5月のテーマは「私のお母さん」。貧しくても、忙しくても、子供たちにたっぷり愛情を注いでくれた母親に、感謝の思いを込めたメッセージがたくさん届きました。読ませていただいたこちらもほっこりした気分になりました。サイドバーでクエリ検索


 ■今も昔もお母さんたちはみな働き者です。朝早くから夜遅くまで、家族のために身を粉にして働いています。
 私の母もそんな中の一人。30代で夫を亡くし、ありがたくない現実の中で頑張っていたのでした。私は3人きょうだいの長女。小学校低学年でしたが、母を手助けしなければならない責務がありました。母の言うことには絶対服従。逆らうことなど許されるはずはありません。
 当時の母はいつも怒っていました。看護婦の仕事も忙しく、笑う余裕などなかったのでしょう、きっと。母と私は親子ではなく、ともに生き抜く同志だったのだと思います。
 そんな母は今年102歳。穏やかな日々を楽しんでいます。ありがとう、お母さん。感謝です。(石狩市、二上朋子・78歳)
 ■終戦の年、私は母が30歳の時に4人きょうだいの末っ子として生まれました。
 鉄道員の父、母、子供4人、病床の祖父の7人家族で狭い鉄道宿舎住まい。わが家にはテレビはなくラジオの歌番組を聴き、当時小学生だった私は三橋美智也さんの歌、特に「哀愁列車」をよく歌っていました。
 ある日突然、母から歌のリクエストがありました。恥ずかしがる私に「母さんは隣の部屋で聴くから」と。「惚(ほ)れて、惚れて、惚れていながら行く俺に…」と3番まで、変声期前の美声(?)で歌い終えると、母は戸を閉めていた隣の部屋から大きな拍手を送ってくれました。
 そのうれしさが、いまでも忘れられない思い出です。いま思えば、病床の祖父の看病、子育てと歌どころでなかったからか、母の歌声は聴いたことがありませんでした。(釧路市、田中良積・79歳)
 ■私の母は病弱でした。私たち家族は少しでも母に負担をかけないよう、食事の支度など家事を分担し、母を守りながら暮らしていました。
 私が学校から帰り、寝ている母のもとに一目散に駆け寄ると「お帰りなさい」と言って、いつも頭を優しくなでてくれました。
 そんな毎日でしたが、母は私と兄の誕生日だけは、どんなに無理をしてでも台所に立ち、おいなりさんとのり巻きを作ってくれました。私はうれしくて、そんな母の姿にはしゃぎながら一緒に手伝ったことを昨日のことのように覚えています。
 母の愛情がたくさん詰まったその日の夕食は、とてもおいしく、母がいてくれるだけで家族みんなが笑顔で幸せでした。大好きな、大好きな母でした。(赤平市、秋元いづみ・63歳)
 ■貧しくて内職をしながら知らない土地での子育てに、義父の世話に、と明け暮れた母。一番苦労していた頃、手相を見てもらうと、「年をとるほど楽になるよ」と励まされたそうだ。父と2人、よく働き立派な家を建て、2人で旅行をした。
 父が亡くなって1人暮らしになっても息子一家が近くにいた。叔母たちが遊びに来たし、家庭菜園やゲートボールを楽しんだ。認知症になり、病気や骨折をして96歳になるいまは介護医療院に入所している。
 認知症の人が行方不明になったという話を聞く。清潔なところで安全に暮らせて安心なのに「どこへも行けなくなった。誰も来ない」と言うのが切ない。占い通りになったのだから、昔のように「いまが一番幸せ」と言ってくれないかな。お母さん。(札幌市、小笠原はや子・72歳)

2024年5月18日 5:00北海道新聞どうしん電子版より転載