「年代ものの蚊取り線香」の点火にもたついていると、ふと弟が理科の実験で使った「虫眼鏡」の存在を思い出した。
太陽の光を虫眼鏡で一点に集めると、黒く塗った紙が焦げて燃える、というアレである。我ながらナイス・アイデアだと思ったそうだ。
さっそく弟の勉強机から虫眼鏡を取ってきて、蚊取り線香の先っぽをマジックで黒く塗り、いざ太陽の光を集めようとしたのだが、さすがに屋内ではどうもうまくいかないので、ベランダに出て着火作業を行うことにした。
ベランダは暑い。
焼けついたコンクリート、あたりを見渡すと地面からユラユラと蜃気楼が上がり、さらに隣家の室外機が、彼に向かって、轟音とともに強烈な熱気を放つ。
自然崇拝の古代人のように、Tは懸命に太陽の光を集めた。滝のような大粒の汗が、頬を首筋を背中をつたう。普段そのくらい汗をかいて部活に励めば、彼の柔道の戦歴も、違ったものになっていただろう。
ところがTは、こういう無駄なことには精一杯、汗を流すが、大事な場面では、環境に優しいエコ人間である。 対戦相手と向き合うと、なぜかラブ&ピースなヒッピーと化し、
「負けるが勝ち」などと、
柔道の試合には相応しくない格言を持ち出すので、いつもどう励ましていいのか分からない。
それはさておき、
少し西に傾きかけた太陽は、なかなか虫眼鏡に力を与えない。どうやら蚊取り線香の着火は長丁場になりそうだ。
さらに試練を与えるかのように、植木鉢を置いたブロックの下から数匹の蚊、敵機襲来である。ランニングに短パンという姿のTは、吸血鬼たちの恰好の餌食、「飛んで火にいる夏の虫」の正反対バージョン。
しかし彼はお構いなしに、虫眼鏡に全神経を集中させる。
やがて苦心の甲斐あって、蚊取り線香の先っぽから、先住民ののろしのように一筋の煙が立った。郷愁を誘うノスタルジックな匂い、金鳥の夏、日本の夏。
「やった!」
ところがその瞬間、不運にも彼の額と眉毛の間に溜まっていた汗がポトッと、一番悲劇的なポイントに落下した。
「ジュッ・・・・・・」
今までの苦労が水の泡、金鳥の夏、灰燼に帰す。
その後も線香の先を折ってリベンジしたそうだが、結局、蚊取り線香に火はつかなかった。
反面だけ日に焼けたT、頬っぺたや太ももをボリボリ掻きながら、夕方のベランダに立ち尽くすの図である。
テレビからは「笑点」のテーマソングが聴こえ、あちこちの家々から夕飯の匂いがしてきた。