このところゆっくりとですが読書もしています。
とはいえ、購入する余裕はないのでもっぱら図書館で借りたものなのですが。
で、私の図書館嫌いを知っている方もいると思うのですけど、本気で読みたいものは借りれません。
返却期限が迫るとなんとなく焦燥感が先に立って作品に没頭できないので
比較的どうでもいい(というと語弊がありますが)読みきれなくてもあきらめのつくものを選んで
借りてきています。
したがって、小説は読み切る自信がないので
(精神的に終われながら読みたくないので(^^;)
読むのは自叙伝やルポ、記録的なものや学術的なものに偏ってます。
で、今回はこんな本を。
橋の上の「殺意」 <畠山鈴香はどう裁かれたか> (講談社文庫)/講談社
¥853
Amazon.co.jp
ぼちぼち記憶が薄れかけているかもしれない
秋田連続児童殺害事件。
この事件の加害者・畠山鈴香の公判記録および事件の全貌(には至らないが報道されていない部分)についてかなり詳しく書かれた記録書です。
この本を読む前にもう一冊、秋田連続児童殺害事件の公判記録を綴った書を読みました。
その時に畠山鈴香(以下鈴香とさせていただきます)の犯行動機にとても強烈な違和感を感じたんです。
というか判決に述べられている内容に不自然な感覚が溜まってしまったのですね。
それで、なんとなくもう一冊手に取ってしまったのです。
もともとこの事件は起きた当初から私の中で何か引っかかるものがありました。
鈴香に対するシンパシーのようなものでしょうか。
はっきりしないながらも、犯行動機が子育ての中でのストレス、自分の自由を求めた末の犯行、といった風に理解していたんです。
子育てをする身であれば、逃げ出したいときも多くあり、
発作的に手をかけてしまった犯行は許されるべきものではないけれど、簡単に「ひどい奴だ!」と責める気にならない
そんな風に感じていたと思います。
ただ、
2軒となりの男の子の殺害に関してはどうしても首をひねらざるを得ませんでした。
鈴香の生い立ちなどを報道するニュースに辟易してあえて目をそらしていた部分もあったと思いますが
本を読むと、マスコミ報道だけから得た私の知っている事件像とはまったく別物の、フォーカスすべきポイントが違う事件でした。
まず、そこに驚きました。
鈴香の人間像に関してもまったく違っていて
直情的で乱暴で図太い神経の持ち主みたいなイメージを抱いてましたけど、まったく違ってました。
もちろん、実際の鈴香がどんな人なのかは私にはわかりません。
だけど、本から伝わる鈴香の人間像は、常に何かの恐怖に怯え、おどおどしていて、思ったことをすぐに後先考えずに口走ってしまう、裏表のない人間なのです。
そうすると、事件解明がますます混乱してくるのですが
ここがとても巧妙に書かれていて
ちゃんと紐解けるように構成されてたと思います。
そして、首をひねるような部分に対して
ストンと腑に落ちる仮説を立ててくれています。
そしておそらくそれが事実なのだろうと。
この事件の裁判は物的証拠なしに証言だけで裁いています。
その論告内容ははっきり言ってめちゃくちゃです。
素人が聞いても
それはおかしいんじゃ?
と思うものでした。
鈴香は精神的に追い詰められていた状態であり、問題の日の川へ出かけた時はしんどくて眠たくてぼんやりした状態だったといいます。
そこへ彩香ちゃんが川に転落(したのかどうかも定かではない)というショッキングな出来事を瞬時に記憶の外に追いやってしまったのです。
その彩香ちゃん転落時のことを健忘している事実は複数の精神科医が認めているのですが
検察も裁判所も取り合わず、判決が下されたということです。
本当は覚えているのに忘れたフリをしているのだろう
ということかもしれませんが
じゃあ
「殺意」を持って故意に転落させた
ということはどう証明されたのでしょうか。
また近所の子を殺害した動機を
彩香ちゃん殺害発覚を恐れたため、反社会的行動の意図で
とする論拠がまったく不可解なのです。
ひとつひとつの事件を掘り下げて理解するのは不可能に近いことですが
マスコミで報道されているものとは違った事件像が存在することは事実なのだと思いました。
現に知らなければ、鈴香が彩香ちゃんを手にかけた と信じ込んでいたままでした。
過失はあったかもしれないけど、発作的にでも手にかけたというのは違う
今はそう思います。
近所の男の子の方は、第一審で言われていた
見た瞬間に
数日前までその子と一緒に遊んでいたわが子がいない
(例えば、合格間違いなしと言われていた学校の受験を失敗して近所の子がその学校の制服を着て入学式を迎えた姿を見るとか
スポーツができるのが自慢だった子が事故で足を切断したのに、近所の子は今までと同じように走り回る姿を見る
といった時の感情のような)
そんな思いで切なくなって
発作的に
首を絞めている間に我に帰ることがなく
その間は殺人鬼になっていた
というのが正しいのではないかと・・・。
蒲田慧さんのルポの構成と着眼点、文章において全てが読みやすく惹きつけるものがありました。
犯行の動機も複雑化しているのが事実で
人を殺したら許されるべきではない=極刑が当然 とか
精神鑑定は刑を軽くするための道具 とか
一般の人の想像の域を出たものに関して排斥する形ではなく
もっとちゃんと事件を理解する方が大事なのではないのかな
と思いました。
とはいえ、購入する余裕はないのでもっぱら図書館で借りたものなのですが。
で、私の図書館嫌いを知っている方もいると思うのですけど、本気で読みたいものは借りれません。
返却期限が迫るとなんとなく焦燥感が先に立って作品に没頭できないので
比較的どうでもいい(というと語弊がありますが)読みきれなくてもあきらめのつくものを選んで
借りてきています。
したがって、小説は読み切る自信がないので
(精神的に終われながら読みたくないので(^^;)
読むのは自叙伝やルポ、記録的なものや学術的なものに偏ってます。
で、今回はこんな本を。
橋の上の「殺意」 <畠山鈴香はどう裁かれたか> (講談社文庫)/講談社
¥853
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ぼちぼち記憶が薄れかけているかもしれない
秋田連続児童殺害事件。
この事件の加害者・畠山鈴香の公判記録および事件の全貌(には至らないが報道されていない部分)についてかなり詳しく書かれた記録書です。
この本を読む前にもう一冊、秋田連続児童殺害事件の公判記録を綴った書を読みました。
その時に畠山鈴香(以下鈴香とさせていただきます)の犯行動機にとても強烈な違和感を感じたんです。
というか判決に述べられている内容に不自然な感覚が溜まってしまったのですね。
それで、なんとなくもう一冊手に取ってしまったのです。
もともとこの事件は起きた当初から私の中で何か引っかかるものがありました。
鈴香に対するシンパシーのようなものでしょうか。
はっきりしないながらも、犯行動機が子育ての中でのストレス、自分の自由を求めた末の犯行、といった風に理解していたんです。
子育てをする身であれば、逃げ出したいときも多くあり、
発作的に手をかけてしまった犯行は許されるべきものではないけれど、簡単に「ひどい奴だ!」と責める気にならない
そんな風に感じていたと思います。
ただ、
2軒となりの男の子の殺害に関してはどうしても首をひねらざるを得ませんでした。
鈴香の生い立ちなどを報道するニュースに辟易してあえて目をそらしていた部分もあったと思いますが
本を読むと、マスコミ報道だけから得た私の知っている事件像とはまったく別物の、フォーカスすべきポイントが違う事件でした。
まず、そこに驚きました。
鈴香の人間像に関してもまったく違っていて
直情的で乱暴で図太い神経の持ち主みたいなイメージを抱いてましたけど、まったく違ってました。
もちろん、実際の鈴香がどんな人なのかは私にはわかりません。
だけど、本から伝わる鈴香の人間像は、常に何かの恐怖に怯え、おどおどしていて、思ったことをすぐに後先考えずに口走ってしまう、裏表のない人間なのです。
そうすると、事件解明がますます混乱してくるのですが
ここがとても巧妙に書かれていて
ちゃんと紐解けるように構成されてたと思います。
そして、首をひねるような部分に対して
ストンと腑に落ちる仮説を立ててくれています。
そしておそらくそれが事実なのだろうと。
この事件の裁判は物的証拠なしに証言だけで裁いています。
その論告内容ははっきり言ってめちゃくちゃです。
素人が聞いても
それはおかしいんじゃ?
と思うものでした。
鈴香は精神的に追い詰められていた状態であり、問題の日の川へ出かけた時はしんどくて眠たくてぼんやりした状態だったといいます。
そこへ彩香ちゃんが川に転落(したのかどうかも定かではない)というショッキングな出来事を瞬時に記憶の外に追いやってしまったのです。
その彩香ちゃん転落時のことを健忘している事実は複数の精神科医が認めているのですが
検察も裁判所も取り合わず、判決が下されたということです。
本当は覚えているのに忘れたフリをしているのだろう
ということかもしれませんが
じゃあ
「殺意」を持って故意に転落させた
ということはどう証明されたのでしょうか。
また近所の子を殺害した動機を
彩香ちゃん殺害発覚を恐れたため、反社会的行動の意図で
とする論拠がまったく不可解なのです。
ひとつひとつの事件を掘り下げて理解するのは不可能に近いことですが
マスコミで報道されているものとは違った事件像が存在することは事実なのだと思いました。
現に知らなければ、鈴香が彩香ちゃんを手にかけた と信じ込んでいたままでした。
過失はあったかもしれないけど、発作的にでも手にかけたというのは違う
今はそう思います。
近所の男の子の方は、第一審で言われていた
見た瞬間に
数日前までその子と一緒に遊んでいたわが子がいない
(例えば、合格間違いなしと言われていた学校の受験を失敗して近所の子がその学校の制服を着て入学式を迎えた姿を見るとか
スポーツができるのが自慢だった子が事故で足を切断したのに、近所の子は今までと同じように走り回る姿を見る
といった時の感情のような)
そんな思いで切なくなって
発作的に
首を絞めている間に我に帰ることがなく
その間は殺人鬼になっていた
というのが正しいのではないかと・・・。
蒲田慧さんのルポの構成と着眼点、文章において全てが読みやすく惹きつけるものがありました。
犯行の動機も複雑化しているのが事実で
人を殺したら許されるべきではない=極刑が当然 とか
精神鑑定は刑を軽くするための道具 とか
一般の人の想像の域を出たものに関して排斥する形ではなく
もっとちゃんと事件を理解する方が大事なのではないのかな
と思いました。