付ける潔さも必要だと思います。

 これは個人レッスンに於いて判断する事が困難ですが、この判断力こそが生きていく上で重要なのではないかと痛感します。

 人に好かれる努力をするより、疎まれている相手からは早く離れる、そもそも相手に近寄らない、義務教育を修了した後はこちらにシフトチェンジすべきだと思います。

 

 

 京都醍醐寺枝垂桜「太閤しだれ桜」の様子を撮影禁止と定められていたのは、醍醐寺に訪れた観光客がweb上にて醍醐寺内ごく一部の場所に限られ、且つごく一部の期間にしか観られない様子を投稿する事を阻止する意図もあると思います。

 視覚的に目立つもの入口付近に存在するものだけでなく、最低一時間以上費やして全体を鑑賞してこそ醍醐寺を鑑賞したと言えるのでしょう。