苦手な寒さが訪れて、記憶が曖昧になりました。いつものPCが復活する事を祈ります。主語のない文章だけで構成された記事にしようと思ったのですが、方針を変更します。先程、自分の事を名前で呼ぶ女性について言及した記事が目に留まりました。そこには、想定した事が書かれていませんでした。年の近い姉妹が居る場合、彼女らの親が、姉妹のどちらから発せられた言葉であるか判断する為、中学生以降の年齢であっても、自分の事を名前で呼ばざるを得ない場面が多いようです。それは、彼女らが生きる為の術であり、同性のきょうだいが居ない環境で育った者には決して解らない事だと思います。以前、彼女らが大学生になっても尚、自分の事を名前で呼び続けていたので、何故そのような一人称を使うのか、尋ねてみた事が有ります。非常に興味深い回答ばかりで、どれも共通点として、前述の事が挙げられました。姉妹間で親に自己アピールし続けなければならない過酷な環境で生きてきた結果であるとも捉えられました。web上では、自分の事を名前で呼ぶ女性について、この件は全く触れられておらず、編集部は何故掲載に関して及第点を与えたのか、疑問に思いました。忖度にも程が有ります。もしかしたら、執筆者を含め、編集部に属する者の中に、誰も「当事者」が存在しなかった為、この重要な事実に誰一人気付かずに編集してしまった結果であるかもしれない可能性も有ります。様々な環境を経験した人と関わらなければ、大多数が納得出来る記事を完成させる事は難しいと思います。大半の人にとって違和感の有る話し方をする人物には、何かしら理由が有る事は、誰にでも容易に想定出来る事でしょう。今回目にした記事上では、話し手に秘められた理由を追求する事が目的なのでは無く、聞き手の純粋なる直感がテーマとなっているようなので、よく考えてみれば、忖度でも何でもないのです。自分の予想した回答が掲載されていないからといって、悪意を持って読み取るのはよろしくない癖です。もっと単純に、事実を事実として認識するに留めれば、発展性も無ければ、余計な事に敵意を抱く事も無かったでしょう。どちらが良いのか、白黒つけたがる性格は、日常生活には不向きです。生への適性が欠けているとも解釈出来ます。

 意識しながら自分の一人称を使わずに文章を書く事は、難しいです。今日は9月9日なので、990文字で構成します。