今、約2週間ぶりにPCを起動しております。

 軽い胃腸炎をぶり返していて困ります。

 いつ頃からこのような吐き気や生きた心地の無さが続いているか、思い起こせばそれは今の居住地に引っ越してきたその日からでした。その前からも1週間に1回は吐き気に悩まされておりましたが、慢性的な吐き気と食欲不振に関しては、やはりその頃からです。

 今思えば適応障害の症状であったのかもしれません。私は、小学校を複数回転校していますが、卒業した学校に関しては生理的嫌悪感を抱いており、20歳頃まで、引っ越す事無く入学した学校を卒業出来ていたらどれだけ良い事かと思いを馳せておりました。特にクラスメイトが厭だったとかそう云う思いは無く、寧ろ一緒に学校に行こうと誘いに毎日毎日家まで迎えに来てくれる友人も居たのですが、校内では体調不良に陥っていました。

 

 そこで、何故そんなにその小学校が厭だったのか、原因追究してみると、

 「担任教師と相性が悪かった」

 この一言に尽きます。

 

 転校先のクラスメイトのバックグラウンドを把握しておらず、私の反抗期にさしかかった時期と云う事も拍車をかけ、教師と毎日のようにトラブルを起こしていた気がします。

 

 今でも忘れられないのが、体調不良で座り込んでいたクラスメイトに対して、他のクラスメイト達が駆け寄って「大丈夫?」等と声をかけていた中、私は遠くから見守っていました。その出来事について、教師から「あなたは思いやりがない、人の気持ちを分かるようになって」と云う趣旨の言葉を投げかけられた事です。

 この件については、教師宛に手紙を書いて、何故私がそう云った行動を取ったのか弁明しました。

 

 まず、体調不良の中、多数のクラスメイト達から囲まれて声をかけられると、一人一人に返答する労力が本人にかかり、私が加わる事によって、その人はまた返答回数が増える事になります。余計な負荷をかけないよう、最低限の人員が周りに居る事を確認した上で、私は「隣に付くポジション」から外れる選択をとったのです。

 次に、特に医療技術や知識も持たない子どもが「大丈夫?」等と声をかけるだけで回復するのなら医療行為は必要有りませんし、どうも精神的な問題でも無いようでしたので、大人や救急車等を呼ぶ必要が有れば、本人から物理的に離れた位置且つ出口に近い位置に居た方が効率が良いと判断したのです。これは、本人の「隣に付くポジション」の人達から要請が有れば、走って「頼れる大人」を呼びに行くポジションを自覚していたが故の行動です。

 更に、「相手の立場に立って」何をしてほしいか考えると、私の体調不良時、複数名がべったり周りに付いて話しかけられるのは非常に迷惑でしたし、体調不良時はそっと放っておいてくれて、且つ30秒間に1回ぐらいは異変が無いか遠目で確認してほしいと云うのが本音でした。わざわざ「○○してあげようか?」等と言われると、してほしく無い事であっても断るのに労力が要りますし、有難迷惑に当たる行為は避けたかったのです。故に、私がしてほしい事をそのまま行った結果がこの行動です。

 それ故、私なりの思いやりを示した行動であり、他人の気持ちが解る等と云う概念は傲慢そのものである、その証拠として、私のとった行動について私の思考回路を全く先生は理解していないではないか。と云った反論文も加えました。

 

 以上のような内容を小5の時、ノート5頁にわたって記載し、教師からのコメントが数ページにわたって書かれており、「それなら何故その行動をとった理由をその時に言わないの?言わないと分からない」等と返答があったので、私は「体調不良の時に周りでギャーギャー騒がれたら余計体調が悪化すると判断した」との旨、返答。

 結果、本件有耶無耶にされて終わりましたが、この件以外にもこの担任教師との対戦は枚挙にいとまがなく、別室に呼び出されて午前中の時間ずっと1対1で話し合いをさせられた事も珍しくありません。

 

 全体的にまとめると、ほとんどの事案が「貴女は協調性が無い。もっと言ってしまえば共感力が無い」との趣旨で1対1での話し合いが行われていた訳で、「相手の立場に立って物事を考えようとする時、相手と自分は異なると云う発想を持たなければならない。しかし、相手の体質や言い辛い要求等を察して『相手の気持ちを解った』等と結論を出すのは傲慢だと思う」と私は常に主張しており、マニュアル通りの行動が良しとされる90年代の教育とは相性がよろしくなかったようなのです。

 当時、どのような行動を取れば教師に受け容れられるか把握はしておりましたが、教師に忖度しようとは毛頭思わず、大好きだった転校前の幾つかの小学校を去らなければならなかった身として、或る意味諦めの境地に達していた私は、もう周りのご機嫌取りはやってられないと思っていました。

 今でも、「もう少し相手の事を思いやって~」「相手の立場に立って~」等と云う発言については、「他人の事を解ると云う事自体が傲慢な行為であるのに、それを他人に推奨し、且つその行為を行わない者を批判的な見方をするのは望ましくない」と思ってしまいます。

 

 小学校時代から感じていた事ですが、他人の立場への共感や理解をするのに近付く為には、対象となる人の趣味嗜好から生い立ち、持病、家族構成等を把握する必要が有り、大人になった時に血縁関係や配偶者以外にこれらを曝け出す事は極めて困難で、結論として「私はと貴方は異なる人間だから厳密には解らないけど」と云う前置き無しには「この人はこうしてほしいであろう」と推測する事自体、その人への冒涜行為に値するとさえ思います。

 小学校時代にこの引越しをしたからこそ、必然的に対象人物のバックグラウンド情報が周りの皆に比べて少ない状況と云うハンデを負ったが故に自然に導き出された概念なのですが、この概念について共感して貰えることは稀なのが事実です。

 

 現代、「共感力を育む」等と謳われておりますが、「共感出来た」と云う誤解を産んだり、体質(感受性と抵抗性)がマイノリティである者が人格否定される社会にならない事を願ってやみません。