「医療とは何か」という見出しに、「音・科学そして他者性」という副題を添えた本を1月、藤原書店(東京)から出版させていただいた。
 ここで言う「他者性」とは、2011年3月11日に起きた東日本大震災と福島原発事故に大きな衝撃を受けた私が、「人はなぜ他人の不幸に涙を流すのか」を主題として思索を深めて思い至った言葉である。
 震災のとき、惨状を伝えるテレビ画面に、多くの人がわがことのように心を痛めた。ある患者は涙があふれ、血圧が190まで急上昇して外来受診にみえた。だが、彼は被災地を訪れたこともなく、血縁や知人がいるわけではなかった。
 心を痛めたのは、被災者に対してだけにではない。被災地のがれきの山と荒廃した大地、飼い主を失いさまよう痩せこけた牛の群れや餓死した豚の映像にもむけられていた。
 人はなぜ見も知らぬ他者の苦しみにおのが内奥を揺さぶられ、いのちあるもののうめきに心を動かし哀れみの情を抱くのか。
 震災の被災者に友人の医師がいる私が、にわかに直面した彼の苦難を思いながら心に浮かべたのは「人はなぜ涙を流すのか」と「他者性」への問いだった。
 谷川俊太郎の詩を引用しておこう。
 私は少々草です/多分多少は魚かもしれず/名前は分かりませんが/鈍く輝く鉱石でもあります/そしてもちろん私はほとんどあなたです
(「私は私」から一部を抜粋)
 現代科学の成果によると、地球上のすべての人々の先祖は、60万年ほど前にアフリカで生まれている。つまり、私たちは親元を同じくするきょうだいであり、まるっきりの他人ではないことになる。
 さらにさかのぼるにつれ人間は、霊長類から哺乳類へと姿が立ち返り、5億年ほど前には魚類の形となり、やがては単細胞へとたどりつく。そのゆきつく向こうには元素や素粒子、そしてビッグバンがあり、時間も空間も無に近いプランク時代へと還元されてゆく。
 言い換えると、いま地球上に存在するすべての生きとし生けるものは、宇宙誕生137億年の歴史から紡ぎ出されて来た仲間なのだ。
 被災者と被災地の苦しみに寄せる共感と涙は、私たち一人一人の内奥に潜む、意識を超えたはるか彼方(かなた)で出自を共にしていたころの仲間への懐かしい思い出が呼び起こしたものなのだ。
 「つながりの記憶」つまり「他者と共にある」とは、プランクの時代から、いや、もっと前の究極の始原から、やがて誕生する地球上のすべてのものに付与されていた根源的状況なのだ。
 私たち人間にしても、いつも「我(われ)と汝(なんじ)」という関係性の中で生かされている。「汝」という他者との関係がなければ、「我」という実体など在り得ない。
 しかもこの他者は、それぞれヒトゲノムに基礎づけられた普遍性と独自性を併せもち、何ものにも支配されず侵すべきではない尊厳と個性をもつ自由な存在者、これが「他者」ということになる。
 「他者」から見た「他者」、つまり「我」もまた同じである。「他者と共にある」とはしたがって、「我」も「汝」も同格であり、どちらかが一方的に主格や支配者にはなり得ない関係ということになる。
 「他者」には常に畏れを持たなければならない。この「他者」には、かつての仲間、地球上のあらゆる生きとし生けるものや自然の森羅万象を含めておきたい。
 東日本大震災の被災者の苦しみに心を痛ませたのは、内なる自己としての「他者」からの痛切な呼びかけである。この叫びやうめきに共感を寄せるのは、「つながりの記憶」という究極の始原の自己、つまり存在の根源に立ち返ることである。
 「他者性」とは、こうした根源との関わりから生まれて来た人間本来の姿なのだ。大切にしておきたい。 (方波見康雄=かたばみ・やすお、方波見医院医師=空知管内奈井江町)

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<ふるさとの歴史> 奈井江町の歩みを伝える郷土誌「なえい 41号」(奈井江町郷土研究会、4月発行)に寄稿しました。父が方波見医院を開いてから今日までの1世紀をつづりました。編集事務局を務めた松本正志さん(56)=左=と、佐々木尊嘉さん(41)=右=です=2月

2024年4月27日 5:00北海道新聞どうしん電子版より転載