札幌市西区の介護老人保健施設に飾られたひな人形を見る母(左)と私

記者(57)の母(83)が認知症と診断されたのは4年ほど前です。症状は予想以上の早さで進みました。札幌市西区の一軒家で父(86)の介護を受けながらの2人暮らしは難しくなり、今は市内の介護老人保健施設で生活しています。母の心身の変化や家族の葛藤、時々のさまざまな失敗が読者にも将来、役立つのではないかとの思いから、記者が自らの体験を毎月1回、振り返っています。10回目は母の言動や行動を取り上げます。(くらし報道部デジタル委員 升田一憲)
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 2020年11月、母は介護施設でデイサービスの1日体験をした。当時は介護保険サービスの利用につなげようと必死だった。施設の雰囲気は良く、母は得意の裁縫をして楽しそうに見えた。しかし、母はその夜、「(拘束)時間が長い」「もう行きたくない」と言い出した。そばで聞いていた父が「母さんの意向を尊重したい」と語ったこともあり、その施設の利用には結び付かなかった。

イベントの中止を知らせる張り紙。コロナ禍で自宅で過ごすことが推奨された

当時は新型コロナウイルスの感染が流行していた時期だった。テレワークが急速に普及し、図書館や公民館の利用が中止になるなど世の中に自粛ムードが広がっていた。
■正月の対応で妹と相談
 12月に入り、何かと慌ただしくなってきた。
 私は年末年始を、札幌市西区の実家か、妻(54)の実家がある十勝管内芽室町のどちらかで過ごしていた。子供がまだ小さい頃は、いずれの両親も来訪を楽しみにしていた。大みそかには、食べきれないほどのごちそうがテーブルに並んだ。みんなでNHKの紅白歌合戦を見た。しかし、子供たちが成長するに連れ、次第に遠のいていた。
 認知症の進んだ母の状態を考えると、父と母2人っきりで年取りをさせるのも寂しい。どうしたものか。妹(55)に電話をすると、全く予期せぬことを言い出した。
この後、母が発した言葉、その後の対応などを紹介します。

 「(実家の)お母さんから言われたの。『お正月の料理とかいろいろ大変だから、家に来ないでほしい』って」
 私は驚いた。一つは、「そんなことを考えていたのか」という素朴な疑問。もう一つは、「正月の準備が大変で、自分では無理だと母は十分に予測できた」ということだ。
 母は当時、言葉は出るのだが、相手の言葉が理解しづらくなっていた。話は簡潔に短くする必要があった。母にすべて任せるつもりはもちろんなく、料理も手作りにこだわる必要はない。年末に販売される市販のオードブルを持参し、食器洗いなども手伝うつもりだった。しかし、こちらの意図を言葉で説明しても、母に伝わるかどうか自信がなかった。

布団。寝泊まりするため、4人分の布団が必要だった

相談した際の妻の意見はこうだ。「お部屋の掃除にお風呂の用意。布団も4人分、そろえないといけないわね。(私の家族が泊まる)2階の部屋は相当冷え切って寒いから、納戸からストーブも運ばないと。お母さんの負担を考えて、今年は見送りましょう」
 結局、大みそかは自宅で過ごした。1日に実家に行くと、母はおせち料理をこしらえていた。帰り際に「たくさん作ったから持って行って」と黒豆を容器に入れ、持たせてくれた。
 自宅に帰って口に入れると、妻と互いに顔を見合わせた。とてもしょっぱくて、口の中がすぼむ感じだった。「砂糖と塩を間違え、後で砂糖を大量に入れた感じね」。妻は冷静だった。
 母に黒豆をどう作ったかを、尋ねても仕方がないと思った。数日後に実家に行った際、「おいしかったよ。また、来年も頼むよ」と言った。
 私が食べた中で、あの黒豆は、母の作った最後の手料理となった。
■母が発した意外な言葉

実家にある仏壇。祖父母の位牌(いはい)が置かれている

年が明けたある日。実家の6畳間にある仏壇の前で私が手を合わせていたときだった。チーンと鳴らしたおりんの音で気付いたのか、母が私のそばにやってきた。仏壇に置いてあった祖父母の写真立てをヒョイッとつまみ上げた。自宅の庭で祖父母を撮ったスナップ写真だ。母はすかさず祖母を指で指し、あっけらかんとした表情で言った。
 「この人、いじわるだったの」
 一方、隣りに写った祖父は「この人はね、やさしかったの」。
 私は突然の出来事にあっけに取られた。母に特段、尋ねたわけでも何でもない。「なぜ突然、そんなことを言い出したのだろう」。当時はよく分からなかった。

在りし日の祖父(右)と祖母の写真

ここで、祖父母のことを簡単に触れておきたい。
 1916年(大正5年)生まれの祖母は、樺太(現サハリン)で小料理屋を営んでいた。祖父は電力会社に勤めていた。父は長男だった。樺太での生活はそう長く続かず、父が当時8歳で国民学校2年生だった45年(昭和20年)8月、旧ソ連(現ロシア)軍が樺太に侵攻すると、祖父母、父ら家族は追われるように北海道に引き揚げた。祖父母一家は戦後、小樽で暮らした。
 升田の姓は祖母の家系で、祖父は婿養子だった。そのためかどうか、祖母の発言権が強かったという印象が残っている。
 祖母はどちらかと言うと、好き嫌いがはっきりして自由奔放な感じの女性だった。子供のころ、祖父母、私たち家族の6人で食事をしているときだった。食卓にはサケの切り身が並んだ。祖母はそれぞれの皿の上に乗ったサケの皮をはぎ取り、口に運んだ。私も皮ごと食べたかったが、何も言えなかった。居間で見るテレビ番組の選択権も祖母の意向を反映した。
 祖母と母が衝突した場面を私が直接見聞きしたわけではないが、母は母なりに我慢したことがあったのだろう。
■当たり前だった嫁の役割
 祖父の体調が悪くなると、日常のこまごました世話は多くが母の役目だった。
 「こっちに来ないで。戸をきちんと閉めて」
 和室にいた母から、いつになく厳しい口調で諭されたことがあった。布団の上に横たわる祖父の体を横向きにし、お湯で股間をきれいにふいていた。今のように機能性の優れた紙パンツがない時代だった。
 祖父が病気で亡くなると、祖母は長男である父の家と千歳市内の長女、三男の家で過ごすことが多くなった。今のような介護保険サービスのような制度はなく、それぞれの妻が世話をするのが当たり前だった。
 妹にあらためて祖母と母の関係を聞いてみると、うすうすと感じていたようだ。
 「お兄ちゃんにはさすがにそんなこと言わないでしょ。でも、つらかったみたいよ」
 長年、母の心の奥底に沈殿し、しまい込まれていた祖母への思い。日々の意思疎通は難しくなっているのに、スナップ写真を見て一瞬でよみがえるとは不思議だ。恐らく認知症にならなければ、母はこのような思いを私に吐露する機会はなかったのではないか。
 しばらくもやもやした日々が続いた。意外にもこれらの疑問は早く解決する機会に恵まれた。
■抑制が効かなくなる

札幌医科大学脳神経内科の下濱俊教授(当時

年末年始用の連載企画の準備のため、取材に訪れた札幌医科大学脳神経内科の下濱(しもはま)俊教授の研究室で母のことを話した。下濱教授は2021年3月に定年退職し、現在は札幌医科大学名誉教授で、東京の医療法人社団慈誠会認知症センター長兼慈誠会練馬高野台病院特任院長を務めている。私は実家の仏壇の前で起きた体験談を伝えた。
 「それはお母さんに情感が残っていたんですよ。当然、おしゅうとめさんの悪口になるから、ずっと抑制が働いていたんです。でも、認知症になって脳の前頭葉が萎縮してくると、抑制が効かなくなります。たがが外れたような状態ですね。こらえていたものがなくなると言ったら、分かるでしょうか。専門用語では『脱抑制(だつよくせい)』と言います」
 意外にも認知症が進む過程で、このような現象は決して珍しいことではないという。下濱教授は一例として、人前で脈絡もなく歌い出す、店の総菜コーナーに置かれた食べ物を勝手に食べてしまう―などを挙げた。
■陳列棚の商品をベタベタ
 下濱教授が指摘した「脱抑制」とみられる症状は、その後も時々顔をのぞかせた。当時の様子を記した手帳、ノートをあらためてめくってみると、特に2021年に頻発していた。
 私は母の運動不足を少しでも解消しようと、よく散歩に連れ出した。公園のベンチでひと休みする時に食べようと、おやつを買うこともあった。母は店に入るなり、「あらっ、おいしそうね」「すごいね」と陳列棚の商品を一つ一つ手に取るようになった。ベタベタとさわって、次から次と別の商品に手が移るという感じだ。
 コロナ禍で手指のこまめな消毒が推奨されるなど世の中全体がピリピリしていた。商品がビニール袋に包まれているとはいえ、食べ物だけにちょっとまずい。店員や客がこの母の奇異な行動を見ると、不快感を覚えるのは間違いなかった。すぐに止めないと、トラブルになり兼ねない。
 「母さん、これは商品だからね。触らないようにしようね」。こう諭すのだが、なかなか分かってもらえない。母の手から急いで商品を取り上げ、元の棚に戻そうとすると、「んっ、何で?」という表情をされる。
 特に、総菜パンを棚に積み上げ、レジでビニール袋に一つ一つ入れてくれるタイプのパン店は、一緒に入れなくなった。母と買い物をする時は目を離せず、レジ待ちの間も母を脇で抱えていなければならない。次第に入店そのものをためらうようになった。
■お札を見せびらかした母
 2021年3月。私の長女が札幌市内の私立大学に、長男が公立高校に合格した。
 報告も兼ねてひさしぶりに家族4人で実家を訪ねた時のことだ。

父は2人にそれぞれ入学祝いを用意してくれた。母が子供たちに渡す時、袋から1万円を取り出し、「ほらっ」とヒラヒラとなびかせたのだ。見かねた父が「やめなさい」とたしなめたが、母は気にすることなくしばらくやめなかった。私たち家族は言葉が出ず、しばしぼうぜんとなった。
 あの時の様子をあらためて振り返ると「だんだんと『子供』に戻ってきたのだな」とつくづく思う。認知症関連の文献を読むと、「赤ちゃんから大人までの成長を逆回しするように衰えていく」という記述があった。なるほど言い得て妙だと思った。
 認知症になった男性の場合、性的な行動の抑制が効かなくなって介助をする家族や施設の人を惑わすこともあるそうだ。本人に悪気はないが、そんな性的な行動に直面すれば、周囲の困惑、心労はいかばかりだろう。幸い母は穏やかな性格だったため、大きなトラブルになることはなかった。
 この抑制が効かない状態が現れた期間は1年ほどで、そう長くはなかった。徐々にものごと全般に関心を示さなくなり、表情も乏しくなっていった。当時、母の取った行動の一つ一つが、内面をうかがう貴重な時間でもあった。
 封筒から1万円札を取り出し、ヒラヒラと空中でなびかせたあの一件。孫2人の合格を心から喜び、体全体で気持ちを伝えたかったのだろう。うれしかったんだよね。
 そうだよね、母さん!
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毎月1回、月末に配信しています。次回は、母が初めて「短期入所生活介護」(ショートステイ)を利用した時の反応やその後を振り返ってみます。併せて記事へのご意見、ご感想を募集しています。名前と連絡先を書いてkurashi@hokkaido-np.co.jpへお寄せください。


 升田一憲(ますだ・かずのり) 1966年9月、小樽市生まれ。大学卒業後、3年勤めた銀行を辞め、1994年に北海道新聞社に入社。帯広、室蘭、東京などでの勤務を経て2020年3月から、本社くらし報道部。シニアのセカンドライフや高齢期の課題、お墓や葬儀などのテーマを中心に取材している。

2024年3月30日 10:00(3月30日 12:11更新)北海道新聞どうしん電子版より転載