ここ1~2ヶ月、ショパンエチュードOp.10-4に手こずっております。

 最初の頃は、16分音符の所だけ抜粋して右手と左手を別々に片手ずつ練習したり、まずは革命で左手を鍛錬してからOp.10-4に臨んだり、メトロノームを用いてテンポが揺れないように確実性を求めたり、Op.10-1の最初の10小節を何度か繰り返して手を広げた後で10度以上のアルペジオを掴もうとしたり、同じ小節内で運指を何通りも考案して一番自分にしっくりくるものを採択したり、8月半ばからは漸く通してインテンポの2/3ぐらいの速度で「指が動く(「演奏」とは程遠い「作業」になっております)ようになり、自分の鳴らしている(「奏でている」とは決して呼べない「楽譜を機械的に再現した『つもり』」の「作業」だと弁えております)音を録音し、客観的に聴いて弱点を探り出し強化する事を翌日の課題にしたり、etc.ポリーニが涼しげな顔で何事も無かったかのように演奏しているこの曲と、まさに対峙しております。

 そこで、今月に入ってからは日々浮き彫りにされる弱点を強化しつつ、Op.10-4の効率的な練習法を思案しているのですが、そもそもOp.10-4と云う楽曲自体、ピアノ奏法に関する基礎力が全て如実に表れる練習曲であるが故に、最終的に到達した結論としては、各分野の基礎力を強化するしか術が無いと云う事でした。

 

 ショパンエチュードOp.10-4に着手したきっかけを振り返ると、この楽曲を演奏出来るようになる事自体が目標なのでは無く、ショパンの所謂大曲(バラードやスケルツォ)と呼ばれる作品の楽譜をさらってみた時、ショパンエチュードにてもっと基礎力を強化せねば話にならないと悟り、当面の目標をOp.10-4に真摯に取り組む事と定めた訳です。その「練習曲」のつもりで取り組んだOp.10-4にここまで難儀するとは…と、自分の基礎力の欠如に嘆きつつ、通し練習を始めた8月半ば頃からは、「楽曲を楽しむ」事よりも寧ろ、「技巧を攻略する」事に焦点を当て、あたかも城壁の中に存在する敵を倒すかのような「競争」に挑むスタンスで以てOp.10-4を捉えている自分に気付き、「ピアノの練習に『効率』を求める事」「芸術性を楽しむ事」との矛盾を覚えつつ有ります

 

 効率を追求する事自体が楽しいか否かと問われれば、間違いなく楽しいと回答出来ますが、そもそも、仕事でピアノが必要な方々を除いては、「ショパンエチュードOp.10-4を練習する事」自体が「効率の悪い時間の過ごし方」で、更に言ってしまえばピアノ演奏を楽しむ事自体が人生に於いてこの上なく効率の悪い事なのです。

 その「効率の悪い時間の過ごし方」をしている私が、「練習の効率」について考えているのですから滑稽な矛盾を感じる方も多いでしょう。

 

 ピアノは、日本人に課せられた三大義務のうちに含まれている訳でも無ければ、人間の三大欲求の中にも存在しないもので、単刀直入に言えば、業としてピアノ演奏をする機会の無いほとんどの人にとっては、ピアノは生きていく上で不要な事なのです。

 

 しかし、そのような人生に於ける無駄を全て省いた生き方は、素っ気なく、魅力を感じません。私は、仕事や睡眠、家事と云った時間の過ごし方は、「人生に必要不可欠な時間」であり「高等動物としての活きた時間」では無いと捉えています。それに取り組むに当たり何の打算も無く、誰から強制された訳でも無く、その事を世間が必要としている訳でもなく、完全に自分の意思のみで過ごしている状態こそが「活きた時間」だと捉えております。

 そして、上達の為にはやはり効率を日々考えていかねばなりません。技巧の攻略、運指の無駄を省きインテンポに限りなく近付けていく工程こそが高等動物としての「作品」への取り組み方で、初見ですぐに完成しないからこそ魅力のある曲なのだと私は考えます。

 故に、私は、明日からもOp.10-4に翻弄されない程度に励みたいと思います。

 

 興味深い言葉を一つ。

 ドイツの作家であるミヒャエル・エンデ「愛読者への四十四の問いかけ」の中に、

「芸術は省略にあるとすれば、最高の芸術は何もしないことではないでしょうか?」

 と云った問いが読者へ向けて記されております。