歌合は左右ふたつの歌を番わせるものだったのが、
次第に優劣を競うようになり、「勝」とか「持(じ:引き分け)」と判定されるようになりました。
たとえば、「六百番歌合」で
左 勝 女房
蓬生の末葉の露の消えかへりなをこの世にと待たん物かは
右 家隆
頼めとや頼めし宵の更くるこそかつがつ変る心なりけれ
左右互いに事宜しき之由申す
判云、両首共に姿詞は優に侍にとりて、左「蓬生の末葉の露」宜しく聞ゆ。左の勝なるべし。
という風になっています。
歌合ではありませんが、先日も言及した山下道代著『古今集の恋の歌』で二つの歌を痛烈な言葉で比べているのを歌合風にご紹介すると。
左 勝 よみ人しらず(古今集)
身を憂しと思ふに消えぬものなればかくても経ぬる世にこそありけれ
右 殷富門院大輔(新古今集)
忘れなば生けらむものかと思ひしにそれもかなはぬこの世なりけり
判云:観照の深さにおいて、また姿ことばの美しさにおいて、両者の懸隔は無惨なまでに大きい。「身を憂しと思ふに消えぬものなれば」と並ぶとき、「忘れなば生けらむものかと思ひしに」は、あまりに粗い。また、「かくても経ぬる世にこそありけれ」の前では、「それもかなはぬこの世なりけり」は、あまりに俗すぎる。
いかがでしょうか?
たしかに左の歌の方がすぐれているとは思いますが、右の歌が「あまりに粗く、あまりに俗すぎる」とまではわかりません。
ここまで断言できるのは山下道代が優れた和歌の読み手だからでしょう。
他の歌についての読解もその読みの深さにうならされることしばしばです。
古典の和歌がお好きならば断然お勧めしたい本です。
ちなみに、二つの歌を比較したのは契沖が二つの歌が同じ心だといっていることをうけてのことです。