国内で現役最高齢の女性映画監督、山田火砂子さん(92)の10作目となる映画「わたしのかあさん―天使の詩(うた)―」が30日から全国で順次公開される。知的障害のある母親と、その娘の絆を描く作品だ。山田さんはこれまで孤児救済や障害者福祉、女性の地位向上に尽くした実在の人物らに光を当てた社会派作品を撮り続け、道内ゆかりの作品も多い。弱者に視線を向け、創作を続ける姿勢は一貫して変わらず、高齢になっても情熱は衰えない。その原動力などについて聞いた。
■弱者切り捨ては軍国主義。みんなが手をつなぐ社会がいい
 ――新作は、自分の母親が知的障害者であると知った娘が葛藤する物語です。製作のきっかけを教えてください。
 「2016年に相模原市の知的障害者施設『津久井やまゆり園』で起きた職員による殺傷事件がきっかけです。事件を起こした人は『意思疎通のできない障害者は社会にとって迷惑な存在』と動機を述べました。でも障害は誰にでも起こり得ること。もし自分の親だったら、もし自分だったらどうなっていたのか。彼に聞いてみたかったんです」
 ――新作には障害者の方々も出演していますね。
 「当初、母親役に知的障害の方を考えており、オーディションを行いましたが、演技指導に時間がかかると感じ、諦めました。それでも参加者の中に歌や演技が上手な人がおり、出演してもらいました。東京にある日本初の知的障害者施設を運営した人物を取り上げた映画『筆子・その愛―天使のピアノ―』(07年)では約2カ月間、障害児らと撮影を共にしており、彼らにはその後の作品にも出演してもらっています。今後は障害者も芸能活動できる環境づくりが大切だと思っています」
 ――山田さんにも知的障害児を育てた経験がありますね。
 「結婚して1963年に生まれた長女が知的障害児でした。当時はまだ周囲の理解はなく、障害児を家に閉じ込めている家庭が多くありました。親子で海に入って死んだり、ビルから飛び降りて死んだりする人も。私も何度も死のうと思いました。電車内で障害児を『おばけ』とからかっている女子高生を『何てひどいことを言うの』と叱ったこともあります。私の娘も公園で近所の子に背中に砂を入れられました。叱ったら夜に家に謝りにきました。『弱い者いじめは良いことではないのよ』と言いきかせました。当時はなぜ自分だけがこうなのかとか、どうしたらいいのかとか、悩んでいました」
 ――山田さんの実話を基にしたアニメ映画「エンジェルがとんだ日」(96年)には学校に入れなかったというエピソードが描かれています。
 「当時、障害児の親は子供が学校の勉強についていけないという理由で『就学猶予』という名目で書類を提出させられていました。学校側が受け入れを拒否すると教育の平等に反することになります。だから親に提出させるのです。娘は国立の特別支援学校に進学しましたが、受け皿がない時代でした。81年の国際障害者年をきっかけに日本も外国のまねを始め、86年に障害基礎年金の支給が始まりました。日本はいつも外国の後追いです」
 ――山田さんは後に映画製作会社「現代ぷろだくしょん」社長の山田典吾さんと再婚し、プロデューサーを経て64歳で監督を始めました。振り返っていかがですか。
 「昔は知的障害の娘をおんぶしながら仕事していたので『子連れ狼(おおかみ)』と言われましたよ。この子を育てるため、必死で本を読み、福祉の勉強をしていました。映画なんてどう撮ればいいのか分かりませんでした。そんな時に出合ったのがジョン・カサベテス監督の米国映画『愛の奇跡』(63年)です。知的障害児と音楽教師の交流を描いた作品で、自分が進むべき道を示してくれました。私の映画人生は奇跡の連続。映画製作に賛同してくれる団体や個人から資金を集めて全国各地の劇場や公民館などで上映してきました。協力してくれる方が多く、感謝しています」
 ――北海道を舞台にした作品も多いですね。
 「オホーツク管内遠軽町に、非行や虐待などが原因で家庭生活ができない少年たちが共同生活を送る児童自立支援施設、北海道家庭学校を創設した人物を取り上げた『大地の詩(うた)・留岡幸助物語』(2011年)があります。彼は刑務所の前身だった空知集治監(三笠市)の教戒師を務めた経験から非行防止には家庭環境が大切だと説いた人物です。映画は現地をはじめ、道内各地でロケしました。アニメ映画『明日の希望・悲しみよありがとう 高江常男物語』(13年)は、右目を失明、両腕を失いながらも障害者の自立を目指し、クリーニング事業を行う社会福祉法人北海道光生舎(赤平市)を設立した人物を取り上げました。『一粒の麦 荻野吟子の生涯』(19年)は、檜山管内せたな町で診療所を開いた日本初の女性医師が主人公です。大学医学部入試で女子受験生を不合格にした差別に対する憤りをもって映画を完成させました」
 ――旭川出身の作家、三浦綾子さん原作の映画も2本手がけています。
 「『母 小林多喜二の母の物語』(17年)は、戦時色が強まる中で特高警察の拷問で亡くなった小樽ゆかりの作家、小林多喜二の母の人生を描いています。『われ弱ければ 矢嶋楫子(かじこ)伝』(22年)は明治、大正期に女子教育などに尽力した人物を取り上げました。小学校教師だった三浦さんは軍国主義教育を悔いて戦後に退職しています。国に裏切られた思いは痛いほど分かります。それに当時は男性優位の社会で、女性は何事も運命だと諦めていた。運命とは命を運に預けること。そうではなく、命を使ってそれぞれが使命を果たしていたら戦争は止められたかもしれないのにと思っています」
 ――中国残留孤児の肉親捜しに尽力した人物を描いた『山本慈昭(じしょう) 望郷の鐘―満蒙開拓団の落日―』(14年)に「国家に尽くした日本国民は加害者であって被害者であった」という言葉が出てきます。
 「この言葉は戦争体験がある人なら実感が持てるのではないでしょうか。東京大空襲(1945年)の時、私も火の中を必死で逃げ回った記憶があります。戦争が終わって自由になったと言われても『自由』という言葉の意味を知らないからぼうぜんとしました。二度と戦争はしてほしくないです」
 ――山田さんは映画で、孤児や障害者といった弱い立場の人たちと、彼らに手を差し伸べる人を取り上げてきました。そうした題材を選ぶ理由は何ですか。
 「戦争体験が大きいですね。戦時中、国が武器弾薬を作っている間、障害者ら弱い立場の人たちは差別を受けていたんです。武器弾薬ではなく、弱者にお金をかけてほしい。弱者を切り捨てると強者だけの世の中になる。それは軍国主義につながるんです。弱者を切り捨てるのは簡単ですが、共に連れて歩くから平和国家が維持できる。『ここまでできなきゃだめ』と言うのは強者の論理。みんなが手をつなげる社会の方がいい。私はまだまだ映画を撮りたい。たとえ世間の風当たりが強くても、一粒の麦のようにそこから何かが生まれるかもしれないと信じています」
 <略歴>やまだ・ひさこ 1932年(昭和7年)、東京都生まれ。10代から女性の音楽バンド「ウエスタン・ローズ」の一員として活動後、舞台女優に。結婚し、2女をもうけた後、離婚。映画製作会社「現代ぷろだくしょん」を創設した映画監督の山田典吾さんと再婚した。74年のドキュメンタリー映画「太陽の詩(うた)」から映画製作に関わり、プロデューサーを経て96年のアニメ映画「エンジェルがとんだ日」から監督を始めた。新作「わたしのかあさん―天使の詩(うた)―」が10作目となる。98年に典吾さんが死去し、現在は同社社長。東京都で1人暮らし。
 <ことば>映画「わたしのかあさん―天使の詩(うた)―」 児童福祉文化賞を受賞した菊地澄子さんの原作「わたしの母さん」を映画化。周りの大人とちょっと違う言動をする母親、山川清子(寺島しのぶ)を小学生の娘、高子(落井実結子)は恥ずかしく思っている。ある日、高子は両親が知的障害者と知り、激しく動揺する。やがて成長し、障害者福祉施設の園長になった高子(常盤貴子)は、純粋な心で分け隔てなく周囲の人たちを受け入れた母親の思い出をたどっていく。
 <取材後記> 今年2月、東京で開かれた新作映画の完成披露試写会。舞台に立った山田さんは「知的障害の子がいなかったら私なんか、とっくに死んでいます」とあいさつした。知的障害の長女を産み、育て始めた1960年代は、障害者に対する社会の理解も支援もまだまだ足りなかった。インタビューでは「何度も死のうと思った」と打ち明けた。一方で、児童相談所では「『ほかのお母さんたちは泣きながら来るのに、笑って来るのはあなただけです』と言われた」とも。泣いてなんていられない。山田さんは映画という手段で自らの体験からくる国や社会への怒りを訴え続けてきたのだろう。そのパワーに頭が下がる思いだ。

山田火砂子さん(玉田順一撮影)

2024年3月27日 9:59(3月27日 15:58更新)北海道新聞どうしん電子版より転載