その昔、大学院時代、ちょっと変わった先輩が居て、「誰某教授の○○理論を斬る!」と、ちょっとアレな方向性を醸し出して居らっしゃいました
僕は宗教の存在を否定しません
卵が先か鶏が先か……
人には「未知なものに対する恐怖」という本能的なものがあって、その「鵺」的な「捉え様のない存在や概念」に対して、その恐怖心を払拭する為に(形而上学的、観念的な)何等かの存在や概念を作り上げて来ました
火の玉、幽霊もそうだと言えますし、天変地異に対する恐怖或いは畏怖に対する神という考え方もそうなのでしょう
ですが神は人を想像した、そういうのもある訳で、正直それはどちらが正しいかをここで議論し、答えを出そうとは思って居ません
それ自体が無理だし、可能だとしても不毛であってここでそれを議論したい訳でもないので……
7/8、祖母の命日となりました
病院から連絡があって、誰も臨終に間に合わなかった時、病院から一時的に帰ってとても長い間交流して下さって居らっしゃるお方のお誕生日でもあるので、自分の気持ちやそれを伝える方の気持ちを考えるとやっぱり気持ち的には複雑でしたが、おめでとうございますと伝え、同時に祖母の逝去を伝えました
母は三姉妹であり、男兄弟が居ません
母は長女で、僕は双子ですが兄であり、弟が祖母の家に養子に入って祖母の家を継ぐこととなって居ました
その養子縁組は弟が社会人になる前です
双子という、顔もそっくりで同じ年月日に生まれたのに、名字が違い、弟と母は親子でありながら養子縁組上は姉弟です
こういう背景から、弟が当然喪主になる訳ですが、弟は転勤族ですので、すぐには来れません
これても、その日の夕方です
祖母は朝、他界しました
結婚式と違い、長いスパンで、そう、来年の何月何日に結婚式と披露宴を行いますという感じにはゆかず、亡くなって、通夜があり、葬儀場が一杯だったり友引などでない限り、その日の内に通夜となります
枕経を終え、悲しみや持って行き場のない色々な感情でみんながナーバスになり、余裕がなかったり感情的になって居る中、淡々と交渉を進めなくてはならない葬儀屋さんとの交渉で、一人感情を押し殺しながらこちらも淡々と交渉を進めました
この日記の冒頭に、「○○を斬る!」という前フリをしたのは、別に斬るつもりなんて皆無ですが、心の中で疑問というか、きちんと心に沁み入って来ない感情があったからです
それは、戒名でした
枕経の時、お寺さんは一生懸命読経をされます
厳かな雰囲気の中、故人となった祖母が旅立つに際し、少なくとも祖母も僕達も心健やかにそれを迎えたく、お唱えになるお経を静かに、それで居ながら噛み締めて聞き、祖母を想って居ました
枕経が終わった後、戒名の話になります
菩提寺とは長い付き合いでしたので、お寺さんも良い意味で回りくどい言い方はされなかったのでしょう
「長いお付き合いなので、良い意味で単刀直入に話しますが、戒名は○○万円です」というお言葉でした
まぁ、数十万円です
具体的な値段は書きませんが、かなり高額でした
枕経という厳かな(少なくとも僕にとっては)雰囲気から一転、いきなりビジネスの話になるのです
仏教でも何教か、宗派は何か、にもよりますが、母方の菩提寺は戒名に9文字つきました
ですが実際の所戒名というのは、
AA院BBCCDD
で、AAは院号、BBは道号、CCが戒名で、DDが位号です
位号は、居士や大姉で大体固定です
院号とは、全国各地に良く~~院・~~庵と付く名前の由緒ある建造物がある様に、昔は仏門で大きな貢献をした人、大名など地位の高かった人の寄付等、それに対する例というか、ステータスの様なものでした
それを一般庶民が求める様になり、そこに市場原理が働いた訳です
ある宗派では、お釈迦様のお弟子ということで、釈~~と3文字程度で済んだりもします
また、先代で良い戒名を付けておかないと、末代で先代より良い戒名を付けると失礼だからと最初から高い戒名へのお金を払い、でも末代でもそれと同列の戒名を付けて高額なお金を請求されたりします
故人は、
・すぐに仏様となる→49日という概念がない
・この世でもなくあの世でもない所で修業をし、49日間修業をして仏様になる
という考えがあり、母の菩提寺は後者でした
初七日から始まり、二七日・三七日・四七日・五七日・六七日・そして満中陰(四十九日)、ずっとその法要に赴きました
話しは戻って通夜の日、通夜の受付から翌日の本葬の受付と本葬参列、出棺、僕の心の中は、それこそ捉え様のないものでした
今迄日記に沢山か居て来ましたが、祖母とは最低でも年に二回は盛大な温泉旅行をし、昨年の秋も一緒に楽しんだものです
お年寄りだから目が覚めるのが早く、僕自身お酒を飲んでるし朝風呂に入りたいので目が早く覚め、祖母と一緒に沢山話しました
同じく日記に良く書いて居ましたが、網膜剥離の関係で祖母を病院へ送り迎えして居ました
一つ一つの出来事が、たったひとつでさえ語り尽くせないのに、少なくとも温泉旅行は昨年晩秋にやったばかりです
命日は7/8ですが、そのきっかけとなったのは311であり、殆ど日数が立って居ません
今でも生きて居る様な気がするし、僕の中でとても大きな存在だった為、悲しみも当然ありますがそれ以上に心の空洞が大きく、出棺の時は大泣きしてしまいましたが、それ以外はこの空洞を埋めるものがなく、僕の心自体が彷徨って居ました
当然、それは僕の問題で、僕の心の中で解決というか、埋めていくものです
勿論、そこには親族とか色々な人との関わり合いもあるでしょう
……ですが、何度お経を聞いても、何度説法を聞いても、これだけは僕の心を満たしてくれないのです
今日が四十九日である関係上、初盆は来年ですが、失礼ながら、各七日法要以外にお寺様とお話ししたことはなく、当然僕は母方の菩提寺ではなく父が他の菩提寺ですから祖母が生前祖父のお墓参りをして居ても、余りお寺様とお話ししたことがありません
これまでの間、余程、多くの友人や先輩方とお話をした方が心の空洞が少しでも埋まるのです
枕経からこの四十九日法要までの「仏教的儀式」としてのお金なら分かります
ですがそれは別にお支払いしており、またそれぞれの七日法要の時も包みました
初盆は来年だと書きましたが、檀家さんが多いのでということでお盆時期の七日法要は、祖父のお盆の法要も含めて、本当に短い時間でした
墓地は買うのではありません
何十万も払ってその土地にお墓をたて、毎年使用料を払います
改めて、宗教ってなんだろうと考えました
キリスト教を代表とする宗教の様に、日頃ミサがある訳でもありません
仏事の際にしかお会いしません
戒名は、「指導料」という名目でお寺は徴収します
何か指導を受けたのでしょうか?
最近は、戒名を作れるソフトがあります
有料でも二万、ネットでは無料で、しかもWebサービスとしてその場で使える無料のものもあります
お寺様がそれを使って居るとは思いませんが、使っていようといまいと、翌日の本葬までには戒名を付けなければならないのでどう考えても日給何十万円です
こんな話ってありますか?
世の中にはコンサルティングという職業があります
確かに滅茶苦茶高いコンサルティング料もありますが、その是非は別として、そういったものは、必ずそれによって「開ける未来や選択肢」がもたらされます
でも、現実問題として、僕には、一連の法要によってそれがなかった……
無論、人間には儀式が必要です
卒業式だって、本当は教室で卒業証書を渡せば良いだけです
でもそれを儀式として行うことによって、心に刻まれます
そういう意味で、法要自体は僕の心の中で、一つ一つの通過点として意味がありましたし、今後何回忌という形で、祖母が親族を集わせてくれ、そこで祖母を偲び、また色々な人との絆も深まるでしょう
ただ、戒名自体にそこまでのお金が必要なのか?
元々戒名とは、生きて居る人が授戒して仏門に入る時に名づけられる名前でした
それが今は亡くなった後に付けられる
人は自分の意思に関係なく生まれ、自分の意思に反して死ぬ
人は自分の知らない所で名前を与えられ、死して尚、知らない所で名前を与えられる
親につけて貰った名前は余程のことがない限り親の愛情が入って居ます
当然、お寺様もお気持ちを込められるでしょう
でも親は我が子に名前を付ける時にお金を考えませんし、出生届で「名前を付けた」というそれだけで高額なお金が必要になる訳でもありません
また、戒名を付けない、若しくは自分で付ける(生前戒名)ということになれば、その後菩提寺とのギクシャクした関係が自然醸成されます
「高額な戒名料を要求されたり、その額によって戒名に区別が付けられたりする事例があり、仏教界の内部からも批判が出ている」中で、何故、世俗を離れた、俗物とは無縁の方々が自らこの問題を解消出来ないのでしょうか?
何故自浄作用が働かないのでしょうか?
院号は本来、寺院の建造物を奉納した者や公益活動が厚い者に対して、菩提寺等から一種の敬意の表れとして贈られる号であったのに、既述の通り、戦後、そこまでの貢献をしていない人物に対しても、本人若しくはその遺族からの依頼により、院号や院殿号を望む者が増え、それで院号を望む場合は、相応する布施行をした者に対し付ける号となりました
ですがそれを求めなければ、つまり院号要らないと言えば高額にはならない筈です
一方的に値段が出されます
怖いのは、これは何事にも言えるのですが、一般化した概念(宗教や文化とか何でも良いです)が固定化し過ぎた場合、それに対して(拒否反応や「おかしいな」と思っても)「従わざるを得ない」関係が作られることです
本来は生前に授戒して戒名が授けられ、その人の布施行により寺や院が建てられ、その故人の戒名を採って寺や院の名が付けられるという順序であっのに、今は逆
院号は本来、大寺における塔頭の「○○院」等と付くものであったのに、金銭によって「院号」を購う者が増えたこと、それにより戒名を付けてしまった先代の各住持などの判断が、「戒名料」という風習を生むに至ったことを、そしてそれが為にお寺の増改築等をしてその維持の為にその風習が続いて居ることを看過してはいけない様な気がします
結果的に「戒名料」(指導料)の額によって戒名の文字数が増えるという「戒名の相場」という概念が出来上がり、戒名が宗教ビジネスの一環になるという問題が起こって居る現状、ここに少なくとも僕は心の安息を感じることが出来ないのです
ならば、菩提寺との関わりを立ち、公営墓地などで埋葬して貰ったり(許可をきちんと取って)遺骨を山や海に帰してあげることの方が、自分の為にも子孫の為にも良いのではないかと思うのです
少なくとも、宗教法人という名の下、学校が出来たり、そういった所が資産運用で投資をしたり、……それらは世俗そのものじゃないかと
現に僕と同意見の人は実際に居て、そういう方々が増えて居る為、廃寺になった事例も聞きます
祖母が敬虔な仏教徒だったとしたら、僕はそれに背いて居ることになります
でも祖母は生前良く言って居ました
「浮世は飽きた」、と……
幸い祖母は小さい頃、大昔の足踏み式のミシンで腕を酷使した関係上、そこだけ手術経験がありそれ以降は網膜剥離の手術を80代で受けるまで、内蔵系の病気になったり手術を受けたりしたことがありません
そしてその上で祖母は人のお世話になることを恥じる面もありました
僕なんかいくらでも甘えてくれれば良いのに……
大病経験があった訳ではなく、苦労はあったでしょうけれど幸せに生きて来れた、そして足腰が悪く人の手を借りなければなにも出来なくなった自分に良い意味でもう良いよと自分にいつも言って居たのでしょう
311以降、そんな祖母を前に、
「お婆ちゃん、もう浮世は飽きた?」
「お爺ちゃんの所に会いに行く?」
「でも僕はまだこっちに居て欲しいな」
そう何度も話し掛けました
当然、容体が容体だけにその答えを知ることは出来ませんでした
今日、四十九日を終え、納骨を終えました
御仏になって、祖父と楽しくやって居るでしょう……
ただ、僕の中には、この埋められない心の空洞と、今回の件で知った、生きるにも死ぬにも世知辛い現代社会に対しての煮え切らない気持ちが、よりその空洞が埋まるのを遠ざけて居ます
でもそれは僕の問題です
お婆ちゃん、お爺ちゃんといつまでも仲良く、そして安らかにお過ごし下さい
この日記は、この戒名の疑問があったことが事実だとしても、四十九日を過ぎるまで待って、その時に自分の気持ちに正直に書くつもりで、ずっと日記は他の話題も含めて書かないつもりでした
そして今日、四十九日
まだ、この疑問は消えません
心の空洞が埋まる様に、何らかの形でこの感情も消化されることを、僕自身願って居ます