記者(57)の母(83)が認知症と診断されたのは3年ほど前です。症状は徐々に進みました。札幌市内の一軒家で父(86)との2人暮らしは難しくなり、今は介護老人保健施設で生活しています。父は1人暮らしになりました。母の心身の変化や家族の対応、時々のさまざまな失敗が読者にも将来、役立つのではないかとの思いから、記者が体験を毎月1回、振り返っています。7回目は、母が残していた日記や家計簿などを頼りに、考えていたことや心のありようがどう変わったのか探ってみます。(くらし報道部デジタル委員 升田一憲)
「もう一度話したい~認知症の母の記録~」の一覧はこちら
■読者からのポインセチアに、「わーっ」
 母は、最も一般的なアルツハイマー型認知症ではなく、前頭側頭型認知症、または嗜銀顆粒性(しぎんかりゅうせい)認知症と診断されている。症状を簡単に言うと、脳細胞の主要な器官のうち、言葉をつかさどる側頭葉が萎縮し、大きく損傷を受けているため、言葉でのやりとりができない状態だ。

読者からいただいたポインセチアに見入る母(左)と私

 

 認知症と一口に言っても種類は実に多く、症状もさまざまだ。簡単なあいさつを交わしたり、ゆっくり話すとある程度の意思疎通のできる人は決して少なくない。しかし、母の場合はどちらかと言えば、言葉に支障をきたす失語症に近かった。週1度のペースで札幌市内の介護老人保健施設へ行き、母と面会しているが、「最近はどうだい?」「元気だった?」などの短いやりとりも完全に不可能になった。

介護老人保健施設の廊下を歩く母(左)と父

 

言葉のやりとりができないので、こちらの意思をどう伝えたらいいか、いつも悩む。一緒に面会に行く父も手持ちぶさただ。私は少しでも体を動かせたいと思い、面会場所で「廊下を少し歩いてみようか」と促すのだが、なかなか立ってくれない。ジェスチャーを交えて立つまねをするが、腰を上げてもらうのもひと苦労だ。
 12月上旬の面会では、このデジタル発「もう一度話したい~認知症の母の記録~」を熱心に読んでいる方からポインセチアをいただいていたので、施設に持って行った。「お母さんにぜひお渡しください」とことづけもあった。実に立派に赤く色づき、見栄えが良かった。
 残念ながら母から言葉はなかったものの、「うわーっ」という感じで、視線は自然と花びらに向かっていった。花に手をかざし、しばらく見とれていた。気分が少しでもはなやいだような気がして、私もうれしかった。

母が残していた日記帳と家計簿

 

母の気持ちはもはや表情からうかがうしかない。それなら「何か文章で書き残していなかっただろうか」と思っていたところ、父が母の日記や家計簿などを残していた。母は筆まめで、私によく手紙も送ってくれた。
 「これらを読めば、母の気持ちの変遷、認知機能の変化などをたどることができるのではないか」と考えた。ただ、母はこれらの文章を息子に読まれるとは想定していなかったはずだ。ましてや、内容の一部を公開されるなどとは夢にも思わなかったに違いない。
 「母さん、すまないね。読ませてもらうよ」。私は心の中で手を合わせ、ページをめくった。
 記事の後半では、日記の中身を紹介します。初めて知らされることも多く、母の気持ちを考えてみました

■何でもメモして、筆まめだった
 日記帳は黒い表紙の厚さ1センチほどのノートを代用したもの。定規を使って西暦に昭和や平成の元号、月日の項目をつくり、時々の行事や思いが鉛筆で書かれていた。
 冒頭に、母の年譜がまとめられていた。1940年(昭和15年)に生まれ、5歳で終戦を迎えている。樺太(サハリン)から引き揚げ後、小樽市内の小、中、高校を卒業して、就職。1965年に父(86)と結婚し、私が翌年の1966年、妹が1968年に誕生などと書かれていた。
 日記は、1990年(平成2年)の元日から始まっていた。理由はよく分からなかったが、その年の6月に「満50歳のバースデー」とある。節目の年を迎えるに当たり、書き始めたのだろうかなどと思いを巡らせた。
 体裁は一行日記のようだった。ひと月に4、5本。多い月だと7、8本はあるだろうか。いずれも1、2行程度の簡単なものだ。「〇〇さんと食事に行った」「〇〇へ墓参りをした」など行事や催しなどに合わせて書いている。「香典代〇万円」「進学祝い〇万円」などの数字が目立つ。備忘録の意味合いもあるのだろう。

誕生祝いのケーキの前でポーズを取る愛犬ボブ

 

■「ボブ」が家族に 世話係を一手に
 懐かしく拾い読みをしていると、「ボブ」がやたらと出てくることに気付いた。ボブとは当時、実家で飼っていたシーズー犬(雄)の名前だ。毛がふさふさとして愛らしい小型犬だった。私には懐かなかったが、母がことのほかかわいがっていた。
 1991年 1月 ボブが我家の家族になる。可愛いいが育てるのが大へん
   91年 4月 ボブを初めてカットに連れて行く
       8月 ボブのからだに出来たおできが治らず、病院へ行く
   93年11月 3回目のバースデー。ショートケーキでお祝いする(いずれも、原文ママ)
 毎年の誕生月は必ずケーキを買い、家でお祝いをしていたようだ。ところが、1998年12月に「食欲がなく入院する」と書いてあった。
 1999年に入ると、ボブを頻繁に病院に連れて行く様子の記述が目立つ。
 

 

3月は「薬湯に入れる」、8月は「夕方まで点滴してもらう」。10月はとうとう動物病院への入院を余儀なくされた。翌日の早朝、母は「見舞に行く。ガラスのケースに入っていて、声をかけるとシッポを振ってくれた」。その後、母は家にいったん家に戻るのだが、ボブの容体が急変したようだ。午前11時30分、母は再び病院に戻ったが、死に目には間に合わなかった。
 次の一文を読み、息が一瞬、詰まりそうになった。
 「涙がとまらない。ぬくもりのあるボブをもう一度、抱きしめたい」
 亡きがらは家に連れて帰り、その晩、父と母は和室にそれぞれ敷いた布団の真ん中にボブを置き、川の字になって寝た、とあった。
 私は当時30代前半で、帯広の報道部に勤務していた。連日多忙だった。ボブが死んだことは母から電話で聞かされていたが、「こんな思いをしていたのか」。初めて知ることばかりで、胸がいっぱいになった。

写真が取り除かれ、カラになったアルバム

■大半の写真が捨てられ、ボブが残った
 同時に、「あっ、そうだったのか」とも思った。「写真の一件」に思いを巡らした。
 写真の一件とは、認知症の症状が母に現れ始めた2019年ごろから、自宅に保管されていた大量の写真を母が処分、捨てていた“事件”だ。母はその前ごろからモノの整理に執拗(しつよう)にのめり込んでいた。自宅にモノが大量に残っていれば、私や妹に将来、迷惑を掛けると思ったのだろうと推察する。
 私は2020年に日高管内新ひだか町の静内支局から札幌本社のくらし報道部に異動し、定期的に実家に立ち寄れるようになった。だが、母に会うたびに私物を自分のマンションに持ち帰るように指摘され、実はへきえきしていた。認知機能がかなり落ちていてもその行動、傾向に変化がなく、「なんでこんなにこだわるのだろう」と不思議だった。

その間、母は1人になると2階の自分の部屋にこもり、アルバムから写真をはがしていたようだ。
 父が当時を振り返る。
 「ビニール袋に入れられたごみをそのまま、言われるまま捨てていたが、あるときから要るモノ、大事なものもごっちゃにしていたことが分かった。(自治体などから送られた)書類もなくなっていた。だから、ごみを出す時は、私が必ず確認するようにしたよ」
 思い出のたくさん詰まった写真はあとかたもなく消えていた。
 「母さんの結婚式当日、近所の人たちから祝福されている様子の写真があったな」「幼少時、母に背負われてアイスキャンディーをなめている写真もあったはずだが」―。そんなことを思い出しながら、空のシートを1枚、1枚とめくった。

アルバムを引っ張りだしては見ていると、写真がびっしり入ったアルバムが1冊だけ残されていた。いずれもボブが映っていた。母がボブを抱きながら、ほおずりしている写真もあった。車で郊外にドライブに行き、観光地でボブと納まるスナップ写真も出てきた。
 認知機能が幾分落ち始めの時でも、思いのこもった写真は意識的に自然と残していたのではないだろうか。でも、私の子供の頃の写真を含めてなぜ大量に捨てているのだろうか。その違いは何だったのか。人の脳の不思議さに思いをはせつつ、私はしばらくそれらの写真に見入った。
■陶芸の友人と食事に、旅行に…
 日記をさらに読み進めた。「陶華(とうか)会」という見慣れぬ名称が頻繁に出てきた。
 2007年 6月 陶華会の皆と知床へ
   07年 9月 陶華会の5人と旭山動物園へ行く
   07年12月 陶華会、杉ノ目で昼食会
 母はこの陶華会の人たちとは随分と一緒に外出し、食事にも行っていたようだ。
 気になった私は父に尋ねると、「それは趣味でやっていた陶芸サークルの集まり。随分とあっちこっちに行っていたよ」とのことだった。

 

母が陶芸教室で作った作品

 

 父は、手書きの名簿録を引き出しから見つけ、1人の女性の欄を指した。「この方からはよく手紙が届き、電話でもやりとりしていたな」。陶華会のメンバーの1人だった。
 後日、連絡を取り、札幌市南区の芝木ミツさん(93)宅のマンションにお邪魔させてもらった。ご主人を8年前に送り、現在は独り暮らし。数日前に室内で転倒し、胸に巻いたコルセットが少々痛々しかったが、お元気そうだった。母のちょうど10歳上。快活で几帳面なお人柄がしのばれた。記憶力も確かで、実にうらやましかった。
 母は当時、道新文化センターの陶芸教室に通っていたが、陶華会はその教室仲間のうち、特に親しくなった60~70代の女性6、7人でつくった会に名付けた名称だった。
父は、手書きの名簿録を引き出しから見つけ、1人の女性の欄を指した。「この方からはよく手紙が届き、電話でもやりとりしていたな」。陶華会のメンバーの1人だった。
 後日、連絡を取り、札幌市南区の芝木ミツさん(93)宅のマンションにお邪魔させてもらった。ご主人を8年前に送り、現在は独り暮らし。数日前に室内で転倒し、胸に巻いたコルセットが少々痛々しかったが、お元気そうだった。母のちょうど10歳上。快活で几帳面なお人柄がしのばれた。記憶力も確かで、実にうらやましかった。
 母は当時、道新文化センターの陶芸教室に通っていたが、陶華会はその教室仲間のうち、特に親しくなった60~70代の女性6、7人でつくった会に名付けた名称だった。

陶華会の友人と旅行に行った際のスナップ写真

芝木さんは「作品づくりはどうしてもいろいろな人に影響されるんですけど、ナエチャン(母をそう呼んでいたよう)は人のまねをせず、自分は自分という感じで熱心に取り組んでいましたね」と振り返ってくれた。
 残念ながら、陶華会は会員の高齢化もあり、活動は休止状態になっていた。写真好きな芝木さんは、陶華会のメンバーと一緒に行った旅先のスナップ写真を机に広げ、解説を交えて見せくれた。笑顔の母の姿もあった。「なんだ、母さん。随分といろいろな所に行って。楽しそうじゃないか」と心底思った。

芝木ミツさんと旅行先で記念写真に納まる母(左)

母が認知症になって以来、私は気分的に落ち込むことがたびたびあった。ちょうど新型コロナウイルスの感染拡大の頃とも重なり、ストレスがたまった。うまく発散できず、イライラが募る。すると、時に他者に攻撃的な物言いになったり、トラブルを引き起こしたりすることもあった。それでも、時間の経過ととともに母のこの現実は受け止めるしかないと思うようになっていた。「同じ世代の友人と一時期でも楽しいひとときを過ごしていたのか」。改めて母の一面を知ったのは私にとって良い慰めになった。
■時間の経過と共に記述は少なく
 話が少しそれた。また、日記に戻りたい。
 結局、丹念に読んでみたものの、当時の心境などを記したものは何も書いていなかった。これは少し残念だった。一方、母の認知機能の衰えは、文章を見れば明らかで、時の経過とともに確実に現れていた。

2018年から、おかしな文章がところどころ出てきた。2019年になると、文が極端に短くなり、記述が淡白になった。祖母の月命日の13日は「お布施」とだけ書かれるようになった。それでも、この年はやたらと、「音楽教室」の記述が目立った。回数は月におおむね2回から3回。母は10年以上前から、バスに乗り、地下鉄沿線の音楽教室に定期的に通っていた。同年代の女性6、7人と歌謡曲から童謡、Jポップに至るまでさまざまな歌を歌っていた。
 「ちょうど、認知機能に陰りが出ていたころで、何かあったかも知れない」と思い、音楽教室の講師に聞いた。
 私は講師に母が認知症になったことを告げると、とても残念がっていた。ただ、歌のレッスンの間は、認知機能の低下には気づかなかったようだ。

母が音楽教室で歌っていた楽譜

「升田さんとは10年以上のお付き合いです。いつもニコニコして穏やかな方でしたね。とても楽しみにしているのがよく分かりました。毎回、次の回で歌う曲目を口頭で伝え、きちんと自らメモをして楽譜を持って来ていただいてました。ただ、後半は、耳が遠くなったのかなあと思っていました。片方の耳が聞こえていないという感じもありました」
■新型コロナで音楽教室が休止に
 教室でのコーラスは、新型コロナウイルスの感染拡大で2020年3月に突然、休止となった。その後は母と会っていないという。講師は「年齢が80歳前後にもなると、体力の面もあってコーラスを続けるかどうか、みなさん悩まれるんです。それが、コロナで何の前触れもなく絶たれてしまいました。本当につらく、悲しいことでした」と話した。
 母は教室で、コーラス仲間とおしゃべりし、その後のお茶や買い物などを楽しんでいた。しかし、それ以降は家にこもる毎日が続いた。2020年は月と日を書くための枠が定規で引かれてあったが、一切書かれていない。日記を付ける意欲も失ったのだろうか。

 家計簿の中ものぞいてみた。ちょうど、2020年と2021年の2冊が残っていた。時々の買い物の品目と値段が実に几帳面に書かれていた。スーパーのレシートを頼りに、家に戻った後に転記していたのだろう。

スーパーで買っていた食材を細かく記入していた家計簿

2020年の初めは、キャベツやほうれん草などの野菜を買い込み、まだ何とか料理をしていた形跡がうかがえる。しかし、春以降になると、「おかず」の記述が目立つ。スーパーで出来合いの総菜を買っていたのだろう。
 夏ごろから、レシートを家計簿の余白にホチキスで留めたまま、転記忘れもあった。品目を一つ一つ書くのも億劫(おっくう)になったのか、スーパーで買った総額の数字だけ記入していた。
■忘れたくなかった長男、長女の名前
 母は日々、衰える認知機能の低下を自覚し、「何とかしないといけない」と思っていたのは間違いない。
 居間の机の上に私と妹の名前、生年月日が書かれた紙片があった。何度も触れているためか、しわしわになっていた。父は「何度も繰り返し、読んでいる」と言った。

間違ったルビの振られた家計簿

 

言葉が次第に出てこなくなると、辞書を引く頻度も増えた。父がその姿をよく見ていた。「家計簿」の表紙になぜか母の字でルビが振ってあった。恐らく、毎日手にするのに「これは何と読むのだろう」と思ったのだろう。だが、そこには、「か せい ぼ」と振られていた。
 自治体の名称を記入した紙片も残っていた。「北海道」「札幌市」「小樽市」「千歳市」…。
 よく子供が漢字を覚えるため、ノートに何度も書いて覚えるようなものだ。子供時代に戻ったかのように母が鉛筆を握り、机の上で背を丸くして格闘する姿が目に浮かぶ。母にとっては必死の抵抗だったろうが、あらがうことはできなかった。
(くらし報道部デジタル委員 升田一憲)

 毎月1回、月末に配信しています。次回は、通所介護(デイサービス)を利用しようとしたときの母の対応を振り返ります。併せて記事へのご意見、ご感想を募集しています。名前と連絡先を書いてkurashi@hokkaido-np.co.jpへお寄せください。

 升田一憲(ますだ・かずのり) 1966年9月、小樽市生まれ。大学卒業後、3年勤めた銀行を辞め、1994年に北海道新聞社に入社。帯広、室蘭、東京などでの勤務を経て2020年3月から、本社くらし報道部。シニアのセカンドライフや高齢期の課題、お墓や葬儀などのテーマを中心に取材している。

2023年12月30日 10:00北海道新聞どうしん電子版より転載